土くれの騎士
ヒッガは突然現れた男の妙な雰囲気に気圧され、大きくその場から飛び退った。
「……てめえ、俺の邪魔をする気か? 俺が誰かわかってやってんのかよ?」
「さあね。ですが、私の探してる人ではないということくらいはわかります。実はいま、私はとある女を探しているのです。知っていますか? メニオールという女性ですが」
「メニオール……?」
聞いた名前だった。確か、スカーに成り代わってこの街で生活していたのがそういう名前の女だったはずだ。
「その女がどうしたってんだ?」
「勝負の途中だったのです……決着をつけなければならない」
男は剣を構えた。その構えは、王国騎士たちの剣術と見て間違いない。
盗賊家業で生計を立てる際、数多くの騎士たちと戦ったことのあるヒッガには、それがよくわかった。
「てめえ、騎士かい?」
「そうだった、と言った方が正しいですかね。そんなことより答えてくれませんかね、ブ男さん。知っているのか、知らないのか」
ブ男と呼ばれ、ヒッガは笑みを浮かべた。誰であろうと、こいつは死刑で決まりだ。
「知ってると言えば知ってる。知らねえと言えば知らねえ。俺だって、その女を探してるんだぜ……」
「ほう? 何のために?」
「『ペッカトリアのため』さ。この奴隷どもを処分するのも、その一環だ。メニオールは何にでも変装しちまうらしいからな。隠れ蓑になる人間を、みんな殺しちまおうって算段だ」
するとその騎士はすっと目を細めた。
「正気ですか? たかが女一人のために、皆殺しとは?」
「『ペッカトリアのため』さ」
ヒッガは、その大義を繰り返した。この言葉は、あらゆる行為の免罪符になる。この旗印の下では、何をやっても許される。
「まあ、あなたの気持ちもわからないでもない。私とて、所属する国のために一人の女を殺すことに必死になっていましたからね。いまから思えば、どうしてあそこまでフォレースに忠誠を尽くす必要があったのか理解できませんが」
騎士はそう言ってから、考え込むように視線を落とした。
「……いや、きっと女神の寵愛を受け続けるために、そうする必要があると思い込んでいたのでしょうかね? よくわかりません。私はもう、元の頭でものを考えられなくなってしまいましたから……」
「てめえが何を言ってるのかさっぱりだぜ。俺の邪魔をするのか? しないのか? え、騎士サマよ?」
「さっきあなたは、自分のことを理不尽の体現者と言いましたね、ブ男さん?」
騎士は顔を上げ、じっとヒッガを見つめてくる。
「そうとも。俺はこの世に理不尽をまき散らすのさ! 俺の行為に、一切の理由は存在しねえ!」
「あなたのエゴという理由があるではありませんか。それは理不尽でも何でもない。あなたが自分のやることを理不尽だというなら、あなたに対して私も同じことができますよ」
「俺とやろうってのか? へっへ! お行儀のいい剣に、俺が切れるかな……?」
「あなたは幸運ですよ。私はいまあらゆる重圧から解き放たれて気分がいい!」
声高に叫ぶと、騎士は左手をヒッガに向けて伸ばした。
その瞬間、ヒッガはぞくりと寒気を覚えて動けなくなった。
(な、何だこの悪寒は……?)
何が起こったのかわからずにいると、さらに事態は意味不明な展開を迎えることとなった。
騎士の左手がどろりと溶ける。
ヒッガはそれを一瞬目の錯覚かと思い、ドキリとした。
溶けた騎士の左手は細い糸のようなものに代わり、一直線にヒッガに向かってくる。地面から泥が沸き立ち、その細い一撃を補強するかのように渦を巻く。
渦巻く泥の奔流をまともに食らい、ヒッガはその凄まじい衝撃で吹き飛んだ。
「……ううっ、くそ……」
泥にまみれて目が開けられず、視界が暗い。
ヒッガにとって、視界を奪われることは大きなトラウマだった。昔、容姿の醜悪さを理由に周りからいじめられていたとき、よく顔に布を被せられて殴られたからだ……。
目元を拭い、粘性の泥の中から必死に出ようともがいていると、頭上から声が響いた。
「……これは悪いことをしましたね。本来、私の魔法は身体強化なんですが」
「……え?」
「いまはどこまでが自分の身体かわかりません。いまの入れ物に力を込めると、どうも地面の土が一緒になって動いてしまうようでして」
脇腹に強烈な痛みが走り、ヒッガは呻き声を上げた。
見ると、男の剣が自分の脇腹に突き刺さっているではないか。
「ぐ、ぐう……!! てめえ……」
「……汚らしい血だ。あなたはどこまでも醜悪な生き物ですね」
ヒッガにまとわりつく泥が固まっていき、巨大な手のかたちになる。
男の左肩から伸びた細い糸のようなものが地面に垂れ、その異様な手と繋がっていた。
ヒッガはみしみしと締め上げてくる巨大な手の中で、必死になってもがいた。
「て、てめえ、化け物か……?」
「あなたに言われてはおしまいですよ」
男は楽しそうに笑いながら、さらに土でできた巨大な手に力を込めてくる。
このままでは、握りつぶされて終わりだ――そう悟ったヒッガは渾身の力を込め、化け物に向かって魔法を放った。
……対象の温度上昇。
単純化すると、自分の魔法にはそれだけの力しかない。
しかし、ヒッガ自身はこの力をとても気に入っていた。
範囲はおおよそ三メートル――その範囲内にあるものの温度を、急激に高めることができるのだ。
一番好きなやり方は、人間の血を沸騰させてやることだった。穴という穴から血の蒸気が吹きだし、もがき苦しみながら死んでいく人間の様子を眺めるのは、ヒッガにとって何事にも代えがたい娯楽の一つだった。
皮膚を溶かしてやってもいい。焼けただれた皮膚の下から漂ってくる、焦げた肉の匂いを嗅ぐのもなかなか趣がある。
とはいえ、いまはそんなことを楽しんでいる余裕はない。
何と言わず、ただ敵に向かって全力で魔法を放ち続ける。
次第に男の身体から蒸気が上がり始め、ヒッガは口角を上げて笑った。
「ハッハッハ! 熱いだろ!? 残念ながら、てめえはもう助からねえ!」
「助からない?」
「そうさ! 俺の魔法は熱だ! これまでの実験で、どれだけの熱を与えれば人間が死ぬかちゃんとわかってる! 熱は、生物の細胞をグズグズにしちまうのさ!」
「では、私も実験をしましょうか。どれだけの圧力を加えれば、人間は死ぬのか……」
締め上げてくる敵の左手の力が増し、ヒッガは狼狽えた。
「え、ちょ……て、てめえ、なんでまだ立っていられる……?」
「なんで? 渇きを感じますが、それだけですよ」
辺りにもうもうと水蒸気が立ち込め、ヒッガの視界は今度白く閉ざされた。
敵が見えなくなった途端、恐怖がトラウマとともに襲ってくる。
自分の陥っている状況が理解できず、ヒッガは混乱して方々に向けて怒鳴り散らした。
「く、くそ! どうなってやがる! これは夢か!? 夢なんだろ!?」
「いいえ、現実です」
淡々とした声だけが返ってきて、それがまたヒッガを怯えさせた。
「嘘だあ! だ、だったら俺がこんな目に遭うのはおかしいじゃねえか!? 俺は囚人なんだぞ! この世界で、ずっと楽しく暮らすんだ!」
「あなたが大変な目に遭うのに、理由はいりませんよ。あなた風に言えば、これが理不尽というものでしょうか? 私風に言わせてもらうと、単なるエゴですが」
「エゴ……?」
「ええ。あなたの言動は醜く、私を不快にさせた。そして私は、あまり我慢強い方ではない」
白い煙の向こうから銀色の何かが飛び出し、ヒッガの頭蓋を貫いた。
焦点の狂った目で自分の両眼の間を通るものをしげしげと見ると、それが男の持っていた剣であることがわかった……。
(なんでこんなもんが俺の顔に刺さってるんだ……?)
それが、ヒッガの最後の思考となった。




