理不尽の体現者
日が傾き始めたころ。
ゴスペルの屋敷にやってきたヒッガは、その建物がボロボロに崩れ去った廃墟然としたたたずまいになっているのを見て、思わず眉をひそめた。
「どういうことだ、こりゃあ……?」
庭に足を踏み入れると、奴隷と思われる者たちがひとところに集まって座り込んでいるのを見つける。
ヒッガはニヤリと笑うと、彼らに大声で話しかけた。
「よお、お前らはここの奴隷か?」
「は、そうでございます……」
「この屋敷のありさまは何だ? なんでこんなことになってる?」
「昨日、巨大な竜が現れたのでございます……その竜が暴れて、お屋敷が破壊されてしまいまして……」
奴隷の言葉を聞き、ヒッガは、ボスとスカーが今日の昼にフルールの怒りなる暴竜と戦ったという話を思い出した。
(この街には、いまその竜がたびたび現れていやがるってのか?)
それにしても、なぜその竜はゴスペルの屋敷など襲ったのだろうか。
「ゴスペルはどうした?」
「わかりません……ひょっとしたら、まだ崩れた建物の中にいらっしゃるのかも……」
それでヒッガは、また廃墟と化したゴスペルの屋敷を見つめた。
「この中を探してまで、話をするのは無理だな。いや、話なんて最初からする気はなかったけどよ」
「囚人さまは、ご主人さまを救出にこられたのではないのですか?」
「いや? 俺はただ、理由を聞きにきたんだよ。集合命令に従わなかった理由をな。だが、やつの事情はおおむね把握できた。なるほど、ゴスペルの野郎は竜に襲われて生死不明、と」
生死不明と聞いて、奴隷たちの顔色が変わる。
「ご主人さまは生きていらっしゃいます! きっと……」
「主人思いのいい奴隷だ! あいつはいい囚人だったかい?」
「それはもちろんでございます! とても優しくしてくださいました……ときに、わけのわからない姿をさせられたりもしましたが……」
「なるほど、なるほど」
ヒッガはまたニヤリと笑う。
「ゴスペルのやつが、生きてるといいなあ……でも残念ながら、いまのところやつの状況がわからねえ以上、お前たちの所有権を決め直さねえといけねえな。奴隷は囚人の財産だからな」
「……え?」
「俺が貰ってやるよ。主人思いのいい奴隷だ。これからは、俺に忠誠を尽くせ」
「し、しかし……」
奴隷たちは途端に怯えたような目になり、それが一層ヒッガを興奮させた。
「おいおい、不服だってのか?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「じゃあ決まりだな。立て」
奴隷たちが立ち上がる。ヒッガはその中で一番器量のいい女奴隷に目をつけると、彼女に近づき猫なで声を出した。
「お前は美しいな。さぞ、ゴスペルのやつを楽しませたんだろ?」
「……そうであれば幸いです」
「とぼけるなよ! あっちの奉仕もしてたんだろ?」
すると、彼女はさっと顔を赤らめた。
「ご主人さまは、そのようなことをお求めになりませんでした……」
「おい、そのご主人さまってのは誰のことだ? お前のご主人さまは、目の前にいるヒッガさまだろ?」
ヒッガが語気を強めて言うと、彼女はさっと血の気が引いた様子で震え出す。
「も、申し訳ございません……」
「覚えとけ、俺は嫉妬深いんだ。自分の所有物が、他の人間の話をするなんて耐えられねえ。俺の所有物は、俺だけを楽しませるべきだ……」
女奴隷の顎を掴み、思い切り力を込める。ミシミシと骨のきしむ音が響いた。
「悪い口だ。俺以外の人間のことを話す悪い口……お前はただ俺を見て、俺のことだけを考えていればいいんだ。わかったか?」
女奴隷は必死になって頭を縦に振ろうとするが、ヒッガに顎を押さえられてその動きもままならないようだった。
ミシリと一際大きな音が響き、女の顎が外れた。そのときになって、ようやくヒッガは彼女を解放した。
女は苦しみの声を上げ、顔を押さえてうずくまる。
「これでようやく見える顔になったな。俺は綺麗なものを見ると、無性に叩き潰したくなるんだ。なぜって? 俺の顔を見ろ」
そう言って、ヒッガは立ちすくむ奴隷たちの顔を、さっと見渡した。
「俺は醜い。そうだろ?」
「い、いえ、そんなことは……」
「じゃあ美しいってのか? 俺が綺麗なものが嫌いだって言ったそばから、お前は俺のことを美しいと言いやがるのか? お前、俺を自己嫌悪に陥らせるつもりかい?」
「いえ、その、やはり……醜いです……」
ヒッガは、そう答えた奴隷を殴りつけた。鼻血を出して倒れたその者の頭を踏みつけ、大声で笑う。
「そうさ! 俺は醜いんだ! こんな俺は、誰にも愛されやしねえ! 誰が悪いんだ? 誰が俺をこんな醜い姿にしちまったんだ? お前、わかるか?」
ヒッガはまた別の奴隷に難癖をつけた。
「わ、わかりません……」
「馬鹿かお前はよ! 親父とおふくろに決まってるだろうが! あいつらがちょっとばかり楽しい思いをしただけで、息子の俺がこんなに苦しまねえといけねえ! 世の中理不尽ってもんさ! そうだろ?」
「は、はい……」
「しかも誰かが、その理不尽の帳尻を合わせなきゃいけねえときた。それもまた理不尽ってもんだがな。親父とおふくろのしでかした理不尽は、俺が処理した。あいつらをぶっ殺したときはすっとしたぜ」
そう言って、ヒッガは青ざめる奴隷の顔に自分の顔を寄せた。
「……俺は理不尽の体現者だ。お前、いま自分の身の上を呪ってるだろ? 『どうして心優しいご主人さまがいなくなって、こんな醜い男が現れたんだろう?』ってな。理由なんかねえのさ。それが理不尽ってもんだ」
「……私はご主人さまに尽くします……」
「いい心意気だ、お前はよくできた奴隷だな。ところでよ、さっき囚人会議でこんな命令が出された。『囚人奴隷と、奴隷を皆殺しにしろ』ってな。俺は本来そういうことをしたくねえ性質だが、上の決定には逆らえねえ。お前たちは、いまここで殺処分することにする」
その言葉で、奴隷たちが一斉に固まる。
「許してくれよ、これも理不尽ってもんなんだ」
ヒッガはゆっくりと懐からナイフを取り出した。
そして一人の奴隷に近づき、彼の首にナイフを振り下ろした。
――ギン! と鋭い金属音が響き渡り、肉の柔らかい感触ではなく、岩でも突いたかのような硬い感触が返ってきて、おやっとなる。
「……その理不尽の処理は、私がして差し上げてもいいですよ」
背後から声がして、ヒッガはさっと振り向いた。
そこには、見たことのない男が立っている。彼の持つ剣が、ヒッガのナイフを止めていた。
「てめえ、誰だ?」
「さあ? 名前は忘れました。よくわからないガキに取られてしまったようでね」
「囚人奴隷か? それとも、奴隷? どっちにしろ、囚人ではなさそうだな……」
「こんな糞溜めのような場所に所属した覚えはありませんよ。もっとも、私はもうフォレースの人間でもない。女神サマにも見放されてしまいましたからね」
そう言うと、男はニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。




