選択
リルパは長い眠りの間、フレイヤとギデオンの夢を見ていた。
フレイヤの傍にいるとき自分は小さく、ギデオンの傍にいるとき大きかった。
あるときギデオンと一緒に川べりに座っていると、対岸に現れたフレイヤが、こちらに声をかけてきた。
「リルパ、選べ」
「選ぶ?」
「そうさ。私のところに戻るか、その男のところに行くか」
フレイヤはそう言って、ギデオンを指差す。
「お前は私の子ども……ずっと私の傍で暮らすべきだ。その男はお前を間違った場所に連れて行ってしまうよ」
「いや、俺と来るべきだ、リルパ。俺は君に、君の知らない世界を見せてやれる。世界は広くて、まだまだたくさん楽しいことがある」
「お前の楽園は私の城だ。そしてペッカトリアだ。他の世界を知る必要なんてない」
「君は何も知らない。なるほど楽園にいる限り、何の罪も知らずにいられるだろう。しかしそれは、あらゆる善悪の外にいるというだけに過ぎない。自分の頭で物事を考えられる人間になるべきだ」
「甘言に耳を貸すな。そいつはお前を堕落させる。この川を越え、こっちに戻って来い」
「そんなことをする必要なんてない。だって、君はわざわざこっちにやってきたんだから」
ギデオンの言葉にハッとなって自分の身体を見ると、服がぐっしょりと濡れているのがわかった。
それでリルパは、目の前にある川を必死に泳いでこちら側に来たことを思い出した。
「君はもう選んだ。いまこそ、前に進むときだ」
言いながら、ギデオンがリルパの手を握る。リルパは、これほど大きく暖かい手を持つ人を知らなかった。
「あなたを信じていい……?」
「それは君が決めることだ」
すでにリルパの中で、選択は決まっていた。後ろ髪を引かれないと言えば嘘になる……しかし、リルパの胸にはそれ以上の希望が満ちていた。
※
――そうしてリルパはいま、怒りのまっただ中にいる。
ギデオンが、当然リルパを選び取るべき二択を前に、曖昧な答えを返したからだ。
目覚めてから姿見で自身の容貌を見たとき、リルパは自分に起こった変化がギデオンによるものだとすぐに理解した。
自分の身体の中に、彼の力強さが満ちているのがわかった。
これからはずっと、そのギデオンの手を握って歩いて行く。
そう思っていた矢先――
「俺にはわからない……俺が何をすべきなのか……どうしてこんな気持ちになるのか……」
ギデオンが呻くようにして言い、リルパは彼の首筋から口を離した。
口の中に甘い感触が満ちている。リルパは、すでにそれが愛の味だと知っていた。
「……ギデオンはわたしの手を引いて歩けばいいの。わたしはギデオンを選んだんだから、ギデオンもわたしを選べばいいんだよ」
「それはできない……」
「どうして!」
「俺はこの世界に、果たすべき目的を持って入ってきた。それを果たさないのは、俺という人間の全てを否定することになる……」
「そんなに、その妹って人が大事?」
「……大事だ。血を分けた兄妹……俺の罪そのもの……」
「じゃあ、あなたは罪のために生きてるの?」
リルパが言うと、ギデオンはハッと息を呑む。
そして、怯えきった目でリルパの方を見つめた。
「そうとも……俺は幸福になってはいけない人間なんだ。この世界に入ってきたとき、あらゆる重圧から解き放たれたように感じた。それは多分、この監獄世界が自分にふさわしいと思ったからだろう。でも、違ったんだ。ここにはゴブリンがいて、彼らのための世界が築かれるべきなんだ。俺はそれで……」
ギデオンは震えながら、声を絞り出す。
「……俺はそれで、また罪の意識を覚えた。新たな罪。今度は、妹に対してじゃない。ゴブリンに対してだ……。彼らの世界を蹂躙するのが、俺がいた世界のやつらだと思うと、許せなくなった……そんな状態で、どっちかを選ぶなんてできやしない」
「どういうこと?」
「君はこの世界の象徴だ。自分の罪を償うことだけを考えて、君を――この世界を放っておいていいのか? しかもそれが、ゴブリンたちに対する罪だと自覚したまま……」
「じゃあ、わたしを選べばいいでしょ」
「――だから、それもできないと言っているんだ!」
ギデオンが大声を出し、リルパは思わず気圧されてしまった。
誰かからプレッシャーを感じることなど、初めての経験だった……いや、よくよく考えると一度だけある。
それは、同じギデオンから。
彼が以前に、リルパのことを殺すと言ったとき。
あのとき心に広がった高揚と不安は、いまだに忘れることはできない。
「フェノムのせいだ……」
胸元を押さえながら、ギデオンは苦しげにそう漏らした。
「え?」
「あいつが、俺に希望を与えた……だが、それはもう一つの災いと同じ箱に収められていた……取り出すのに、別の罪を背負わなければならないような……」
それから、ギデオンは泣きそうな顔でリルパにすがりついてくる。
「――そうだ、君があの男に勝てばいい!」
「わたしは誰にも負けない」
「そのとおりだ……君があいつを打ち倒せばいいんだ……人間が、神に敵うわけがない……そんなことは不可能――」
と、そこまで言って、ギデオンは顔を覆う。
「……くそっ! 俺はフェノムが怖い……あいつは何を考えている? 俺はあれほど底知れない人間を見たことがない……」
「ギデオンが何を言っているのか、わたしにはわからない。何も怖いことなんてない。ギデオンには、わたしがついてるんだから。ね? わたしを選んで」
リルパはそう言って、優しくギデオンを抱き締めた。
いつの間にか、胸中を占める怒りは消えている。それよりも、ただ目の前で苦しみ続けるギデオンがかわいそうになった。
「俺の前には、いつも誰かがいた……俺はその人についていけばよかったんだ……でも、いま目の前には誰もいない……俺は誰かを引っ張って行けるような人間じゃない……」
「わたしがいる。ギデオン、わたしを見て? わたしだけを見ていればいいから……」
するとギデオンは顔を上げ、また怯えきった目でリルパを見つめる。
それは決してリルパが夢の中で望んだかたちではなかった。
知らない世界に連れて行ってくれる先導者……閉じられた世界の扉を開け放ち、ここではないどこかへと導いてくれる存在……夢の中で、ギデオンは未来の象徴だった。
しかし――と、リルパは思い直す。
「ギデオン……わたしと一緒に、この世界にいよう? フレイヤとギデオンとわたしで、ずっと一緒に暮らすの。わたしは、選ばない。両方と一緒にいる」
これまでと、これからと。
どちらかを選ばなければならないという道理はない。
ゴブリンたちの言う通り、自分はこの世界のためにあり、世界は自分のためにある。
ならばどちらかと言わず、全てが手に入って然るべきではないか。
「……選ばない?」
「そう。逆に言えば、わたしは両方を選ぶ」
「両方を選ぶ……」
ギデオンは、虚ろな目でリルパの言葉を繰り返した。




