迷いの中
ギデオンはペッカトリアを抜け、フルールの城へと帰るために西の草原を一人歩いていた。
そこに道はない。
ギデオンは、迷いの中にいた。
「正しいと信じることをやる行為は、いついかなるときも正しい……」
ぽつりと呟く。
――そしてそのときに、迷ってはならない。自分のやろうとしていることが正しいのかどうか迷うくらいなら、その時点でそれは正しい行為ではない。
そんなフェノムの言葉は、さらにギデオンの迷いを深くした。
(俺はどうすればいい……?)
誰かに、明確な道を示してほしかった。
ずっと自分はそうだった。
妹の後を追い、彼女が立ち止まってからは、師に導かれてきた。
目の前に開かれた広大な草原が、逆に自分の心に重くのしかかってくるように感じる。
(俺はどこに向かえばいい……?)
不安になって辺りを見回したギデオンの目が捉えたのは、遥か西方の空に向かって上がる土煙と、そばに佇む不格好な建物だった。
――フルールの城。
ギデオンはなぜかほっと安堵の念を覚えて、その建物に駆け込んだ。
見知ったエントランスがあり、そこに見知ったメイドたちがいて、次第に動悸が落ち着いてくる。
「どうしなんした、旦那さま? 顔色が悪いようでありんす」
「いや……何でもないよ」
ギデオンは話しかけてきたメイドに、無理に微笑んで見せた。
「お帰りなさいませ」
しかしそのメイドはツンとした態度でそう言い、ぞんざいな態度で頭を下げると、すぐに踵を返してどこかに行こうとする。
「え、おい」
「……まだ、何か?」
振り向いたメイドの顔には、不愉快の色がありありと浮かんでいる。
それを見て、ギデオンはまた何か自分が、彼女たちの気に障ることでもしたのかと思ってしまった。
「あの、俺が何かしたかな……?」
「ご自分の胸に聞きなんし」
取り付く島もない。メイドはピシャリと言い放ち、今度こそいそいそとエントランスの隅と行ってしまう。
自分の胸に……と考えたとき、ギデオンはさっと青ざめて胸に手をやった。
服一枚隔てたそこには、フェノムに与えられたカルボファントの象牙がある。
リルパが、ギデオンには絶対に渡さないと息巻いていた象牙だ。
まさか、この城の者たちはすでに、自分がこの象牙を入手したことを知っているのだろうか……?
となれば大問題だ。いまだ目覚めぬリルパはひとまず考慮しなくて済むとしても、メイド長のペリドラもまた、ギデオンが象牙の入手を目指すことに不快感を示していたのだから。
ハッと気がつくと、エントランスにいるメイドたちが、ギデオンの方をジロジロと見つめているのがわかった。
(これはまずいぞ……しかし、なぜ遠巻きに見ているだけなんだ? 俺から象牙を取り上げようという考えではないのか?)
ギデオンが、そんなことを考えているときだった。
「……これはこれは、旦那さま。お帰りになりんしたか」
噂をすれば影とばかりに、当のペリドラが階段を下りてくる。
彼女はいつにもまして厳格そうな顔をしており、ギデオンはゴクリと喉を鳴らした。
「街の様子はいかがでありんしたか?」
「いや、問題ない」
と、言ってしまってから、ギデオンはまた自分の心が重苦しくなるのを感じた。
フェノムのことを話すべきではないのか?
彼がリルパの生命を狙っているということを……。
そして同時に、フルールを救いたいと願っていることを……。
だが、リルパとフルールのどちらも愛するこのメイドたちにそれを話すことに、大きな抵抗を感じるのも事実だった。
フェノムはこの城を、フルールを縛る監獄だと言った。では、看守は彼女たちということになるのではないか……。善意で働く彼女たちに、そんな言葉を突きつけていいのか……。
ギデオンが一人葛藤していると、ペリドラはすぐ近くまで歩みを進め、腰に手を当てて胸を張った。
「問題ない――と。そうでありんしょう。どうせ今回も、ドグマさまの早合点だと思いなんしたよ。それで、ヤヌシスさまとの一件はどうなりんした? あの方をお会いして、旦那さまの目的は果たせなんしたか?」
「……ああ、大丈夫だよ」
「それはすばらしい。今日は実にいい日でありんす」
そう言うペリドラは、一瞬だけプクリと鼻を膨らませたような気がしたものの、依然として厳格な顔をしている。
(彼女は怒っているわけではないのか……? 俺はいったい何をしたというんだ……?)
ギデオンは困惑しながら、愛想笑いを浮かべた。
「旦那さま、ついてきなんし」
ペリドラはギデオンの手をむんずと掴み取ると、有無を言わさぬ態度でぐいぐい引っ張っていく。
「お、おい、何だというんだ……?」
「いいから、いまは黙ってついてきなんし」
気配を感じて左右に目をやると、先ほどまでギデオンに遠巻きに視線を送ってきていたメイドたちが、目を好奇の色を漂わせてついてきている。
「彼女たちは何なんだ? 先ほどから、明らかに態度がおかしい……」
「何度も同じことを言わせなさんす、旦那さま。いまは質問を受け付ける時間ではなさんす」
ペリドラはピシャリと言って、ずんずんと歩を進めていく。
ひょっとすると、彼女たちにとって好条件の場所に引き込み、一斉に襲いかかろうというのだろうか?
ギデオンは、このメイドたちと戦いたくなかった。
この世界にやってきてわずか数日とはいえ、世話になっていないと言えば嘘になる。
個性的で、ひょうきんな性格をしていて――ギデオンはそんな彼女たちのことが、嫌いではなかった。
ペリドラは階段を上がり、長い廊下の途中でぴたりと足を止めた。
「……さあ、この部屋に入りんす」
「ここは俺の部屋じゃないか」
「そうでありんす。しかし、部屋の中にとっておきのプレゼントを用意しなんした。旦那さまにとって、幸福の象徴でありんすよ」
ペリドラの言葉を聞き、ギデオンは思わず眉をひそめた。
わけがわからない。
この世界に幸福などない。いや、もちろん自分がやってきた世界にもだ。
ギデオンは贖罪のために生き、贖罪のために死ぬべきだった。
オラシルを呪ったのが自分なのかはわからない。しかし、ほんの一瞬でも彼女のことを邪魔に思ったことを恥じ、悔い続ける必要があった。
(……幸福を得る資格など、俺にはない)
そう思いながら、ドアを開く。
部屋の中には、見知らぬ少女がいた。
彼女はさっと振り向くと、頬を染めてぎこちなく微笑んだ。
「……あ、ギデオン」
少女が、鈴のような声で自分の名前を呼ぶ。
真っ白な髪の美しい少女――会ったことがないにもかかわらず、ギデオンは彼女のことをよく知っている気がした。




