リルパ
飢えて、飢えて、飢えて、仕方がなかった。
手が届く範囲で、周りのものはあらかた食い尽くした。
土から養分を吸い上げても足りず、ついには自分の身体を食べた。
目を食べてしまったために何も見えず、彼は暗闇の中、自分が何者だったかも忘れるほどの飢餓の苦しみと戦っていた。
彼をこんな目に遭わせたやつは、確かこの身体はもって二日だと言っていた。あれから、どれだけの時間が経ったのかもわからない。
あとどれだけ、この苦しみが続くのだろうか?
彼は獲物をどう呼び寄せればいいか本能的に理解していたものの、その役割を担うべき花を再生させるほどのエネルギーを集めることができなかった。
ゆえにこれから生きるためには、偶然ここを通り過ぎた獲物を食べるより他はない。
生きるためには……?
彼はすでに、もうこの苦しみから解放されるなら、生きていなくともいいと考えるようになっていた。
死にたい。誰か、殺してくれ。
しかしこんなところには、誰もやってこない。『新入り』がくるのはまだ先だ……その新入りというのが、何だったかも忘れてしまったが……。
加えて、魔物たちが現れるのを期待するのも絶望的だった。なぜなら彼らが生活するべき生態系を、自分が破壊してしまったからだった。
――途方もない絶望に暮れる中、自分に向かって近づいてくる『何か』の気配を感じ取ったのは、そのときだった。
「……あ……あ……」
数ある口を必死に動かし、彼はその『何か』に声をかけた。
「た、助けて……こ、殺して……」
「わたしの世界を、こんなにめちゃくちゃにしたのはだーれ? 大地が干上がって泣いてるじゃない! ……こんなひどいことをするのはだーれ?」
場に響いた舌っ足らずな声が、彼の魂をざらりと撫でた気がした。どこかで味わった感覚だったが、それを思い出すことができない。
「お、おで……が……あ……」
「あれ? 変な木があるね……妙な木……何の木? 知らない木……」
「う、ううう……」
「ねえ、あなた? あなたがここをこんなにめちゃくちゃにしたの? しゃべる木……食べる木? 不思議な木……」
言葉はゆっくりと近づいてくる。そして――
「あれ、あなた、ラーゾンじゃないの?」
「……え?」
「そうだあ! ラーゾンだ! 口のかたちがそっくりだもん! そうだよね、ラーゾン!」
その無邪気な声を聞いて、彼は全てを思い出した。
物には名前があり、それが存在を示すこと。
ラーゾン――ラーゾンという名前。
そうだ。彼はもともとラーゾンという人間で、最悪な巡り合わせの結果、いまの果てのない飢餓の境地に陥っているのだった。
そしてラーゾンは、新たな『名づけ』によって存在の全てを取り戻した自分に、何のためらいもなく近づいてくるのが、いったい何者なのかということも、はっきりと思い出していた。
「……リルパ……?」
――神の子――
――小鬼たちの言葉で『リル』は神を意味し、『リルパ』はその子どもにあたる――
「なあに、ラーゾン?」
返ってきた答えが、ラーゾンの心を激しく揺さぶった。そうだ、やっぱりリルパだ!
「リルパ……助けて……俺を……殺して……」
「ラーゾン、とっても苦しそう……お腹が減ってるんだね? お腹がペコペコだとつらいもんね。わかるよ」
「ご、ごめんなさい……ここをこんなにしたのは俺です……俺が悪い……だから殺して……」
「いいよ、それがあなたの望みなら。でも――」
それからリルパは、死を望むラーゾンですらぞくりとするほど、冷たい声を出した。
「あなたをこんな姿にしたのはだーれ?」
「……え?」
「あなたは人で、こんな姿じゃなかったもん。誰かにこんな目に遭わされたんでしょ? それを教えてくれたら、殺してあげる」
「名前……あいつの名前……な、まええ……?」
ラーゾンは薄れた意識の中、必死になって思考を巡らせ、ようやくその名前を探り当てることができた。
「……ギデオン……そうだ、あいつの名前は……ギデオン……!」
「ギデオンだね? あなたをこんな姿にして、ここをこんなめちゃくちゃにしたのは」
「そう……そうだ……ああ、リルパ……お願いだから……」
「ありがとう。がんばったね」
そう言うリルパの声は、ただひたすら純粋な慈しみに満ちていた。
ラーゾンは短絡的な考えで自分の目を食べ、視界を失ってしまったことを激しく後悔した。
これでは泣くこともできない。リルパの慈愛に感謝し、流すべき涙を失った……。
これでは何を見ることもできない。この無垢の天使の姿を最後に見ることなく、自分は永遠の旅に出向くことになる……。
「さようなら。おやすみ、ラーゾン」
リルパの声が響いた。歓喜と大きな悔恨の中、ラーゾンの世界は暗転した。
※
妹、オラシルの呪いを取り除くことができるアイテムとして、瞳術師のキャロルが教えてくれたのがカルボファントという魔物の象牙だった。
魔力を帯びた炭素鉱石を食べる習性をもつというその象は、極めて硬質で美しい牙を生やす。その牙には神秘の力が宿っており、あらゆる邪悪を払いのけることができるのだと。
ドグマの部屋を追い出されたギデオンは、スカーに連れられて宮殿の別室に移動していた。何か意図があるのか、ハウルとミレニアは別の場所で待機させられている。
ゆえに、いまギデオンはスカーと部屋で二人きりだった。
「……馬鹿なことを言ったもんだぜ、ギデオン。まさかよりによって、カルボファントの象牙を要求するとはな」
ギデオンは、望みのものがすぐそこにあるにもかかわらず、手に入れることができないことに、強い苛立ちを覚えていた。
象牙さえあれば、すぐにでもオラシルを救うことができるのに!
それを入手し、ピアーズ門の面会室経由で師のマテリットに渡すことが、ギデオンがこの監獄に入るときに立てた計画だった。
別にそのあと、自分は監獄の中で朽ち果ててしまっても構わない。妹の幸せだけが、いまのギデオンの最大の望みなのだから……。
「……なぜドグマは、そのアイテムを独占してる?」
「あいつのガキがさっき言ったろ。象牙は全て、リルパへの供物なのさ。リルパってのは、ありていに言うと怪物だ。お前も自分の力に自信を持ってるだろうが、あいつにだけは手を出さねえ方がいい」
「なぜそんな怪物が象牙を欲しがるんだ?」
「あいつの大事な人間が、呪いに侵されている。それを解呪するんだよ。でも解呪してしばらく経つと、またその人間は同じ呪いにかかる。だから、リルパはずっとカルボファントの象牙を欲しがってるのさ」
「そんな怪物にも、大事な人間がいるんだな」
皮肉を込めたつもりだったが、スカーは何の反応も見せなかった。彼はそれが当然とばかりの態度で、こう言葉を返してくる。
「まあ要するに、餌だ」
「……餌?」
「あいつは生き物の血を主食にしてて、とりわけ人間の血が好きでな。リルパにとって大事な人間というのは、『美味しい人間』と同義ってことだ。その中でも、もっとも気に入ってる味を持つ人間……その泉を枯れさせないようにと、リルパはその人間を生きながらえさせてる」
「血を主食……」
「そうだ。姿だけなら、そこらへんにいる人間の少女とほとんど変わらないが……」
「少女? リルパは女か?」
「意外か? この監獄の支配者は、ずっと女だ。最初は魔女フルールが仕切ってた。その次はリルパだ。リルパがまだガキだってもんで、彼女の欲しがる象牙を使ってボスが上手くここを回してるがな」
「リルパに象牙をやらなければどうなる?」
「そりゃ、簡単な理屈さ。リルパの『大事な人』が呪いで死ぬ。となると、もうリルパは象牙を必要としなくなる。ペッカトリアはいまのリルパにとって、何の苦労もなく象牙を供給できる場所に過ぎないんだぜ? 街の重要性がなくなれば、リルパがここをどう扱うかは『神のみぞ知る』状態になるってわけだ。しかも何とも都合の悪いことに、リルパは神の子だなんて言われてやがる……」
「この街の命運が、リルパの手にすっかり握られるってことだな。名実とともに」
「そういうことだ」
そのときギデオンは、瞳術師のキャロルが、カルボファントの象牙に関して言及していたことを思い出していた。
――数年前まではまだ入手しやすかったみたい。でも、特にこの数年はまったく出回らないって話よ。
それはきっと、リルパがその数年前を境に、象牙を欲しがり始めたからだろう。
「ドグマが象牙を入手するルートはどこだ?」
「言うと思うか?」
スカーは顔を歪めた。笑っているらしい。
「言わなきゃ殺すぞ。いまの俺はイラついてる。お前の首を持って行って、ドグマを脅してもいい」
「お前にはできねえよ。そんなことより、なんでお前は象牙を欲しがる?」
「お前が知る必要はない」
「聞き方を変えるぜ。いくつ必要だ?」
意味深な質問をするスカーを、ギデオンはじっと見つめた。
「……一つでいい」
「三つほど心当たりがある。最近ボスが盗まれたんだ。お前のいう入手ルートで、大ポカをやっちまった」
スカーは声をひそめ、ギデオンの顔を探るように覗き込んだ。
「ボスは自分が持ってる象牙を手放さねえ。何があろうとだ。象牙一つにつき、ペッカトリアの崩壊が幾分か延びるわけだからな。でも、自由にできない象牙なら……」
「お前はその在り処を知ってるのか?」
「在り処を知ってるやつを知ってる。そんな怖い顔をするな。言ったろ? お前はオレを殺せねえ。俺を殺せば、この情報は闇の中だぜ」
ギデオンは奥歯をぐっと噛んだ。
こいつは随分と頭の回るやつらしい。しかも、先ほど宮殿の入り口で見せられた魔法も気になる。目の前のスカーは、底知れない不気味さを持っている……。
「なんで俺にこんな話をする?」
「お前が強いからさ、ギデオン。オレと組めよ」
「組む?」
「ここがどこか知ってるか? 監獄ダンジョンだ」
言葉の意図がわからず黙っていると、スカーは肩をすくめた。
「オレはここを攻略するつもりでいる。ここってのは、ペッカトリアのあるこの世界だけじゃねえぜ。いくつもの世界が、ピアーズ門のような通り道で連なった全体なる世界――それがダンジョンって言われてるのさ」
「……初耳だな」
「だろうな。見方を変えるとな、オレたちがいた元の世界はダンジョンのゼロ階層目。そしてこの小鬼たちの世界が、一階層目ってわけだ」
それはあまりにいきなりで、かつ暴力的な考え方だった。価値観を一気にひっくり返してしまうような……。ギデオンが衝撃で固まっていると、スカーはまた顔を歪めた。
「オレたちのいた世界が特別だと思ってたか? 違うね。あれは、ダンジョンを構成する階層の一つに過ぎない。もっと視野を広く持てよ、ギデオン」
「……俺に何をやらせたい?」
「そう焦るなよ。もう日が暮れて、一日が終わっちまう。いまはこの街でやるべきことをやっておかねえとな」
スカーはそう言うと、部屋の隅にある小箱から、金属製の鎖つき足輪を二組取り出した。
「何だこれは?」
「あの犬耳のガキと、ミレニアって女の足輪だ。お前は特別待遇を認められたが、あいつらはきちんと囚人奴隷からやってもらう」
「それがここのルールか?」
「そうさ。気に入らねえなら、お前が買えばいい。新入りたちの競売は明日だ」
「競売だと? ……ハウルは傷ついてる。やせ我慢してるが、あいつも他の五人と一緒に医者のところに行くべきだった。競売なんて無理だ」
「じゃあ、足輪を嵌めてから医者に連れていく。そこで一晩を明かしたら、明日はどんな状態だろうと競売に引きずり出す。見ものだぜ。あいつは割と可愛い顔をしてるからな。きっとその筋のやつは欲しがるだろ」
下卑たことを言うスカーの態度に、ギデオンは顔をしかめた。ハウルは誰かの飼い犬でいるのをよしとしないはずだ。いや、あいつの言葉を借りるなら犬ではなくて狼だが……。
「門番をやってた男に、囚人奴隷にも一級身分の囚人に昇格する機会があると聞いた。それはどんな方法なんだ?」
「囚人の推薦があって、そいつをボスが認めればいいのさ。お前もオレの推薦だ。お前はついてたぜ? 主人つきの囚人奴隷だったら、他の囚人がいくら言っても、ボスは昇格に関してその主人の意向を優先しちまうからな」
「なるほどな。じゃあ、俺がいまのうちにハウルとミレニアを推薦すれば、あいつらに足輪は必要ないってことだ」
「ハウルってやつに関しちゃ、お前の好きにしな。だが、ミレニアは駄目だ」
「なぜだ?」
するとスカーは満足げに息を吐きだし、ギデオンを値踏みするような目で見つめた。
「……オレが買ったからだ。ミレニアの主人は、すでにこのオレだ」




