満月の日
ゴスペルとともにペッカトリアを抜け出したメニオールは、森に不時着してからすぐにUターンし、奴隷商とその商品に扮して門を潜り抜けた。
「よくお似合いですよ、メニオール。あなたをまたこうして、私の下僕にできる日がこようとはね……」
「黙ってろ」
小鬼の姿で奴隷商を演じているゴスペルに、手枷足枷をつけたメニオールは舌打ちして返した。
とはいえ、メニオールの内面はいつになく穏やかだった。ゴスペルの軽口も受け流せるだけの精神的な余裕がある。
なぜなら、いまメニオールの背負う大荷物の中には、念願だったフルールの魔導書が入っているからだ。
ついにやり遂げた。これで厄介な土煙の魔法を抜け、二層世界へと行くことができる。
この世界に入って三月ほど。
思っていたよりも手こずったが、それはこの世界に元の世界の価値観を持ったやつらが多くいたからだろう。
この一層世界には、野放図に見えてその実繊細な秩序があり、おまけに囚人が看守として機能する厄介なシステムが構築されていた。
つまり、ここで相手取らなければならなかったのは、知恵ある人間だったのだ。
――お互いの価値観や思惑が、理解できてしまうがゆえに困難さ。
メニオールは、一層世界にあった難しさの一端をそこに見出していた。
ここから先、ノスタルジアの価値観を持つ人間はぐっと減る。また別の難しさも出てくるだろうが、それでもダンジョンの攻略はいまよりも遥かに早く進むはずだ。
メニオールはゴスペルの方をちらりと一瞥して、口を開いた。
「……ようやくこの難所を抜けられるってもんだ。さっき魔導書をちらっと見たが、土煙の魔法のページに並ぶ名前は、多言語が入り混じっていた。筆跡も違う。あれはどういうことだ?」
「その魔法に使用される名前は、通行許可を受ける者自身が、自分の第一言語で書かなければならないのですよ。ですからあなたですと、エルフ文字で書くのです」
「……へえ、そうだったのか。自分以外が名前を書いても意味がないわけか」
「人の行為を縛るためには、それだけの制約が必要だということです。特に何人もの人間を縛る、土煙の魔法ほど大掛かりなものになるとね。契約術というのは、どんなルールでも作れるというわけではありません……それにしても」
そのとき、ゴスペルがいきなり語気を弱めた。
「……わたくしは二層世界へと行けません。寂しくなりますね……」
それは、かねてより話していたことだった。
ゴスペルには名前がない。便宜上名乗っているゴスペルという名前は、彼が食べた囚人の名前に過ぎないからだ。
名前がなければ、魔導書に名前を書き込むこともできず、必然的に土煙の魔法を潜り抜ける許可は下りない……。
「いくらわたくしが暇を持て余す無貌種といえど、土煙の中をずっとさまよっているのは嫌ですからね……」
そう言うと、ゴスペルは露骨に構って欲しそうな目をして、ちらりちらりとしつこくメニオールの方を見つめた。
「寂しいでしょう……わたくしと二層に一緒に行けなくて……」
「いや? ただ、同じ理由でこいつを連れて行けねえのは残念だな……」
メニオールは手を少し掲げ、手枷を示してみせた。それは、いつも百面相として利用している例の無貌種を変化させたものだ。
自分よりも植物状態の無貌種を優先するメニオールに、ゴスペルは憤慨した様子だった。
「あなたほど非情な人間を見たことがありませんよ!」
「ふっふ、冗談さ。いつか、土煙の魔法自体を取り除く方法を見つける。それまではこっちでミレニアのお守りでもしていろ」
「あれ? 彼女も連れて行かないので……?」
「当たり前だろ? これからのダンジョン攻略はもっと危険になる。あんなやつを連れて行っても足手まといだ」
「素直に彼女が心配だと言えないものですかねえ……」
「……何か言ったか?」
「いえ、いえ、何も!」
ゴスペルは小鬼の大きな口を、わざとらしく押さえて見せた。
メニオールはジロリとゴスペルに冷たい目を向けてから、ふんと鼻を鳴らした。
気持ちを切り替えると、もはや慣れ親しんだとさえ言えるペッカトリアの街を見つめた。もうすぐこの街とはおさらばすることになる。
感傷的にはなっていないと思うが、置いて行くつもりのミレニアのことだけは、やはり気になった。
※
ゴスペルの隠れ家は、ペッカトリア南部の貧民街の隅にあった。都市壁がそばに立っているせいか影が落ち、まだ日の照った時間帯だというのに暗い雰囲気が漂っている。
この辺りは、小鬼の中でも比較的貧困層に属するやつらが多く住んでいることで知られていた。
隠れ家が視認できるほど近くに来たとき、メニオールはゴスペルと別れ、時間帯をずらして隠れ家に戻ることにした。
周りに誰もいないことを確認してから、メニオールが先に家に足を踏み入れる。
すると、すぐに不安げな顔のミレニアが駆け寄ってきた。
「よかった、メニオール……」
「何かあったのか?」
「何もなくてよかったと言ってるんです……」
そう言って、ミレニアはぎこちなく笑う。
「お前に心配されるほど、アタシはまだ落ちぶれちゃいないさ。ほら、見ろよこれを」
メニオールは奴隷のふりをして担いでいた大荷物を下ろし、戦利品を取り出した。
「ようやく欲しいものが手に入った。これで、二層世界へ行ける」
そのとき、ゴスペルが家に入ってくるのがわかった。
「……おい、もっと時間をずらして入って来いと言っただろ」
「いえ、ちょっと気になることが……」
そう言って、ゴスペルは奥の部屋へと駆けこんでいく。
「何だってんだ、あいつは?」
「これがあなたの言っていた通行許可証ですか?」
「……え? ああ、そうさ」
ゴスペルの後姿を目で追っていたメニオールは、それでまたミレニアの方に向き直った。
彼女は真剣な顔をして、何かをじっと考え込んでいるようだった。
「私も――」
「ダメだ」
メニオールはすぐに、ミレニアの言葉を遮って言った。
「……まだ何も言っていません」
「お前が考えてることなんてお見通しだ、馬鹿め。ダメに決まってるだろ? 二層世界へは、アタシだけで行く」
「私の目が役に立つときだってあるかもしれません。足手まといだってことはわかっています……でも、あなたの盾になるくらいならできます」
「盾だと……てめえ、何を言ってやがる?」
「そのままの意味です。私は、ずっとあなたに助けられてきました。私だって、あなたを助けたいと思っちゃいけませんか?」
「お姫さまには無理だよ」
「あなただってそうじゃないですか」
ミレニアが決意に満ちた顔で言い放ち、メニオールは思わず顔をしかめた。
「ミレニア、てめえ……」
「こ、怖い顔をしたってダメです。私は知ってるんです。あなただって、私と立場は変わらないってこと。でも、とても強い人。私にはあなたのような強さはありませんけど、それでも他の人のために生きたいと思うことくらいはできます」
「お前が命を捧げる相手はアタシじゃない。フォレースだ」
すると、ミレニアが目を丸くする。
メニオールは、ちっと舌打ちしてしまった。面と向かって、こんなことを言うつもりはなかったのに……。
「フォレースはいまガタガタだ……弱い王に、馬鹿な貴族。立て直すやつが必要だろ」
「……それが私ですか?」
「他に誰がいるってんだ? アタシだって、もっとまともなやつがフォレースの王族に一人でもいれば、わざわざお前みたいな世間知らずの田舎娘を匿おうとなんて思わなかったさ」
「では、あなたが私を守っていたのは――」
「――それ以上しゃべるな、ミレニア。打算だよ。最初に言っただろ?」
メニオールは居心地の悪さを感じ、ミレニアから顔を背けた。
「……お前はお前のやるべきことに集中しろ。この世には、お前にしかできねえことがあるのさ。そしてそれは、半端物のハーフエルフのために命を懸けることじゃねえ」
メニオールが言ってから、しばらく場にあったのはシンと気まずい沈黙。
そんな重苦しい空気を破ったのは、奥の部屋から飛び出してきたゴスペルだった。
「た、大変ですよ、メニオール!」
「……どうした?」
ゴスペルの鬼気迫る顔に緊急の事態を察知し、さっと頭を切り替える。
「――あの石像ですよ! わたくしの屋敷から移動した、あの!」
「石像? あの狼坊やのことか?」
多神教の教会からゴスペルの屋敷に移されていたハウルの身体は、いま改めてこの隠れ家に移送されている。
「そうですよ……青く光っています……あれ、何なんです……?」
「光ってる?」
メニオールは、ゴスペルに連れられて奥の部屋へと向かった。
そこには石化したハウルがいる――が、ゴスペルの言う通り、彼の身体からはぼんやりとした青い光が放たれていた。
恐る恐るといった調子で、ゴスペルはハウルの背後にある鎧戸付きの窓を指差している。
「ほら、この窓から外に青い光が漏れていたんです。それで、何事かと思って調べに来たんですけどね……発光元はこの石像だったというわけです……」
「まさか、こいつ……ゴルゴンの石化の瞳を自力で破ろうってんじゃねえだろうな……?」
「はあ?」
「……おい、ゴスペル。確か今日は満月だったんじゃねえか……?」
「そ、そうですね……え、それがなに?」
わけがわからないとばかりに狼狽えるゴスペルの横で、メニオールはゴクリと喉を鳴らした。
それは、前回の囚人会議で上げられた議題だった。
月夜に変身する怪物――この間スカーとしてこの坊やと戦ったとき、夜空に輝いていたのは半分ほどが欠けた月だった。しかし今日これから上るのは、完全な状態の月なのだ。
まだ空にある太陽は、夜に主導権を渡していない……が、それも時間の問題だった。




