マナの座
部屋には、しばらく沈黙があった。
「……フルールを?」
ギデオンはフェノムをじっと見つめたまま、ようやく口を開いた。
「そうだとも。一人の人間として、彼女に惚れ込んでしまったんだね。その気持ちは、いまも薄れることはない。むしろ、日々増していくようだ」
「あんたはフルールと戦いたくて、この監獄世界に入ってきたと聞いたが」
「それは間違いじゃない。実際、ぼくもフルールに戦いを挑んだんだよ。だけど、うまくはぐらかされてね。なぜか、ダンジョンの攻略を手伝わされるようになった。フルールは不思議な魅力がある女性で、いつも周りの人間を惹きつけた。一緒にいるうちに、いつの間にかぼくも毒気を抜かれてしまってね。こういうのを、骨抜きにされるというのかな?」
「……俺は人を好きになったことがない。だから、あんたのそういう感情はよく理解できないな」
「君はリルパと結婚したと聞いたけど?」
冷やかすようなフェノムの態度に、ギデオンは頭を振って応えた。
「あいつがそうしたいと思ったことは、この世界では全て認められてしまう。ゴブリンたちはリルパを中心に物事を見て、俺の意志などお構いなしだ」
「あっはっは、君も随分と苦労しているようだ」
「笑い事じゃない。俺は毎日、死ぬ思いであの城にいる」
「なるほど、なるほど」
フェノムは朗らかに笑いながら、円卓に戻った。そしてギデオンに顔を寄せ、ひそひそと囁くようにして言った。
「……リルパが怖いかい、ギデオン?」
「彼女が怖くない人間なんて、いないと思うが」
「聞き方が悪かったかもしれないね。彼女を排除する方法があると言ったら、君はどうする?」
フェノムはそこで、意味深な言い方をした。
「……何だと?」
「ぼくはずっとその方法を探していたんだ。言っただろう? フルールを、リルパから取り返すと。いまのフルールは、リルパのための餌でしかない。彼女の自由な魂は、ずっと肉の檻に閉じ込められたまま眠りについている。彼女が目覚めることを許されるのは、一月にたった一日だけだ。わかるかい? つまりこの十年の間、彼女の時間は百日余りしか過ぎていないことになる」
それを聞き、デオンが咄嗟に思い出したのは、妹のオラシルだった。
彼女も時の流れに置いて行かれ、幼い姿のままいまも生きているのだ。呪いという、理不尽な現象によって……。
フルールの境遇に妹の姿を重ねて考えていると、フェノムはそれまでよりも少し語気を強めて語りかけてきた。
「いいかい、ギデオン。フルールは周りの時間から切り離されて、『神の子』とかいうわけのわからないもののために、ただ身を捧げ続けている。こんな馬鹿なことが許されるのか? ぼくは許せなかった。相手が神であろうが何であろうが、打ち倒さなければならないと決心した」
「……勇ましいな」
「無理だと思うかい?」
「いや、俺は不可能という言葉が嫌いだ」
ギデオンは、ちらりとフェノムの目を見て言った。
「……だが、いまの俺にはとても無理だ。あんたは、その方法を見つけられたのか?」
「見つけたよ。二つほどね」
「信じられない……」
ギデオンは思わず嘆息してしまった。
あのどうしようもない力を持つ怪物を、打ち負かす方法――それを、この錬金術師は二つも見つけ出したというのか……?
「信じようが信じまいが、これは事実だ。ぼくがさっき、自分を利己的な人間だと言った意味がわかったかい? ゴブリンたちは、ぼくが彼らの神であるリルの子どもを殺そうと思っているなんて、露ほども思っちゃいないだろう。ぼくは近くドグマに明確な叛意を示す気でいるけど、それもぼくの計画のために都合がいいというだけの話であって、心から彼の治世を憎んでいるわけじゃない」
「……なんで俺にこんな話をした?」
「腹を割って話したいと言ったのは君じゃないか」
「俺がゴブリンたちに、ここで聞いたことを話すとは思わないのか?」
「別に話したって構わないさ。そのときは彼らとも戦うだけだ。ほんの少し都合が悪くなるというだけで、計画に支障はない」
悠然と言い放つフェノムは、ギデオンをひどく狼狽えさせた。
この男には、底知れぬ恐ろしさがある……。
強さとは、力をもって何を為すか――師からそんな哲学を教わったギデオンにとって、このフェノムには、強者たりえる素養が備わっている気がした。
「ぼくはずっと一人だった。昔も、いまもね。いまさら仲間なんていらないんだよ。あえて必要なものを挙げるとするなら、それは駒だ」
「……駒だと?」
「そう。盤面を有利に動かすための駒さ」
フェノムは懐から、何かを二つ取り出した。
一つは宝石のように照り輝く銀色の物質で、もう一つは革張りの鞘に納められたナイフのようなものだった。
「見たまえ。この銀色の物質こそ、君が先ほど口にしたペッカトリア経済の混乱を引き起こした物質だ。名を『賢者の石』――または、『マナの座』ともいう。ぼくはこれを作るためにミスリルを研究していたと言っていい。いま市中に貨幣として出回るミスリルは、言わばこれの失敗作でね」
「失敗作? 天然のミスリルよりも、あんたの作ったミスリルはマナを多く貯められるんじゃないのか?」
「そうだとも。だが、この『マナの座』にはその上限がない。この世界でミスリルを見たとき、その構造式から理論上は可能だと思っていたんだ。あとは試行錯誤と、ちょっとした幸運だけが必要だった」
マナ蓄積に上限がない? それはつまり、マナを無尽蔵に貯められるということか?
「……そんなことが可能なのか? 君はそういう顔をしているね」
フェノムがそう言って、ギデオンはまたギクリとした。初対面の男の纏う雰囲気に、ギデオンは完全に呑まれていた。
「言ってしまえば、これは鍵なのさ。途方もない量のマナへとアクセスするためのね。この世界の全ての物質にはマナが宿っている。そして、いたるところに未現なるマナが溢れている……君はこんな考え方を聞いたことがないかい? この世界は、未現なるマナが具現化して出来た世界だと」
「……いや、初耳だ」
「なら覚えておくといい。その考え方は正しいんだ。現存するこの世界と並行するようにして、未現なるマナの世界がある。両者の間には薄い膜のようなものがあって、マナの世界から、この世界にじわりとマナが溢れ続けているんだよ。ぼくたち生き物を含むあらゆる創造物は、そのマナから作られた存在にすぎない」
フェノムは『賢者の石』と呼んだ物質を、手の平で転がしながら続けた。
「生き物を作るのは誰か? もっと言うと、世界を作るのは誰か? 一般的に、そういう存在は神と言われる。だがその定義は半分だけ正解で、半分は間違っているのさ。本当の神とは、身体に巨大なマナの流出点を持ち、未現なるマナの世界へとアクセスできる力を持つ者だ。創世は、その結果の一つに過ぎない」
それを聞き、ギデオンは思わずハッと息を呑んだ。
そういう存在を、よく知っていたからだ。
彼女が赤い紋様を身体に浮かび上がらせるとき、周りは膨大な量のマナが溢れ、そばにいる者にマナ中毒と呼ばれる症状を引き起こす――。
「……そう、リルパを神の子たらしめているのは、彼女が身体にマナの流出点――『マナの座』を持っているからだよ」
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