権威の失墜
遥か大空へと消えて行ったメニオールが、スカーには天の使いに見えた。
「ああ、愛ってのは、なんて苦しいんだ……こんなに苦しい気持ちになれるなんて、愛は何てすばらしい感情なんだ……」
スカーは湧き上がる涙を拭い去ると、建物の屋根の上から、あのどうしようもない巨人を見下ろした。
「おい、ドグマ!」
「ドグマ……?」
呆然としていたらしいドグマは、それでハッと我に返ったようだった。
「自分の名前も忘れちまったのか? てめえの他に、まだこの世界にはそんな薄汚い名前のデクノボーがいるってのか?」
「て、てめえ、俺さまに向かってその口の利き方は何だ!?」
ドグマは怒りで顔を真っ赤にしていた。
「フルールの魔導書をなくしたいま、誰もてめえなんか王と認めるわけねえだろ? これからの王はメニオールさ! みんな、彼女に頭を垂れるべきなんだ……」
「何だとお!?」
「粋がるんじゃねえぜ、このデブが!」
スカーは『苦痛の腕』を伸ばし、ドグマの野太い腕の中で実体化した。皮膚によって外部から守られている肉と筋に直接触れられた巨人は、激痛の声を上げる。
「ま、待ってくれ、スカー……俺はペッカトリアのために働いてきた。フルールのために働いてきたんだ。やりたくないことだって、全部フルールの指示でやってきたんだよ……」
「ほう? そのわりには、随分といい暮らしをしてたようだがな」
「フルールと同じことをやってただけだ……お前はこの十年のうちに入ってきたから、あいつがどんな女だったか知らねえだろ? 狡くて、恐ろしいやつさ……本当だよ」
「そんなことは、俺にとっちゃどうでもいいのさ」
言いながら、スカーは今度『苦痛の腕』で、ドグマの頬を思い切り殴りつけた。
「い、いてえ……許してくれ……俺はちょっとばかり調子に乗ってたかもしれねえ……でも、本心じゃなかったんだ」
「おい、ドグマ。テクトルとかいう野郎は、いまどこにいる?」
「……テクトル?」
巨人は見えない腕で殴られた頬を押さえながら、きょとんとスカーを見返した。
「昨日シェリーがてめえに伝えたろ? 契約術師のことさ」
「シェリーが? いや……」
ドグマはわけがわからないと言わんばかりに、おろおろしている。
(まさか、あのアバズレ……昨日、このデブに俺の伝言を伝えなかったってのか?)
場には、まだ混乱が渦巻いている。
地竜は暴れ回り、小鬼は攻撃すべき対象を失って右往左往していた。
ドグマは傍の地竜の首を締め上げて気絶させると、さっと路地の向こうを指差した。
「おい、スカー! 降りて来てくれよ! あっちで話そう!」
そう言う巨人の声には、どこか下手に出ているかのような、へりくだった響きがある。
スカーはイライラしながらも、ひとまずその言葉に従った。
魔法の腕でバランスを取りながら、屋根の上を移動する。いくつか道を過ぎ、騒動が落ち着いた場所に出ると、ようやく地面へと着地した。
遅れて、大きな腹を揺らしながらドグマがやってくる。
「……なあ、スカー。テクトルの野郎があんたに何か粗相をしたかい?」
巨人の第一声がそれだった。
あんた――と来た。
急に手の平を返して媚びた態度を取るドグマに、スカーはふんと鼻を鳴らして答えた。
「別に? ただ、いまそいつの魔法が必要ってだけさ」
「ひょっとして、あの女を探す方法か?」
巧みな立ち回り方だけでいまの地位を築いたこの巨人らしく、こういうところだけ妙に察しがいいようだ。
「当たりだろ? 俺がテクトルを昇格させたんだ。ペッカトリアのために、きっといつか役に立つと思ってな……」
「なるほど、なかなか先見の明があるじゃねえか」
スカーがそう言うと、ドグマはパッと顔を輝かせた。
「そ、そうだろ? 俺はずっと、誰かのためを思って働くのが得意なんだよ……」
まだこの巨人には利用価値がある……主に、リルパの怒りを避ける盾としてだが。
ドグマがフルールの魔導書を失ったいま、もはやこのクズに従う道理はないが、おだてて近くにおいておく分にはこれほどいい盾役はいない。いざとなれば、全ての罪をかぶせて切り捨ててしまえばいいのだから。
「……すまなかったな、ボス。俺たちがいま争うのは、百害あって一利なしってやつさ」
スカーは敢えて巨人の呼び方を戻し、できるだけ柔和な態度で、ドグマの太い腕をポンと叩いた。そこは、先ほど『苦痛の腕』で一撫でしてやった個所だった。
「痛むかい、ボス? さっきは思わずカッとなっちまって、悪かったな」
「い、いや、俺が悪いんだ。調子に乗っちまって……それにあんたとトバルには、本当に悪いことをしたと思ってるよ……」
ドグマはまごつきながらも、ほっと安堵した様子でそう言う。
「俺たちの結束をバラバラにしようってのが、フェノムの狙いなんだろう! だが、そんなやり方に嵌まっちゃ、それこそやつらの思う壺ってわけだ! 俺たちはもう一度手を取り合って、事に挑むべきだ。そうだろ、スカー?」
……フェノム?
スカーは急にその名前が出てきたことを訝しく思いながらも、いまはドグマの話の腰を折らないのが先決だと判断した。
「そのとおりさ、ボス。俺たちのボスは、いつだってあんただ」
「……で、テクトルがどうかしたかい?」
ドグマは、堪え性のない犬のような態度で、その名前を口にする。
スカーには、この巨人の魂胆がはっきりとわかっていた。
協力するふりをして先にメニオールを見つけ出し、魔導書を取り返そうというのだろう。だが、こんな抜けた巨人に後れを取るほど、メニオールは甘い相手ではない。
「囚人を宮殿に集めてくれ、ボス。全員を、必ずだ。俺の話は、全員に聞かせてやる必要がある。来なかったやつはペッカトリアの敵として排除すると、そう伝えるんだ」
「囚人会議を開くってのかい? でも、そこに、さっきのやつが紛れ込む恐れはないか?」
「紛れ込んだ方がいいんだよ。だが、そんなことにはならないだろう。メニオールはもう、この場所に興味を失っちまったようだからな」
「どういうことだ?」
「いいから、早く言うとおりにしてくれ。事態は一刻を争う……ああ、そうだ。伝令に走らせる小鬼には、最低限、ここ一月ばかりの俺が偽物だったってことだけは言づけさせてくれ。俺を地下に監禁し、俺に成り代わって生活してたやつがいたってな」
「わかったよ」
そう返事してからも、ドグマはその場を動こうとしなかった。
「……早くしてくれよ。こんなところで、油を売っている暇はねえんだぜ」
「あ、ああ……」
スカーがジロリと睨むと、ドグマは身体をブルリと震わせて駆けて行った。
一人になってから、スカーは溜息を吐いて石畳に座り込んだ。
右足がジンジンと痛んだ。
だが、それ以上に痛むのは胸の奥だった。
強烈な愛によって、スカーは自分の視野が狭くなっているのを自覚していた。
メニオールの目的は、二層世界へと向かうことだったのだ。早くしないと、取り返しのつかないことになってしまう――と、そこまで考えて、スカーは顔を歪めた。
(いや、もしあんたが二層世界に行くってんなら、俺も行けばいいだけの話だ。どこまでも追いかけてやる。あんたが俺を殺すまで、俺はあんたを殺すのを諦めねえ……)
とはいえ、まずはこの世界でメニオールを捕えることを考えて行動しなければならない。
フルールの側近として過ごし、ずっと彼女の魔法を見ていたドグマと違い、メニオールがあの魔導書に刻印されたフルールの魔法を理解して使いこなせるようになるのには、もうしばらく時間がかかるだろう。
それまでに、この世界に新しい契約を付け加える。
契約によってメニオールの行動を制限してやれば、察しのいい彼女のこと、ペッカトリアで新しく昇格した新しい契約術師の仕業だと思うに違いない。
そして、必ずそいつに接触しようとしてくる。
となれば、自分はテクトルの周辺で待機していればいい。闇雲に動き回るよりは、その方が遥かに彼女と出会える可能性は高いからだ。
「ああ、それにしてもあんたは、今日も綺麗だった……」
スカーはぽつりと呟くと、ゆっくりと立ち上がった。
それから囚人会議の開かれるドグマの宮殿に向け、片足を引きずって歩き出した。




