正当なる王
庭からドグマの姿が消えても、しばらくギデオンは自分を取り押さえようと必死にしがみついてくるゴブリンたちの中でもがいていた。
ようやく冷静さを取り戻したのは、ソディンのすすり泣きが聞こえてきたときだ。
「……すまない。取り乱して悪かった」
ギデオンは決まりの悪さを覚えながら、ゴブリンたちに苦笑して見せた。すると、すぐに彼らはさっとギデオンの身体から離れ、地面に頭をこすりつける。
「――ご、ご無礼をば!」
「そんなことはしないでくれ。俺のためを思ってやってくれたことだろ。直情的になりやすいところは、直さないといけないとずっと思っているんだが」
言いながら、ソディンに近づく。
うずくまる巨人はそれでもギデオンの背丈ほどの大きさがあったが、心は随分と繊細な様子だった。
「……大丈夫か?」
「あ、兄貴、ありがとう……」
「泣くな、ソディン。お前のやったことは正しい。胸を張れ」
ギデオンの言葉を聞いても、ソディンの表情は晴れなかった。
「俺は親父が怖い……リルパが怖い……俺はずっと誰かに震えて生きてきた」
「だったら、俺がお前を肯定してやる。とはいえ、俺もリルパのことは怖いが」
ギデオンが冗談っぽく肩をすくめると、それでようやくソディンは泣き顔にぎこちない笑みを浮かべた。
「兄貴でも、やっぱりリルパは怖いのかい?」
「怖いとも。だが、その恐怖で自分の信念を曲げたりはしない。彼女は俺に象牙を諦めろと言うが、絶対に諦めたりしない。お前と同じさ」
「俺と同じ?」
「お前はゴブリンたちを守った。恐怖に打ち勝ってな。そうだろ?」
「……兄貴はこいつらのことをゴブリンって呼ぶんだな」
ソディンは、周りにいるゴブリンたちをちらりと一瞥してそう言った。
「彼らはゴブリンだ。『小鬼』などと誰が言い出したのかは知らないが、そんな呼び方で彼らを呼びたくない。ゴブリンは俺たちと同じ人間だ」
「親父とは、全然考え方が違うんだな。兄貴と親父は、同じ世界から来たのに」
同じ世界、と言うソディンの瞳に憧憬の念が混ざっているような気がして、ギデオンはおやっと思った。
そうか、改めて考えてみると、ソディンはこの監獄世界で生まれた巨人なのだ。
「なるほど、お前は俺たちの世界……ここの言い方だとノスタルジアのことを知らないんだな」
「色々な人から、そこがどんなところか聞くんだ。俺が好きなのはフルールに話を聞いているときだった。ガキの頃、よく話してくれてさ……」
「フルールが?」
「そうだ。あの人は他の囚人と違って、自分の世界のことを悪く言わなかった。みんなから恨まれて、こっちに追い出されたわけじゃないからだと思う。フルールは冒険するために、この世界にやってきたって」
「なるほど。確かに普通の囚人なら、あっちの世界に恨みの一つや二つはあるだろうな」
「兄貴はどうだい?」
そう訊ねられ、ギデオンは首を傾げた。
「あっちの世界には、ここよりももっと黒い一面もあれば、もっと自由な一面もある。だが、好きか嫌いかで言えば好きだよ。心から尊敬できる人間が二人いる。得がたい存在がな」
もちろんその二人とは、妹のオラシルと師のマテリットだ。
「その人たちに会うために、帰りたいと思うかい? つまり、兄貴の側から考えれば、脱獄したいかどうかってことになるけどさ」
「目的を果たすまでは帰れない」
その言葉を聞き、ソディンはどこか悄然として肩を落とす。
「……ひょっとしてお前、ノスタルジアに行く手段でもあるのか?」
ギデオンがひそひそと囁くようにして言うと、その瞬間、ソディンはぎょっとした表情で固まった。
「……ど、どうしてそう思うんだい?」
「いや、いまの口ぶりを聞けばそう思うだろ?」
すると、ソディンは決まりが悪そうに、ゴブリンたちの方に目をやる。
すぐに彼の意図を悟ったギデオンは、ゴブリンたちに向かって言葉を発した。
「すまない。ソディンと二人にしてくれないか」
「わかりやんした! ギデオンさまのご命令とあれば……」
ゴブリンたちは恭しく頭を下げ、宮殿の中へと帰っていく。ドグマがまたあとで彼らを虐待するのではないかと思い、ギデオンは胸の奥がムカムカした。
「……彼らが哀れでならない。お前と違い、お前の親父は唾棄すべきクズだ」
「……兄貴はきっとそういう考えだと思った」
「悪いとは思わないぞ。親と子どもは違うからな」
「いや、俺も親父を止めたいんだよ、兄貴……」
途端に、ソディンはギデオンにすがりつくようにして言った。
「フルールが倒れてから、親父は変わっちまった。いまの親父は残酷で、人の生命にこれっぽっちも敬意を払わない。誰かの上に立っちゃいけない人間なんだよ」
「ああ。まさしくそのとおりだ」
「兄貴、あの人に会ってくれ。兄貴はさっき、心から尊敬できる人がいるって言っただろ? 俺にもいるんだよ。兄貴があの人に会って力を合わせれば、ペッカトリアを救うことができるかもしれない。この世界を親父の圧政から解放できる」
「あの人? 誰のことだ?」
「フェノムだよ」
聞き知った名前だった。ソディンは瞳を輝かせている。
「フェノムはいまでも、俺にノスタルジアのことをよく話してくれる。それに、全てが終われば、俺をあっちの世界に連れて行ってくれるとも言ってくれてるんだ。さっき、兄貴に帰りたいかって聞いたのは、そういうことなんだ」
「フェノムには脱獄手段があるってことか?」
「ピアーズ門は特殊なミスリルでできてるって話だ。全てのマナを吸われてしまって、普通の人間はあの場所で魔法を使えない。だけど、フェノムはこの世界でミスリルのことを研究し尽くした。あの金属のことなら、何だってわかってる」
ミスリルの研究と聞き、ギデオンはなるほど、と胸中で一人呟いた。ノズフェッカで、ジルコニア商会のゴブリンから聞いたその男の情報と一致する。
「フルールが倒れたとき、フェノムがこのペッカトリアの王になるべきだったんだ。いまこそ、正当な人に王座を譲るときだ」
「しかしフェノムは、この街がドグマによって変えられていくのをずっと放置していたんだろ? フルールが治めていた時代は、もっとマシだったと聞いたが」
「親父が仕切り出してから、確かにこの世界は豊かで便利になったんだ。それも爆発的なスピードで。だからフェノムも、すぐにそれが間違った方法だと気づけなかった」
「いまになって、やっと物事を見極める余裕が出てきたってことか?」
「そうだよ。フェノムはこの街のことを第一に考えてくれてる。俺たちと、ゴブリンたちのことをだ」
「俺がフェノムに会いたいと言えば、お前が仲を取り持ってくれるのか?」
ギデオンが訊ねると、ソディンはパッと表情を輝かせた。
「もちろんだとも! 兄貴とフェノムが組めば、きっとペッカトリアはいまよりもっといい方向に進むはずだからな!」
メニオールは、フェノムがカルボファントの象牙をいくつか隠し持っていると言っていた。
いずれ接触しなければならないと考えていた相手だったし、これはこれでいい機会かもしれない……。
「兄貴。明日、正午過ぎくらいにまたここに来てくれよ……」
ソディンはギデオンの腕を、まるで壊れ物を扱うようにして握り、そう懇願した。
「俺が来ると、お前の親父がまた不機嫌になりそうだが」
「大丈夫だよ。明日親父はフルールの城に行くから、ここにはいない」
それを聞き、ギデオンはおやっと思った。
「フルールの城に? なぜ?」
「明後日、フルールが目覚める。だから前日には、解呪に必要になる象牙を渡しに行くんだよ」
「それが城に届けられるってことは知ってるよ。だが、ドグマのやつが直接、城まで象牙を持って行くってことか?」
「そうだ。親父は明日、自分の宝物庫を開いてカルボファントの象牙が取り出す。そして、直にメイド長のペリドラに渡すんだ。もう十年以上、毎月行われてる儀式だよ」
「なるほど」
短く答えてから、ギデオンはじっと考えた。
フェノムの持つ象牙と、ドグマが取り出す象牙……。
どちらが、より入手しやすいだろう――と。




