契約術師への関心
数刻前、トバルの工房に気つけ薬を持って戻ったシェリーは、その薬がすでに必要のないものに成り下がっていることを知って、肩透かしを食っていた。
スカーは、とっくに目を覚ましていたからだ。
ほっとしたのも束の間、それからシェリーは他の者が出払ってしまった工房で、スカーの求めに応じるようにして、ペッカトリアの近況を説明することになった。
最初、スカーの言葉は意味のわからないものに思えた。
スカーを騙る偽物が、このペッカトリアの地で何食わぬ顔で生活しており、それゆえ彼自身は最近のことを知らない、と。
シェリーはスカーが狂ってしまったのかとも思ったが、時間が経つうち、彼の言うことにも一理あるかもしれないと思うようになった。
スカーとシェリーは、これまでにも何度か肉体関係があった。しかし、最近の彼はシェリーの誘いに、まったくといって食指を動かさなかったではないか。女がスカーの皮を被っていたというのなら、それも頷けるというもの。
「――なるほど、一級身分の囚人が二人死んで、代わりに二人新顔が増えたんだな?」
先日の囚人会議の様子を伝え終わったとき、スカーはそう言って顎をさすった。
「そうよ。ギデオンとテクトル」
「そいつらは、ボスにどんな力を認められたんだ?」
「ギデオンは植物を使うらしいわ。彼が、ラーゾンとアルビスの二人を殺したのよ。その力を買われて囚人になったってわけ」
「何だと……? 一級身分の囚人を殺しておいて、自分はまんまと昇進しやがったってのか?」
「事情があったのよ。ギデオンはこの監獄世界に入ってきたばかりで、ルールがわかってなかったっていうのもあるわ。いまは、ちゃんと私たちの仲間よ」
「仲間ねえ? まあ、実際にどんなやつか見てみねえことには判断がつけられねえな……で、もう一人のテクトルってやつは?」
「ゴスペルの推薦で昇格したのよ。契約術を使うわ」
「……契約術?」
スカーは目を見開いた。それから、じっと何かを考え込むように黙り込んだ。
そんな傷の男を前に、シェリーはじっとりと汗をかいていた。
いままで接していたスカーが偽者だとしたら、もちろんボスにそのことを報告しなければならない。だが、例の象牙のことはどうすればいいだろう?
シェリーは、ひょんなことから手に入れた象牙をあの偽物のスカーに渡してしまったのだ。しかも、口車に乗って他にも色々と情報を流してしまった……。
そのメニオールとかいうその女を、まずは見つけ出さなければならない。
しかも、個人的にだ。
彼女を、ペッカトリア全体で追い込むことはできる。しかし、もし捕えられたメニオールが自暴自棄になり、シェリーと共謀していた過去を暴露してしまうと面倒なことになる。
ゆえに、メニオールへの接触はあくまで個人的に行わなければならない。最悪、口封じをする必要も出てくるだろう。だが、スカーすら敵わない相手に自分が勝てるだろうか……。
「……シェリー、ボスにお使いを頼まれてくれねえか」
スカーが突然そんなことを言い、シェリーはパッと顔を上げた。
「え?」
「契約術と聞いてピンときたのさ。ペッカトリアに、不安要素をずっと抱え込んでいるわけにもいかねえってな」
「どういうこと?」
「メニオールのことさ。彼女は自分の姿を自在に変えちまう。見つけるのは困難だが、だからといってそのままにはしておけねえだろ?」
「そ、そうね」
思わず、ギクリとした。スカーが、いままさに自分の考えていたことについて言及したからだった。
「そのテクトルとかいう契約術師が現れたのは幸運だったぜ。そいつを使って、メニオールを見つけられる」
「……どうやって?」
「お前も知ってるだろ? 二層世界へと通じる扉……土煙の扉を管理しているのが、フルールの魔法に刻み込まれた契約術だってことをよ」
「知ってるわ。でも、それが何?」
西の荒野に吹き荒れる土煙の中を迷わずに進むことができるのは、フルールの魔導書に名前を刻まれた者だけだ。土煙の魔法自体はフルールの作り出したものだが、そこを通行する者たちの許可を管理する魔法は、別の者の魔法だと聞いたことがある。もちろん大昔のことなので、いまその術者は死んでしまっているはずだが。
「契約術っていうのは、要するに名前を使って物事を管理する魔法だ。たとえメニオールが他の人間に成り代わっていても、名前だけは変えられねえ。あの土煙に仕掛けられた契約術で言えば、俺は二層へ行く許可を与えられているが、俺のふりをするメニオールは行けねえ」
「ええ、そうね」
「もう説明は必要ねえだろ? テクトルに言って、新しい契約を結ばせるんだ。そしてペッカトリアの中で、メニオールの出入りできる場所を制限するのさ。そうすれば、おのずと彼女は炙り出されるってわけだ」
なるほど、とシェリーは頷いた。
やはりスカーは頭が回る。複数の要素を結び合わせ、新しいアイデアを生み出すことができる。言われてみると当たり前のように感じることでも、それを最初に考えつける人間というのは貴重だ。
ボスがこの男に一目置いているのも無理からぬ話だった。
しかし問題は、メニオールもそのスカーを完璧に演じ切っていたということ。
スカーと同等、あるいはそれ以上に頭の回る相手を、出し抜かなければならない。
――それも、一人で。
メニオールと最初に接触するのは、シェリーである必要があった。ゆえにテクトルを上手く丸め込み、まずはペッカトリアのためではなく、自分のために働かせるのだ。
「……じゃあ、いまからボスにそれを伝えに行くわ」
シェリーは、密かな決意と正反対のことを口にすると、スカーに向かって微笑んだ。
「あんたはしばらく休んでいるのよ? ひどい怪我なんだから」
「ああ、ありがとよ、シェリー」
「うふふ、本物のあんたが帰ってきてくれて嬉しいわあ。メニオールって子は、私の誘いに全然乗ってこなかったから、張り合いがなかったのよ?」
シェリーはスカーの近くに寄り、甘えるようにして頬を撫でた。
しかし、スカーは煩わしそうに顔をしかめてその手を振り払う。
「……俺に触るんじゃねえ。とっとと行ってこい」
「どうしたのよ? ずっと監禁されてて、女が怖くなったの?」
「いや、俺は本当に愛すべき女を見つけ出したのさ。いままでの俺は誠実じゃなかった」
言いながら、うっとりと中空を見つめるスカーの様子は不気味だった。
「誠実? あんたの口からそんな言葉が出てくるなんてねえ……」
「シェリー、お前も本当の愛を見つけ出せ。愛を知れば、きっと自分のやっていることが虚しく感じるはずだ。誰彼かまわず色目を使っていても、しょうがねえってな」
「私に説教するつもり?」
シェリーは、もはや軽蔑の念すら覚えてスカーを睨みつけた。
昔から、自分の周りにはこういうことを言う男ばかりがいた。堅実で、モラルを何よりの拠り所とする、面白みに欠けた人間たち。スカーはその対極にいたはずなのに……。
「あんた、まさかまだ偽物なんじゃないでしょうねえ?」
「冗談じゃねえ。俺は俺だ。だが、俺は彼女の痛みを知った。彼女にも、俺の痛みを教えてやりたい。偽物とか、本物とかそういうのは問題じゃねえんだ。痛みのやりとりをして、俺たちは一つになるんだよ……」
自分の世界に閉じこもり、何やらブツブツと呟き出したスカーにひとしきり不審の目を向けてから、シェリーはくるりと踵を返した。
何はともあれ、テクトルのところに行かなければならない……。
急ぎ工房を出ようとしたシェリーは、そのとき少し眩暈を覚え、思わず傍にあるガラクタに寄り掛かった。ここにはむせ返るような油の匂いが漂っており、気分が悪かった。




