傍観者
「……すばらしい戦いだったね。ストレアルも、メニオールもよくやった」
都市壁の上から、戦いの当事者たちがいなくなった郊外を見下ろしながら……。
自分の隣に立つフェノムがそう言うのを、ユナグナはじっと聞いていた。
メニオール――その名前を、深く記憶に刻みつける。
戦いの間、ユナグナは彼女から視線を逸らすことができなかった。
心に満ちた明確な怒りが、そうさせたのだ。
「……フェノム、あの女がスカーのふりをしていたんですね?」
「そうだね。囚われていた君を脅かしていたのも、彼女ということになる」
「ゴブリンの尊厳を奪い取ろうという危険な女です」
ユナグナはドグマの宮殿でずっと拷問を受けていたが、身体の痛みなどどうでもよかった。ゴブリンの誇りのために戦うことを決意し、妻と子どもを手にかけたあのおぞましい日から、自分の呪われた生命などとうに捨てたつもりになっている。
しかし、ゴブリンたちを強制的に服従させるという「契約術」の存在には、大きく心を乱した。
「……邪魔が入らなければ、あの女は死んでいたのに」
「彼女が死んだところで、君の悩みは解決しないよ。もっと視野を大きく持つことだ。ぼく個人の意見を言わせてもらうと、彼女が死ななくてよかった」
「何ですって?」
「彼女はすばらしいと思わないか? 度胸もあり、機転も効く。まさか、象牙を使って神の加護をひっぺがそうとするなんてね。柔軟な発想の持ち主だ」
「しかし負けました」
「負けただって?」
フェノムは素っ頓狂な声を上げた。
「いや、いまのはメニオールの勝ちだよ。負けたのはストレアルだ」
「……とてもそうは見えませんでしたが」
あの空から現れた妙な魔物が横やりを入れなければ、騎士の放つ黄金の一撃はメニオールを捉えていたはずだ。
「ならば、きたまえ。真実を見せてあげよう」
フェノムはひょいとユナグナを担ぎ上げると、都市壁から飛び降りた。
大地には、森に向かって巨大な亀裂が走っている。それは、黄金の剣が切り裂いた傷跡だった。
「……あの騎士は終わりですね」
地面に降ろされてから、ユナグナは大地の傷を見ながらぽつりと呟いた。
「そうだね。ストレアルはもう終わってしまった」
フェノムはユナグナの言葉に同調したものの、彼と自分の言葉が別の意図を持っているように感じて、ユナグナは眉間に皺を寄せた。
「どういう意味です? 俺が言いたいのは、リルパのことですが」
「うん?」
「リルパは大地に対する狼藉を決して許さない。大地は彼女の身体も同然だからです。あの騎士は、それに傷をつけました」
「ああ、そういうことか。リルパに目をつけられるのはよくないね。急がないと」
フェノムはユナグナを引き連れ、森へと入っていく。
木々が鬱蒼と生い茂り、陽の光がほとんど届かない暗がり。
そこで、何者かがすすり泣く声が聞こえた。
「ああ、寒い……寒い……女神さまはどこ? ぼくを愛してくれる女神さまは……」
近づいてよく見ると、それは先ほどの騎士だった。彼は地面に横たわり、肩を抱いて震えている。さめざめと涙を流す様子は、年端もいかない子どものようだ……。
「どうして……? どうして……? ずっとぼくを守ってくれていたのに……」
「……ごらん、ユナグナ。あれがいまの戦いに敗れた者の姿だ。彼は女神の加護を失ってしまったんだよ」
フェノムは苦笑しながら、ストレアルの方を指差した。
「……象牙は効かなかったように見えましたが」
「実を言うと、効いたのは象牙じゃないんだ。ストレアルの加護は、彼が制約を破ったことによって失われただけなんだよ」
「どういうことです?」
「女神ホロウルンは、随分と嫉妬深くてね。加護を与えた者が、女性と肉体関係を持つことを嫌うと言われている。だけど、その『肉体関係』というやつの定義が曖昧なんだ。別に神だって、ずっと加護者を見つめているわけじゃない。ちょっとした条件を与えて、それで加護者を取り締まっているに過ぎない」
フェノムは続けた。
「その条件は、目の粗い網のようなものだ。別に性器同士の接触がなくても、女性と体液の交換をしてしまうと、それが性的な行為と見なされてしまう。ぼくも昔、その条件の粗を利用してホロウルンの加護者を倒したことがあってね」
体液の交換……?
その言葉を聞いてユナグナが思い出したのは、傷ついたメニオールの身体の中に、ストレアルの腕が引きずりこまれたときのことだった。
あのあとストレアルは再生したメニオールの肉体に手を噛みちぎられ、血液をまき散らすことになったが、メニオールの肉体が完全に蘇生するまでの一瞬の時間に、傷口同士の接触があったのかもしれない。
「……それであの騎士を守っていた女神は嫉妬に狂い、彼から手を引いたということですか」
「そういうことになるね。ぼくが、メニオールの勝ちだと言った意味がわかったかい?」
「……ええ」
ユナグナは、哀れな騎士の姿に同情の眼差しを向けた。
「あのままだと、勝者なき戦いになるところだった。それほど不毛なことはない。さっきの彼がメニオールを助けようとしなければ、ぼくが割って入るところだった」
「空から現れたあいつは何者です? 魔物にしか見えませんでしたが」
「ギデオンという囚人だ。聞いたところによると、植物を使うらしい」
「植物……?」
「そうだよ。まったく、次から次へと面白い人間が現れるものだね。ついさっきドグマの牢獄から出てきた君は知らないだろうが、いまペッカトリアは彼のことで沸き上がっている」
そう言うと、フェノムは反応を伺うようにしてユナグナの方を一瞥した。
「彼こそは、王に相応しい人間だ、と。ゴブリンたちがそう思い始めている」
「……馬鹿な。王に相応しいのはあなたを置いて他にいませんよ」
「ぼくを褒めたところで仕方ないよ。君の目的は一つだ。ドグマの打倒。そうだろう?」
その言葉を聞き、ユナグナは渋面を作った。
「それはそうですが……」
「そんな顔をする必要はないさ。ぼくたちからしても、とても都合のいいことだろう? 彼は、ぼくたちが行動を起こす大義になってくれるかもしれないよ。ぼくのために戦うゴブリンは少ないだろうが、新たな王のためになら剣を取る意思を固めるかもしれない」
「……あなたの深遠なるお考えはわかりません。俺はただ、あなたの考えに従うのみ。俺の魂はすでに汚れています……こんな魂でよければ、自由にお使いください」
「そんなに自分を卑下することはない……と言っても、君の覚悟に対する慰めにはならないんだろうがね」
フェノムはそこで、ふいとストレアルの方を見つめた。
「しかし、魂……なるほど、魂か……」
呟くようにして言い、正気を失って震えるストレアルに近づいて行く。
「ストレアルの魂はとても純粋で、清らかだ。これまでただひたすら強さだけを追い求め、人間が罪悪の象徴としてひた隠しにする性愛の快楽を知らない。その様は、あまりにも無垢だと言っていい。ひょっとしたら彼女の眼鏡にかなうかもしれない」
「彼女? 誰です?」
ユナグナの質問に、フェノムは答えなかった。
「ストレアル」
騎士の名前を呼び、その近くで片膝をつく。そして、彼を献身的な様子で抱き締めた。
「かわいそうに。ぼくは敗者の気持ちを知っている。ぼく自身が敗者だからね。君がこれ以上苦しむことがないよう、ひと思いに楽にしてあげようかとも思っていたけど……ひょっとしたら、君はまた立ち上がれるかもしれない。ぼくと同じように。ぼくと違う方法で」
「寒い……寒いんです……ずっと女神さまが温めてくれていたのに……」
騎士は、フェノムに必死な様子でしがみついて、そう言った。
「おいで、ストレアル。ぼくが君の魂を導いてあげよう。君の戦いぶりはすばらしかった」
「ああ、怖い……女神さまがいないと、戦えません……ぼ、ぼくは弱いんです……」
「君はきっと新たな加護を得られるとも。彼女は女神ではないが、いまとなってはそれに極めて近い存在と言っていい。君をあらゆる恐怖から解放してくれるはずだ」
それからフェノムが口にした名前を聞いて、ユナグナは驚くことになった。
「ぼくたちの友……ソラが、きっと君を救済してくれるよ」
霊魂術師ソラ。魂兵のソラ。
フルールがダンジョンの先へと進む際、欠かさず連れていった仲間の一人だ。
しかし彼女はすでに死んだはずだった。多くの魂を抱えたまま……。
ペッカトリアを支えていた一人である彼女が死に、ますますドグマは個人的な支配の手を強めることになった。
ゆえにソラの死は、ユナグナが行動を起こすきっかけの一つと言ってもいい。
――ソラは死んだ。それは間違いない。
しかしフェノムの顔には、確固たる自信が満ち溢れていた。
ユナグナの脱獄については、先々で補足する機会がありますので、そこで詳細を記述いたします。
次回より新章「反徒たちの前奏」編がスタートします!
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