『虚空』のホロウルン
二つに分かれた身体がそれぞれ与えてくる奇妙な感覚を、ゴスペルはしばらく床に転がったまま味わっていた。
それにしても、無貌種に向けて「神に対する不敬」とは、いささか気の利いた表現ではないだろうか、と思いながら……。
じっと気配を殺して、機会を待つ。
待つのは得意だ。様々な生物たちの栄枯盛衰をともに体験しながら、ついに高度な知能に紐付いた自我を獲得するまでの長い間、自分はずっと待ち続けていたのだから。
そうしてストレアルが他の魔物と戦い、すっかり足元に警戒心をなくした瞬間――ゴスペルは両の身体を巨大な生き物の顎に見立て、獲物に襲い掛かった。
「な、何!?」
「いけませんね。油断大敵というやつですよ……」
二つの身体を流形状に変えたゴスペルは、それでストレアルを覆っていく。
「……あなたを捕食します。ぶしつけな女性から人間を食べろと言われ、ちょうど今日は口が人間の味になっていましてね。ただ、どこが口かと言われても困るのですが……」
「貴様、まさか――」
「いまさら気づいても遅いですよ。わたくしはキメラではなく、無貌種。神の作り出したもっとも自由なる生き物です……」
「無貌種だと!? では、貴様があのメニオールとかいう女の顔を変えていたというわけか……!!」
それを聞き、ゴスペルは眉をひそめた。眉をひそめるために、虎の顔から人間の顔に姿を変える必要があるほどだった。
「おや、メニオールのことをご存じで……?」
ストレアルはゴスペルの身体の中で激しく暴れたが、流形状となっているそれが衝撃を全て吸収してしまう。
「貴様、とぼけるなよ! 先ほど私から逃げ出し、今度はこんなところに潜んでいたと言うわけだ!」
「何を言っているのかわかりません。あなたとは初対面のはずですが……もっとも、わたくしはあなたのことをよく知っていますけどね……」
「何……?」
「お初にお目にかかります、ストレアル・〝ホロウルン〟・ヴェスパー……わたくしはあなたが散々荒らし回ってくれたこの屋敷の主人、ゴスペルといいます……」
その名前を聞き、ストレアルがハッと息を呑む。
「貴様がゴスペルか……?」
「ええ。状況を鑑みるに、きっとスカーが話したのでしょうね……? まったく、あの男はいつだって私に不利なように物事を動かす……いずれ、罰を与えてやりますよ! ええ、これは何よりも硬い意思です……」
ぶつぶつと呟く。
実際のところ、あの男の扱う『苦痛の腕』が身体に触れてくる感触は気持ち悪く、近寄りたくないというのが本音だった。あの腕で体内をまさぐられると、身体が生き物の捕食中だと錯覚して、強制的に消化を開始しようとする。
しかしそこには物質があるわけではないので、自分の身体を消化し始めてしまい、強い吐き気を覚えてしまう……。
それは、ゴスペルがスカーを嫌いな理由の一つだった。
「なるほど、貴様の『妙な力』というのは無貌種であることに端を発していたわけだ……」
そのとき、ストレアルがぽつりと呟くようにして言った。
そこに、どこか余裕が含まれているような気がして、ゴスペルはおやっと思った。
「妙な力……?」
「スカーが言っていたぞ。貴様には、謀略に向いた力が備わっているとな」
「謀略向きの力かどうかはわかりませんね……ただ、あなたを消化してから、あなたのふりをしてスカーに近づくことはできますよ……?」
ゴスペルは、ストレアルの耳元でひそひそと囁いた。
「いい剣をお持ちのようです……それをあとで借りることにしましょうか。『ストレアル』は一人の囚人を殺し、突然姿を消す。ノスタルジアに帰ったのだろうか……みなが不審に思う中、わたくしは素知らぬ顔で『ゴスペル』という囚人に戻る……いかがです?」
「人間的な思考をしろ。人はそういったものを、謀略と呼ぶものだ」
「いまさら何を吠えたところで、あなたがわたくしに捕食されるのは決定事項ですよ……」
そのとき、ストレアルの瞳がギラリと光った。
「……そうかな?」
そんな騎士の言葉に気圧されたわけではない。しかしゴスペルはそのとき、全身でぞっと寒気を感じ取ることになった。
この男に触れているのは危険だ――
直感のあと、その判断が正しかったという理解がやってくる。
「ああっ……!?」
身体の内側に強烈な「喪失感」を覚え、ゴスペルは叫びながらストレアルの身体から飛び退いた。
無意識のうちに、身体は人間の姿をかたちづくっていた。
初めて食した人間……ゴスペルと呼ばれる囚人の姿を……。
自分の視界に、人間の手がある。それは指先から手の平に至るまで、全てがぶるぶると震えている。
『人間』という生き物としてのサイズは、これまでと変わらない。しかしゴスペルは、自分を構成していた細胞の多くが、一瞬にして失われてしまったことを悟った。
「あ、あなたはいま、何をしたのです……?」
「起きたことより、これから起きることを気にした方がいい――貴様は死ぬ。いまここで」
ストレアルは剣を携え、一歩前進する。
騎士の迫力に気圧されたゴスペルは、思わず一歩後退した。
死ぬ……? 無貌種である自分が……? いや、そんなことがあるわけがない……。
「私のもとには、ときおり救いを求める無貌種がやってくることがある。自死を望む個体がな」
言いながら、ストレアルはさらに一歩を踏み出す。
「彼らにとっての死とは、自我の喪失だ。自分が自分であるという認識を失うこと。そのためには狂乱に陥るしかない。しかし、私は別の方法で彼らに死を与えてやれる」
「な、なんですって……?」
「身体を構成する細胞を、全て抹消してやればいい。空間を削り取り、存在自体をなかったことにする。私には、それができる」
ストレアルは無造作に剣を構えた。
「貴様も死にたかろう。悠久のときを過ごした無貌種は、みな同じ悩みに行きつく。自分は何者なのか? どこから来て、どこへ行くのか? しかし少なくとも私は、どこへ行くのかという問いには答えてやれる」
「ど、どこへ行くのです……?」
もはや興味すら覚え、ゴスペルは身を乗り出して訊ねていた。
「――無だ」
凄まじい速さで飛び込んできた騎士の一撃を、ゴスペルはもろに受けた。
切り裂かれた場所に、また先ほどと同じ「喪失感」が生まれた。とはいえ、今度はもっとごっそりと……。
「喜べ。貴様は今日、定形ならざる者の抱く傲慢な悩みを解決できるのだ。祈り、果てるがいい。私の守護神――『虚空』のホロウルンさまが、貴様に救いを与えてくださる」
金色に光る騎士の剣には、強烈な魅力が宿っている。
この剣を受け続ければ、自分はずっと探し求めていた答えを得られる気がした……。
「ホロウルンは所詮、主神ラヴィリントの眷属に過ぎないのでしょう……? そんな小物に与えられる答えに興味はありませんよ……」
しかしゴスペルは誘惑を振り払い、自らを奮い立たせてそう言った。
メニオールの勧誘が、不定なる自分の中に一本の確固たる柱を建ててしまったのだ。
その正体は希望。
ダンジョンの先で創造主は待っている、という希望だ。
それがラヴィリントと呼ばれる主神なのか、リルと呼ばれる小鬼たちの神なのか、あるいはまったく別の存在なのかはわからない。
しかしその者は必ず答えをくれるだろう。そのときまでに得られる答えは、全て妥協の産物に過ぎない気がした。
「我が女神を小物だと……?」
ゴスペルの言葉を聞き、ストレアルが気色ばむ。騎士の瞳には、明確な怒りが宿っている。
「おお、怖い目です……では、わたくしも全力でお相手しましょうか……あなたの言うように、わたくしは謀略に長けているかもしれません――が、同時に暴虐でもあるのですよ」
最高に気の利いた洒落を言ったつもりだったが、ストレアルの反応は薄い。
ゴスペルは気まずさを覚えながらも、変貌を開始した。
その姿はもちろん、自分が食った中で最大最強の生物――




