脱獄者
そんなメニオールの脅しがゴスペルに効果を及ばしていたのは、ほんのわずかな間だった。常々思っていることだが、この無貌種には緊張感が足りない。
「おお、怖い……あなたはきっと地獄行きですよ、メニオール……」
芝居じみた態度で、ゴスペルはぶるぶると震えてみせた。
「オレは喜んで地獄に行ってやる。でも、てめえもきっとそうだぜ。いまから、人を一人殺してもらうわけだからな」
メニオールが冷たく言うと、暗い地下通路にその言葉が反響した。
すると、ゴスペルはさっと真顔に戻る。
「殺す? 誰を……?」
「こいつだよ」
メニオールは自分の顔を指差した。
「スカーを? なぜ……?」
「正確には、殺すんじゃなくて、食って欲しいのさ。てめえらは何かを食わねえとその姿を模すことができねえんだろ?」
無貌種たちは何かを真似する際に、そのものを自分の中に取り込んでいなければならない。このあたりは、神経操作で無貌種の姿を自在に変えられるメニオールとは違う。
「実はてめえにはちょっとした間、スカーを演じていてもらいたくてよ」
「――嫌ですよお! わたくしがあの男を嫌っているのは知っているでしょう!」
しかし、ゴスペルはこの世の終わりとばかりに騒ぎ出した。
「……静かにしろ! いいか? もう、我儘を言ってられるときじゃねえ」
「嫌だあ! あんなやつ、食べたくない! 食べたくない!」
「腹に入っちまえば同じだ! まあ聞け……」
メニオールはゴスペルの顎を掴み、脅しつけるようにして凄んだ。
「ユナグナを知ってるだろ? あいつをドグマのところから出す」
「……ゆ、ユナグナ? 象牙を盗んだ小鬼ですか……?」
「そうさ。あいつを牢から出すのに、オレの代わりにスカーを演じるやつが必要なんだ」
さらに声をひそめ、ほとんど囁くようにして言う。
「……計画はこうだ。まずスカーと拷問補助役の小鬼が、ユナグナの囚われた地下牢に入る。そしてユナグナを拷問中、少しばかり気合いを入れ過ぎちまってそいつを殺しちまうのさ。それからユナグナの死体を地下牢に残したまま、スカーと一匹の小鬼がそこから出てくる……」
「ど、どういうことです……?」
「オレはてめえにもらったこの無貌種で、ユナグナの死体を作り出す。そうなると、今度はスカーを演じられるやつがいなくなる。だったら、他のやつがスカーをやらなきゃいけねえって話だろ?」
「それがわたくしだと……?」
「そうだ。お前はスカーの格好をして、オレが作った小鬼と一緒に、地下牢に向かうんだ。もちろん最初からユナグナそっくりに作っておくが、汚れ仕事をやる小鬼よろしくフードを被せておくから、絶対に気づかれねえ。あの宮殿のやつらは、小鬼の顔の造形にそこまで注意を払わねえからな」
「は、はあ」
「地下牢に行ったてめえは、その小鬼を地下牢に転がして、今度は本物のユナグナにフードを着せるんだ。あとは拷問中にユナグナが死んだことにして、本物と一緒に何食わぬ顔で出てくればいい」
「なぜユナグナのためにそこまでするんです……?」
メニオールはゴスペルから手を離し、また地下通路を歩き出す。
「……あいつは厄介なやつと繋がっていやがった。フェノムだ」
「なんと、あの錬金術師と!?」
「利用価値がある気がしてきただろ? ユナグナはフェノムとのパイプ役にもってこいだ」
「メニオール、あなたは何を考えています……?」
心配そうなゴスペルの声を背に受け、メニオールはちらりと彼の方を振り返った。
「……もちろん、オレが考えていることなんてたった一つに決まってる。ダンジョンの先へと進む方法さ」
「今回の一件は、そのために必要なことだというのですか……?」
「そうだ。てめえにもメリットのある話だろ? オレに協力していれば、いつかダンジョンの最深部に連れて行ってやる」
そして、新しい世界を手に入れる。誰の手垢もついていない世界をだ。
世界の全てを孕むこのダンジョンが誰かに攻略されたあと、その先には新たな世界の創造があると言われている。
それこそが、メニオールとゴスペルの目指すダンジョンの伝説だった。
メニオールは世界を手に入れるために。
ゴスペルは創造主と会うために。
「……ああ、創造主はわたくしたちの謎に答えを下さるでしょうか……? 無貌種はどこからきて、どこへ行くのか……」
「きっとくれるさ。だが、てめえの問いは少しばかり人間的過ぎる気がするけどな」
「どういうことです……?」
「結局、人間の頭で考えてるってことさ。たまには、他の生き物になった方がいいかもしれねえぜ、ゴスペル」
メニオールが言うと、ゴスペルは肩をすくめた。
「なら、スカーなんか食べなくていいじゃないですか。結局、また人間を演じなければならないなんて……」
「それとこれは話が別だ。覚悟を決めろ」
「わかりました。わかりましたよ……」
そう言って、ゴスペルはやれやれと嘆息した。
それから二人は手ごろな場所から地表へと出て、スカーの家へとやってきた。
「……さて、あのクズとの鬱陶しい生活もいよいよ終わりってわけだ」
メニオールはぽつりと呟き、書斎の本棚を動かした。
その奥に、地下牢へと続く空間が現れる。ここを通るのも、もうこれで最後になるだろう。
「ひょっとしてあなたは、寂しいのでは……? メニオール……」
「さっきの冗談より、よほど面白いことを言うじゃねえか」
「冗談? いいえ、あなたは甘い人間ですからね……」
軽口を叩きながら地下牢に足を踏み入れ、スカーを拘束している牢に近づいたとき――メニオールはピタリと動きを止めた。
――スカーの姿がない。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。足枷で牢に繋がれているはずの男は消え、そこには大きな血だまりがある。
次に自然と目が向いたが、牢の壁にぽっかりと空いた穴……。
背筋に走った寒気とともに、その理解がやってきたのは一瞬だった。
「――あの野郎! ま、まさか……!?」
牢を開き、壁の穴へと近づく。血痕が、点々とその穴の向こうへと続いていた。
間違いない……あの野郎はここから逃げやがった!
「な、何でこんな穴がありやがる!? どうやって開けやがった!?」
まさか壁の向こうには、最初からこの穴が開いていたのだろうか……? あいつは、自分がここに囚われることを予想していた……?
――いや、そんなわけがない!
暗い穴を覗き込むと、すぐ脇に朽ちかけの女の死体があるのを見つけ、眉をひそめる。
「ああ、その彼女には見覚えがありますよ……」
ゴスペルが呻くようにして言い、メニオールは振り返った。
「彼女……? この死体のことか?」
「ええ、わたくしの屋敷で働いてもらっていた奴隷身分の女性でした。突然いなくなったのですが、まさかこんなところに埋められていたとは……」
埋められていただと……?
メニオールは、また女の死体を見つめた。
「スカーは、あなたの目が届かない秘密の空間を持っていたようですね……ああ、まさかこんなことになろうとは……」
ゴスペルが両手で顔を覆う。
「だからわたくしは、あの男を見くびるなと言っていたのです……さっさと殺しておくべきだったのに……」
「オレはずっとてめえに、あいつを食えと言っていただろ! なのに、ずっと適当な言い訳をして先延ばしにしやがるから――」
言葉の途中で、メニオールはすぐに口を閉じた。
こんなことをしている場合ではない、と気づいたのだ。
起こってしまったことはしょうがない。冷静さを欠いて、有利に働くことなど一つもない。
「……まだ間に合うかもしれねえ」
「え?」
メニオールは床の血だまりを示した。
「見ろ。あいつはどうやら、ひどい怪我をしてるらしい。足枷を強引に外すために、足首から先を切り落としたのかもな」
「人間に、そんな馬鹿なことができるわけないでしょう……」
「いや、あいつは頭のネジがぶっ飛んでる。やりかねねえ」
メニオールはゴスペルに向き直った。
「オレはスカーを追う。あいつはこの血の先にいるはずだ」
「わたくしはどうすればいいのです……?」
「屋敷に戻ってろ。計画は変更だ。オレがあいつの首根っこを捕まえて連れて行く」
メニオールはじっと穴を見つめた。それはこの世界に来てから、初めて経験した失敗の象徴だった。
「……ミレニアを頼む。何だか、悪い予感がしやがる」




