勇気を持つ話
トボトボと家路に就くと決心したのは、もう陽が完全に落ちてからだ。ポケットの中の携帯は何度か震えていたけれど、僕は何も見ないことにした。それが一番、最善だと思った。
僕の帰り道に咲の家がある。でも僕はあえてそこを通らないように、遠回りをして帰った。たまたま上をみたら、晴れていたのに灰色に見えた。灰色に押しつぶされる。そう思った。
恥ずかしかった。
告白が、周囲の視線が、何より自分自身が。
僕は両手で目を抑えた。今になっても、どうして逃げてしまったのか、不思議でたまらなかった。
言えなかった。
この胸に残ったことは、たったそれだけだった。もっと恥ずかしいことを、僕はこれからもしていくのだろうか。例えばこのまま高校生になって咲と離れ離れになって、高校生になって同級生に女の子の読書家がいたとして、その子のことを好きになって、また卒業式に告白をしようとして、そうしたら僕は逃げるのだろうか。
ただそれだけだった。
そんなことが、さっき起こった。
どんだけ過去を嫌っても明るい未来があればな、なんて思ったこともあるがもうおしまいだ。
ただいまもおかえりも言葉を交わさないまま、僕は自分の部屋に一直線に向かった。ベットにダイブして、また目を隠した。
目がいけないのか。
そう思ったら、僕はペンを取り出して自分の目を潰すところだった。恐怖心だけがそれを引き留めていた。
「はぁ」
大きくひとつため息を吐く。
何してんだ、僕。小説でも読むか。
僕が昨日まで読んでいた小説を、黒革のブックカバーについている紐をたどって、読んでいたページに戻る。
これは僕が好きな現代をモチーフにした日常ものだ。でも、なぜだかぺージをめくる手が止まる。
別のを読もう。
なんだか読んではいけない気がした。
なんでだろう。僕は普段小説を読むときに、わくわくするのに。やっぱりプロの作家は違うなって思うのに。
あぁ、わかった。
咲に会えなくなるからだ。咲に会えなくなって、小説の感想を言い合うことがなくなるから。だからだ、だからなんだ。
文庫本が錯乱している本棚へ足を運ぶ。もう本棚は本棚という役割を破棄している。ただの物置。僕はガサゴソと荒し尽くす。
あぁ、こんな小説も買ったな、読んでないけど。
あぁ、こっちは探していたのになかった小説だ。これは枕元に置いといてっと……んで、これは……。
僕は急にバランスを崩して尻もちをつく。イッテテ。
そのときバラバラと小説が零れ落ちてきた。そして僕の目にとまったのは、
僕が書いた小説だ。
パソコンで文字を入力をして、プリントアウトをしてホッチキスで止めたんだ。
咲に見せようと思って、結局やめたんだよな。だって、この文章ブサイクだし。
パラパラとページをめくる。
あぁ、懐かしい。
まるで卒業式にもらったアルバムみたいだ。
やっぱりよかった。こんなの咲に見せなくて。
でも、僕はなんとなく気に入っているんだよなぁ。もっともっと書くことも上手になれば、それを咲に見せられれば。
そしてふとみたページには、ある目立った文字があった。
「ポケットの中に、勇気をひとつ。
きっとそれだけで、どこにだって行ける」
だった。
アハハ、と僕は笑ってしまった。
こんなの本当に僕が書いたのかよ。
自分で書いて、こんなにも自分を駆り立てるなんて。さすが、自分で書いた文章は自分にウケがいい。
ポケットの中を漁ってひとつ、確かに飴があった。あるじゃないか、ポケットの中に勇気がひとつ。
気が付けば走り出していた。
それは逃げてきたときと全く違う感じがした。
小難しいことはよくわかんないけど、だけど、言わなきゃ。僕が思うのは、ただそれだけだった。
母さんには「行ってくる」とだけ伝えた。途中、「えぇ? どこに?」とか「いつ帰ってくるの?」とか、いろいろ言われた気がするけれど、けど、そんなのとりあえず無視して走り出した。
母さんごめん。僕、行かなくちゃいけないんだ。
はぁはぁと息が切れる。息が白く靄がかかる。風を切る音がする。手先が冷たくて凍えそうだ。
あっという間に咲の家に着いた。
咲のお母さんが庭か何かを手入れしていて、外に出ていたみたいだ。丁度いい。
「はぁ、こんばんは。咲さん、はぁ、いますか?」
「あぁ、善治君。咲ならさっき、出ていったわよ」
「え? どこに?」
「えっと、学校で待ってるって言ってたけれど……」
学校?
どうしていまさら?
それに、誰かを待っている?
誰を?
「あぁ、わかりました」
僕はまた走りだす。それがなんなのか僕にはわからないけれど、僕は言わなくちゃいけない。
どんなことがあっても、僕は言わなくちゃいけなんだ。
僕は体力はない方だけれど、今日ばかりはよく走る。もっと体力をつけてればな……。
次第に体力は底を尽き、両手で膝を抑える。はぁはぁと吐く息が、白く濁って眼鏡が曇る。
それでも進まなきゃ。
いつも通っている通学路。次から電車で通学するから駅に向かわなくちゃいけないから、この通学路と真逆の道を歩かなければいけない。
だから、今日が最後かもしれない。
車が駆け抜けてアスファルトからタイヤが擦れる音がする。乾いた草の匂いがする。まだずっと着ている学ランの襟が、首に当たって痛い。
この先をひとつ路地に入れば、中学校だ。
はぁ、はぁ。
もう歩くよりも遅いペースで移動しているけれど、さっきまで走ってたからとんとんだろ、って思っている自分がいる。
校門の前で、制服を着ている誰か座っている。
でも僕はすぐ気が付く。
「よっ!」
「うわっ、びっくりした」
ほら、やっぱり咲だった。
「誰か、待ってんのか?」
「え? ラインしたの見てない?」
あぁ、そういえば携帯携帯、っと。あれっ、ポケットにない。
家か?
「ごめん、忘れたみたい」
「もう、せっかく連絡したのに」
連絡? じゃあ、待っているっていうのは。
「もしかして、僕を待ってた?」
いつも赤い頬っぺたの咲が今はより一層、顔が火照っている気がする。細い髪の毛が、風でなびく。
「まぁ、そんなとこ」
咲は顔を赤くしながらサクッと言って見せる。
「学校の中に入らない?」
「え? どうして?」
「ちょっと、お別れしそびれて」
桜の花びらが足元に散り敷いていて、雪のようだった。僕らはそこを歩き、新雪に足跡を付けるような感覚で、一歩ずつ、ぎゅっと歩き始めた。
ちょっとお別れしそびれて、と言っている咲に付いていって歩いている学校の中は、今日卒業したばかりなのに、なんだかもう、関係がなくなってしまったかのように思えた。
僕たちは上履きをもう持って帰ってしまったから、スリッパに履き替える。
職員室からはまだ灯りが灯っていたけれど、僕たちは教師や事務員には何も言わずコソコソと学校に入った。
なんだかそれが咲と一緒の秘密なような気がして、それを咲と共有していることが僕にひとつの親密な関係だということを、感じさせた。
「懐かしいね」
咲がボソッと零した。
「懐かしいって、今日卒業したばかりだろ?」
「うん、それでも懐かしい」
僕はわざとパタパタと音を立てて歩く。
「今日、手を振ったのに無視したでしょ」
「無視?」
「せっかく目が合ったのに」
そう言われると体育館で咲に手を振られたような。
「あぁ、そんな気がする。僕はあれ、ご両親に手を振ったような気がしてさ」
そういうと咲はまた顔を赤くして言うんだ。
「勇気を出して手を振ったのに」
確かに咲は普段そういうことはしない。咲は咲なりに勇気を出したのだろう。だから僕も咲に負けないような勇気を出さないと。
僕たちは今日卒業したばかりの教室に入った。
「ねぇ、ちょっとそこに座ってみせて?」
咲がそんなことを言うもんだから、なんだか座らないという選択肢がなくなったような気がした。
僕は窓際前列の席に座る。僕が今日まで座っていた席。
咲は廊下寄りの後ろの席に座る。
「座ったぞ」
「いいから、黙って前見てて」
咲は久しぶりに強い口調で言った。
だから僕はどこをみたらいいのかわからなくなったから、目の前の黒板をみていた。
黒板には今日卒業したみんなのコメントや絵が、かかれている。今日だけみんなが張り切って書いた、最後のラクガキ。
「いいなぁ、その背中」
「背中って」
僕は背中越しで言う。
「もう、みれないのかなぁ」
なんだか咲がそうしみじみ言うもんだから、僕は今、この思いを伝えなきゃ、そう感じた。
「うんうん、そんなことない」
僕は立ち上がって咲の前に立つ。
「あの時は言えなかったけれど、その、おれ、いや、ぼく」
まだ恥ずかしいけれど。
でもきっと言えるはず。
僕はポケットの中の勇気を左手を突っ込んで確かめる。
「僕、咲のことが――」
きっとこれから先、僕たちには小説の中以上の出来事がたくさん起こる。
でも大丈夫。
僕たちは世界が求めているような知識や才能なんか、持っていないかもしれない。
でも僕たちは前に進める力を持っている。
何より僕のポケットにはひとつ、勇気がある。
きっとそれだけで、どこにだって行ける。
前回と、今回、計2回の短い連載期間でしたが、ありがとうございました。




