第一話 腹が減ってる奴は客
森の中は依然として静かなままだ。転変地異が起きて店が崩落しただとか、UFOのキャトルミューティレーションのように吸い取られたとか言ったことはない。と言うことはこれは夢にまで見た異世界に迷い込んだ系か!?
いやいや、焦るな。判断するには材料が少ない。でもそうだったらと思うと!
「ふぅ~…落ち着け。落ち着け俺…!」
心臓の律動は際限なくあがり続ける。
このまま死ぬのでは?
「ひぃーひぃーふぅー。気を取り直せ…まだ死ぬわけにはいかない!」
何とか興奮を冷まし、正常な脈拍を取り戻す。
ここを元居た場所だと想定して動くのは危険すぎる。どうするべきか。
「何にせよ情報を得るには人里に行くしかないか」
インターネットによって大抵の環境情報等が開示されていて事前知識をある程度持っている事とまったく持っていないのでは比較にすらならない。
森を出る。決断は割と早く決まった。
「背中の中華鍋良し、洋パン良し、牛刀良し、洋出刃良し、戦闘服良し、テンガロン良し!」
戦闘準備は完璧で漏れはない。と言っても戦闘になったら調理器具を使う事はないだろう。調理器具は厨房の役割が決まっている。通常戦闘なら鍛えた肉体が頼りだ。
ふんっ!とポージングを決めコック服の下から筋肉が盛り上がる。
「さて、どう進むか…」
店があった時は麓に通じる道もある程度は整備してあったのだがそれも無くなっている。
方位磁石もない為、結局の所どこへ向かえばいいのやら。
「ま、悩んでもしかたないか。森の神、山の神、異世界の神、御前失礼仕りまする」
やや格式ばった古い言い方。こういうのは雰囲気が大事なのだ。宜しくお願いしますよ、神様。
進む方向すら定まらず無計画に森の中を散策していると斜面にぽっかりと口を開けた穴を見つけた。
「おや?熊穴か?にしては入り口が大きいが…ひょっとしてツキノワグマとかよりでかいのか?」
だとするとサイズは3メートルはあるだろう。
食いでがありそうだ。
普通なら近寄りもしない穴へと足は自然と向かっていた。
「失礼しますよ~…誰かいますかー?」
返答はない。
洞窟内は獣臭さはなく天然の洞窟のようで、中は暗いものの十分な広さがあり小部屋の入り口と思われる穴がいくつか空いていた。
「誰か生活してるのか?」
なんでこんなところで?
顎をシゴく。
「うーん…」
住人が戻ってきたら厄介な事になるかもしれない。早々に出たほうが良さそうだ。
踵を返そうとすると奥からこちらを覗く視線を感じた。
何か居ると思うのとそれが飛び出してくるのはほぼ同時だった。
「ガブッ!」
腕に噛み付かれたのだが、鍛え上げた筋肉が歯を通さなかった。
「あの…」
「ひぃ!ごめんなさい!ごめんなさい!こ、殺さないでくださいっ!」
俺を襲ったのは見ているのも痛ましいほど痩せ細った女性だった。
牙を突き立てられなかったのは多分空腹が原因だろう。立つのもやっとだったのか今は足に縋りついて命乞いをしているが怪我すらしていないし、俺は野盗じゃないからそんな事をするつもりはない。
「落ち着いて。ほら、深呼吸して。大丈夫。大丈夫だから。」
「ひぃ…ひぃ…ひんっ。」
不謹慎なのだがちょっと可愛いと思ってしまった。良く見ると髪は薄い紫をしているようで耳の部分には蝙蝠の羽みたいなものが髪の隙間からピョンと飛び出ている。脇腹から二の腕にかけて薄い皮膜のようなものまで付いているじゃないか。これはまるで…ファンタジー住人の獣人と言う奴では?
今は叫びだしそうな気持ちを必死に抑えて彼女を宥めなければいけない。
「よしよし。大丈夫だから。腹減ってるのか?悪いな。今何も持って無くてな。」
「ひんっ…だ、大丈夫です。ごめんなさい…ごめんなさい…」
「ほらほら、そんなに謝らなくていいから。怪我もしてないし。肉が食いたかったのか?それとも血か?」
肉が食いたいならどこかで野生動物を仕留めればいいし、血なら死なない程度に吸われてもいい。色々あったから頭も冷やしたいところだしな。
「ごめんなさい…血を…血を少しください…」
女性は土下座までしていた。
「そんな事しなくてもいい。好きなだけ食べてくれ。あ、もちろん俺が死なない程度で頼むよ?」
軽い冗談を入れたつもりだったが女性は萎縮しきっていた。こんな緊張状態で食べても美味しくはないだろう。なんとか少しでも楽にしてもらえると俺もありがたいのだが。
「ありがとう…ございます。しかし、気味が悪いとか…思わないのですか?」
「おいおい。やめてくれ。俺は料理人だ。腹が減っていたら何かを食わせるのは当たり前。食性が違うならばそれに合わせるのも料理人としての矜持だ。そんな事思うわけないだろう?」
俺にとってはとても見当ハズレな事を懸念していたようだ。
その事を否定すると今は静かに嗚咽を殺している。そんなに気にする事はないと思うのだが自身と他者が感じる所が違うのは当たり前か。きっと色々あるのだろう。
「さて、泣いて体力をこれ以上使うと倒れてしまうんじゃないか?大したものは出せないが、食事にしよう。立てるか?」
「うっうっ…はぃ…きゃっ」
はい、とは言ったがどうみても疲労困憊と言った様子。風に吹かれたら倒れそうな気がするので立ち上がる前に抱き上げて横にした。彼女の体は背負った中華鍋よりも軽い。
中途半端な感傷はするべきではないだろうが…嫌な記憶が蘇りそうになる。
そして俺は今、男が女性にしてもらいたい行為ベスト5に入るであろう膝枕をしている。あれ?逆じゃね?
だがそんな事を気にしていてはいけない。余計な事は考えるな!
女性は顔を赤らめているが、俺も恥ずかしい。
「えっと、なんか申し訳ない。今から軽く腕を切ろうと思うが、それでも大丈夫か?」
「はい。何から何まで、本当に、ありがとうございます」
それを合図にして俺は手が一瞬ぶれるような速さで抜き居合抜きのように腰から包丁を抜き左腕を裂いた。
「えっ」
腕を切ると伝えておいても刃物と言うのは本当的に恐怖を呼び起こす。ならば今出来る食事への配慮はこの程度しかないのだがいきなり腕から血が出たのだ。驚くのも無理はない。
しかし驚きよりも空腹が勝ったのだろう。腕から零れる鮮血に女性は鼻をスンスンと鳴らしている。
腹減ってるんだなぁ…落ち着いたら腹いっぱい食わせてやりたいところだ。
でもとりあえずは血で我慢してもらおう。
「ほら、飲めるか?」
彼女達にとって俺の腕は皿で、血が料理なのだ。
女性の口元に切り口を寄せるとパクリと咥えて舐め始めた。
「うっ…うぅ…ありがどう、ございまずぅ…」
綺麗な顔をクシャクシャにして嘔吐きながら腕にむしゃぶりつく。
あっぶねぇー!指にしなくてよかったぁ!
美しい女性なのだ。咥えられた腕は口の中で飴玉を転がすように舌が傷口を舐めている。実に背徳的で興奮する。即死は免れたか…致命傷で済んでよかった。
吸われる患部は女性が舐め始めた頃からスゥと痛みが引いていったので苦痛はない。人間ではないようだし、痛みを和らげる何かがあるのだろうとぼんやりと考えながらチュッチュと響く卑猥な音を聞きつつしばらくは好きにさせた。
「んっ…は、ぁ…」
色っぽい声を上げて腕から口を離す。
「ありがとうございました。ですが、私には貴方様に何もお返しできるものがありません…どうか、こんな女の体ではありますが、貴方様のお好きなようになさってください…」
心外だ。俺にそんな趣味はない。なんだと思われたんだろうか?
膝の上に乗せた体が小さく震えているのが伝わっている。怖いのならば無理をしなくてもいいのに…
それに折角腹も少しは満たされたってのに心が満たされていないだと…?
「何を言ってるんだ?俺にそんな趣味はないよ。俺は貴女の過去を知らない。知ろうとも思わない。たまたまこの洞窟に辿り着いて腹を空かせた女性がいた、そして俺は料理人だった。それだけ。見返りは…無くてもいいと思ってるけど出来れば情報が欲しい、代わりに俺は貴女の腹と心を満たそう。悪い話じゃないと思う、どうかな?」
店に来た客だったならば金は要らないと言っていたところだがこの世界の事を少しでも知っておきたい、何も返せないと言うことで気負うくらいなら貨幣価値やら近くの人里の情報等知っている事だけでも教えてもらえたら万々歳だ。
「えっ…えっ…?」
戸惑っていた。
ぐへへ、別嬪さんの体好きにさせてもらうぜぇ?とでも言っておけばよかったか?無理だ。
嫌な記憶が掘り返されて俺も気分が悪くなってきた。お互いに気持ちの整理をつけるべきだろう。
「とりあえず今は少し、眠りなさい。休息が必要だ。返事は起きてから冷静になった頭でじっくり考えてから貰えればそれでいい。」
「は、い…」
限界だったのだろう。見ず知らずの俺が居るのにすぐに静かに眠り始めた。
血を吸う前は枯れ木のようだった肌は水を通したチューブのように張りが出ている。
「変わるもんだな。まさにファンタジーって感じだ…」
なかなかタイミングが掴めず彼女の食性を聞くことは出来なかったが肉を確保しよう。張りは出てもやはり肉の付きがよくない。他の食べ物も必要ということだろう。
残念ながら調味料がないので焼くか煮るくらいしかできないがないよりはマシってところだな。
「さて、それじゃまぁ俺の異世界お客様第一号って事で大盤振る舞いと行きますか。」




