何でも干せる物干し竿
新たな住まいに着いた時、三毛猫が出迎えをしてくれた。このハイツに住みついている野良だろうか。首輪はしていないが、非常にくつろいだ調子で「ニャー」と鳴いている。まるで「ようこそ」とでも言っているかのようだ。
わたしはその三毛猫の横を通り過ぎ、さっそく203号室に向かった。
単身ということもあって荷物は非常に少なく、搬入作業は短時間で終わった。引越し業者の人達が家具の配置まで行なってくれて、わたしがやったことといえば部屋の鍵を開けたくらいだ。とはいえ、もう七月の下旬、ただ立っているだけでも汗が滲む。業者の人達を見送ると、わたしはソファの上に転がった。
急な転勤だったので一週間の有休を貰っている。荷解きは明日にしよう。
そんなことを考えていると、玄関のベルが鳴った。古い木造アパートなのでインターフォンはない。そこで扉越しに「はい」と声を出す。
すると、女性の声が聞こえてきた。
「103号室の富岡と申しますぅ」
慌てて扉を開ける。そこには三十代半ばと思われる女性が立っていた。見上げるほど身長があり、加えてふくよか。控えめに言っても関取のような体格の人だ。
その女性はわたしの顔を見るなり、捲し立てるように喋りだした。
「あら、珍しい、お若い女性の方だったのね。ご覧の通りボロアパートでしょ。もう何年も新しい住人なんてやって来ていないし、来るとしても独身男性くらいだろうなぁって勝手に思い込んでいたのよ。まさかねぇ。女性だったとはねぇ。ご結婚はされてるの? それとも一人なのかしら? あら、ごめんなさい、わたし余計なことを聞いちゃったかしら?」
少したじろぎながらも、どうにか言葉を返す。
「あ、いえ、大丈夫ですよ。挨拶が遅くなって申し訳ありませんでした。私、石田と申します。えっと、一人暮らしです……103号室って、この真下ですよね? ひょっとして荷物を運ぶ音がうるさかったですか?」
「ぜんっぜん、気にしないで平気よ。木造だもの、多少の音漏れは仕方ないわ。むしろ、うちには小さい子供がいるし、わたしのほうが迷惑を掛けちゃうんじゃないかって心配しているくらいなのよぉ」
そう言って女性は豪快に笑った。嫌味っぽい感じはしない。おそらく話をするのが好きな人なのだろう。
わたしは相好を崩し、自己紹介も兼ねて世間話をすることにした。
富岡さんと別れてから近くのスーパーへと出向き、菓子折りを購入する。今後しばらくの住まいとなる裏野ハイツは、六室しかない小さなものだ。そこで、全ての部屋に挨拶に行ったほうが良いと考えたのだ。
ところが平日の夕方だからか、ほとんどの住人が不在で、捕まったのは103号室の富岡さんだけであった。
「あらあら、また会っちゃったわね。なに? お菓子? そんな気を遣わないで良いのにぃ。でも、せっかくだから有難く頂戴しておくわね。そういえば石田さんって物干し竿は?」
息継ぎの間もなく投げ掛けられた問いの意味を理解することが出来ず、わたしは聞き返した。
「モノホシザオ、ですか?」
「そうよ、物干し竿。持ってるの? 持ってないの?」
「あ、言われてみれば……」
物干し竿を持っていない。今まで暮らしていたマンションには備え付けの竿があったのだ。確認はしていないが、富岡さんの話から察するに、このハイツでは住人自らが物干し竿を用意しなければならないようだ。
「あら、石田さん、その顔は物干し竿を持っていないわね。だったらオススメしたい商品があるのよぉ。わたしも購入したばかりなんだけど、とにかく凄いの。何て言ったかしら、ステイレスだったかしら? なんか、そういう魔法みたいな素材で出来ていて、細くて丈夫なの。しかも、何でも干せちゃうのよ」
「は、はあ、ステンレスですね……」
どこにでもある素材じゃないか。そう思ったが、言葉を飲み込む。
「そうそう、ステンレスよ。ピカピカなの。ちょっと普通の物干し竿と違って、ハンガーを使わずに直接洗濯物を引っ掛けると効果的よ。どんなものでも、あっと言う間にペラーンってなっちゃうの」
「ペラーンですか。凄いですね……」
愛想笑いを浮かべ、適当に相槌を打つ。
「凄さが分かる? 分かっちゃう? 例えばね、ビショビショの状態の洋服を干すでしょ。そうすると特殊な波動によって、わずか数時間で風になびくほどヒラヒラのペラーンよ。わたしも最初はビックリしたわよぉ」
波動という言葉を聞いて理解した。富岡さんは、水素水やマイナスイオンなど疑似科学を信じてしまうタイプの人なのだろう。少々厄介だ。
ただ、仕事さえ始まってしまえば顔を合わすことも少ないだろう。事を荒立てるのは賢明ではないと判断し、わたしは遠回しに断りの言葉を口にした。
「素敵なものを紹介してくださって、ありがとうございます。でも、わたしは一人暮らしですし、そんな立派な物干し竿があっても持て余してしまいますよ」
すると彼女は残念そうな表情を浮かべた。
「あら、そう? それじゃあ仕方ないわね。でも、本当に凄いのよ。気が変わったらいつでもわたしに声を掛けてね」
納得してくれたみたいだ。わたしは他の物を勧められる前に退散してしまおうと思い、すぐさま頭を下げて自室に戻った。
その日の深夜のことである。
部屋にこもった空気を逃すため、わたしはベランダの窓を開けたまま横になっていた。すると、外から異臭が流れ込んできた。ひどく生臭い。
わたしはその出処を確かめようと、ベランダに出た。臭いが濃さを増し、鼻腔を刺激する。怪しいものは見受けられず、目の前には駐車場があるだけだ。ただし、近くに異臭の原因があるに違いない。
窓を閉めてエアコンを点ければ済むことだったのだが、わたしは予感めいた何かに誘われ、サンダルを引っ掛けて駐車場へと向かった。
駐車場からベランダを見ると、異臭の原因はすぐに判明した。
自室の真下、富岡さんの部屋のベランダにイカが大量に干してあったのだ。干物でも作るつもりだろうか。けれども、そのイカは内臓を取り除くどころか一切の処理が行なわれておらず、丸のまま物干し竿に掛けてあるだけだ。
これでは腐る。だが、苦情を言おうにも時間は深夜。わたしは、日常的にイカを干している訳ではないだろう、と考え、諦めて就寝することにした。
そして翌日、早朝に玄関のベルの音で起こされた。
「石田さぁん、起きてるぅ?」
富岡さんだ。
わたしは寝間着姿ではあったが、待たせてしまうのも失礼かと思い、カーディガンだけを羽織って玄関に出た。
「富岡さん、おはようございます。どうされたんですか?」
そう尋ねると、彼女は前日同様、早口に喋りだした。
「あら、寝てたのね。お若いからもうとっくに起きて、腰に手を当てながら牛乳でも飲んでいるかと思ったわ。ごめんなさいねぇ」
何が面白いのか、彼女は一人で大笑いしている。
「あ、大丈夫ですよ。部屋の片付けをしないといけないですし、早くに起きようと思っていましたから」
そうは言っても、まだ六時。わたしは微笑みながらも心の中で溜め息をついた。
「ああ、そうなのね。それなら丁度良かったわね。あのね、石田さんにおすそ分けしたいものがあってお邪魔したのよ。昨日スーパーでイカが安く売っていたから、まとめ買いをして一夜干しを作ったの。お菓子のお返しに受け取って」
その言葉を聞いて吐き気を催した。イカとは、おそらく異臭を放ちながら物干し竿にぶら下がっていたアレだろう。あんなもの、一晩干したところで干物になる訳がない。それどころか生ゴミになっているに違いない。
ところが、差し出されたものは意外な状態であった。
「干し過ぎてペラーンってなっちゃったけど、味は良かったわよ。ぜひ食べて」
富岡さんの言う通り、イカは、のしたように薄くなっていた。
「あ、ありがとうございます……」
本当はそんな得体の知れないものを受け取りたくはなかったのだが、断る訳にもいかず、わたしは礼を述べて手を差し出した。富岡さんはイカをわたしに託すと、満足そうな笑みを浮かべ、部屋を後にした。
一人残されたわたしは、薄いイカを、ゴミ箱に捨てた。
滅多に取ることの出来ない連休だ。せっかくならば家でゆっくりと過ごしたかったのだが、またいつ富岡さんがやって来るかも知れず、わたしは朝食を終えると、逃げるように外出した。
この町にどんな施設があるのか知るために、近隣を散策するのも良いだろう。そう自分自身に言い聞かせ、日傘を片手に道を往く。ハイツの近くには、交番、コンビニ、郵便局があり、なかなか生活しやすそうであった。更に、喫茶店を併設した公共図書館があったので、わたしは涼みがてら、そこで時間を潰すことにした。
そうして、日が傾き始めた頃、帰路に就いた。
ハイツが見えてきた所でわたしは身を隠した。建物の入口を通るためには、ひらけた駐車場を抜けなければならず、富岡さんに見つかってしまう可能性が高かったのだ。急いで突っ切るしかない。覚悟を決めて歩み出す。しかし、ふと気になるものが視界に入り、わたしは思わず駐車場の中心で足を止めてしまった。
富岡さんの部屋のベランダに、奇妙なものがあったのだ。白く薄い板が、への字型に曲げられた状態で、物干し竿に掛かっている。
あれは何だろう。思った時、背後から声がした。
「あら、見られちゃったかしらぁ?」
振り返ると、そこには富岡さんがいた。
「あ、ど、どうも、こんにちは……」
とりあえず挨拶をしたものの、彼女は返事もせず、相変わらず自身の喋りたいことだけを勢い良く吐き出した。
「見たでしょ? あれね、ノートパソコンなの。わたしの家にあったノートパソコンは、ノートパソコンなのに、ちっともノートじゃくて分厚かったのよ。まあ、古いから仕方ないわよね。それでね、試しに何でも干せる物干し竿に干してみたのよぉ。そうしたら、思った通りペラーンってなったわ。まるで最新型のノートパソコンみたいでしょ? どう? 物干し竿が欲しくなった?」
もはや疑似科学の域を超えている。もし冗談を言っているのでなければ、富岡さんは完全に狂った人だ。
わたしは心の底から、この人とはもう関わりたくない、と思い、「はあ」と曖昧な返事だけをして入口へと向かった。
その時、足元に何かが纏わりついた。見ると、三毛猫がわたしにじゃれついていた。物欲しげに「ニャー」と鳴き声をあげている。
「あら、石田さん。その猫と仲が良いの?」
富岡さんの声は、冷たかった。不穏な空気を察して即座に弁明する。
「い、いいえ、全く。昨日、姿を見かけた程度です」
「そうなのね。それなら良かったわ。その猫、ここに住み着いているんだけど、とっても迷惑なのよぉ。鳴き声はうるさいし、ベランダに糞はするし。あ、それからね、うちにはエアコンがなくて、夏には風を通すためにチェーンを掛けて玄関を開けたままにしておくんだけど、そうすると入ってくるのよねぇ」
「猫が、ですか?」
「蚊が」
「あ、蚊ですか……」
「猫もよ。猫も入ってくるわ」
「ああ、そうなんですね……」
「この間なんて大変だったわよ。座布団の上にオシッコされちゃって、もぉ、臭いが取れなくて捨てたわ。ホントに迷惑しちゃう」
そこで富岡さんは、突然、手を叩いた。
「あ、良いことを思い付いちゃったわ……」
嫌な予感がし、わたしは続く言葉を聞くまいと、慌てて会釈をしてその場を去った。
その夜はエアコンを稼働させ、窓を閉めたままにした。お陰で異臭に苛まされることもない。しかし、今度は臭いではなく、別のものがわたしを煩わせた。鳴き声が聞こえてきたのである。「ニャーニャー」という、どことなく痛ましい細い声だ。まさか。
よせば良いのに、わたしは確認せずにはいられなかった。まさか、富岡さんは猫を干したのではないだろうか。
駐車場に出て富岡さんの部屋のベランダを見ると、そこに猫の姿はなかった。
ただし、三毛柄の薄い毛皮が、物干し竿にぶら下がっていた。そして、その毛皮が、鳴いていたのだ。
わたしは疲れているのだろう。新しい土地にやって来て、自覚こそないが、精神的に疲弊しているに違いない。毛皮が鳴く訳がないのだ。鳴く訳がない。鳴く訳がない。その言葉を頭の中で反芻し、わたしは部屋に戻って布団に包まった。
翌朝、起きると真っ先に富岡さんの部屋のベランダを見に行った。そこに、毛皮はなかった。やはり単なる見間違いだったのだろう。
わたしは胸を撫で下ろし、三毛猫の姿を求めてハイツの周囲を歩いた。
すると、富岡さんの部屋の前に、幼い少年が立っていることに気が付いた。歳は三歳くらいだろうか。おとなしそうな雰囲気をしているが、ふくよかな顔がどことなく富岡さんに似ている。
そういえば、彼女は幼い子供がいると言っていた。ひょっとして。
「ねえ、君、富岡さんちの子?」
尋ねると、少年は人見知りだったらしく、何も言わずプイッと横を向いた。
その様子を見て、わたしは、違和感を覚えた。
「ね、ねえ、君……薄くない?」
正面から見た時には何とも思わなかったが、少年の横向きの姿は、極端に薄かったのである。胸板が厚いとか薄いとか、そういったレベルの話ではない。その幅はわずか数センチ。普通の人の半分もない。
「ねえ! 君、大丈夫なの?」
再び声を掛けて少年の肩に手を置く。力を込めれば簡単に折れ曲がってしまいそうな身体だ。何らかの障害だろうか。通院はしているのだろうか。放っておいても良いのだろうか。
そして、次の言葉を探していると、少年が、細い声で言った。
「お話、ダメなの。ママに怒られちゃう。また、干されちゃう」
「え……」
そこでわたしは後悔をした。不用意に声を掛けてしまった。これ以上、富岡さんに関わってはならない。
肩に置いていた手を離すと、少年は、わずかに開いている扉の隙間をスルリと抜けて、部屋の中へ入っていった。
直後、室内から富岡さんの声がする。
「あんた、どこに行ってたの! 勝手に外に出ちゃダメって言ったでしょ!」
「ママ、ごめんなさい、もう干さないで、ペラーン嫌、ペラーン嫌……」
なにこれ? ゾワゾワと寒気が込み上げ、全身に鳥肌が立つ。
わたしは急いで自分の部屋へと戻った。
それからしばらくすると、玄関のベルが鳴った。
恐る恐るドアスコープを覗く。そこには富岡さんがいた。魚眼レンズによって元から大きな顔が更に大きく見える。わたしは物音を立てないよう慎重に扉から離れた。だが、容赦なく彼女は言葉を投げてきた。
「石田さぁん、いるんでしょ?」
居留守は通用しそうにない。わたしは観念して扉越しに小さく返事をした。
「は、はい……」
「石田さん、さっき、うちの子に声を掛けたでしょ?」
「え、ええ。挨拶をしました……」
「うちの子、何か言っていたかしら? 何か聞いた?」
「いいえ、何も……」
「そう、それなら良かったわ。うちの子、すぐに約束を破ったり、嘘をついたりするのよぉ。石田さんは騙されないように気を付けてね」
そう言って、富岡さんは去っていった。
全身、汗に濡れていた。彼女がいなくなってからも心臓の鼓動が激しく、呼吸さえままならない。わたしは、崩れるようにソファに横たわった。
気が付くと、日が暮れていた。よっぽど疲れていたらしく、いつの間にかに眠っていたようだ。エアコンも点けずに窓を閉め切っていたので、口の中は乾き、喉の奥が張り付いたように痛む。
わたしは力なく立ち上がって冷蔵庫から麦茶を取り出し、それをボトルのまま飲んだ。
その時、下の階からガラスの割れる音が響いた。続けて、男性の怒鳴り声が聞こえてくる。
「お前、子供がいなくなったのに、どうして探そうとしないんだ!」
その言葉に応えるように、富岡さんの声もする。
「家を空けたら物干し竿を盗まれちゃうかも知れないでしょ!」
どうやら、富岡さん夫妻が喧嘩をしているようだ。しかも、子供がいなくなったと言っている。
わたしは息を殺し、その会話に耳を澄ました。
「子供よりも物干し竿のほうが大事なのかよ!」
「そうよ! どうして何でも干せる物干し竿の凄さが分からないの!」
「分かる訳ないだろ!」
「キーッ!」
富岡さんの奇声と共に、ゴスリッという鈍い音が響く。
以降、辺りは静けさに包まれた。
明らかに非常事態だ。通報しなければならない。わたしは慌てて携帯電話を手に取った。しかし、こんな時に限って充電が切れていた。ケーブルを繋いでもディスプレイに電池のマークが表示されるだけで、一向に操作を受け付けてくれない。
どうしたら良い。考えを巡らせた時、すぐ近くに交番があることを思い出した。このタイミングで外出することは躊躇われるが、ほんの数十メートル走れば済むことだ。わたしは大きく頷き、外に飛び出した。
軋む階段を駆け降り、入口を抜ける。そして駐車場に辿り着くと同時に、わたしは、つまずいてしまった。
転倒はしなかったものの足首を捻ったようだ。ひどく痛む。苛立ち気味に何につまずいたのかを確認すると、そこには雑誌の束が捨てられていた。
誰がこんな所に。うつむいて舌打ちした瞬間、かすかに声が聞こえてきた。
「……ママ、許して」
改めて雑誌の束に目を向ける。その隙間には、見覚えのある子供服が挟まっていた。かすかな声は、その子供服から発せられていた。
「……助けて。ペラーン嫌」
無理無理無理無理。
立ち止まっている場合ではない。急いで交番に行かなくては。片足を引きずりながら歩き始める。しかし、なかなか前に進まない。
その時、カラカラカラと、引き戸の開く音がした。
ゆっくりと振り返る。視線の先にはベランダ。そこには、富岡さんが細身の男性を抱えて立っていた。
彼女は階段状の台に登り、その男性を物干し竿に引っ掛けた。への字に曲がった男性の身体が、次第に厚みを失っていく。富岡さんは満足そうだ。
わたしは、全身が硬直し、身動きが取れなかった。そんなわたしの存在に富岡さんはいよいよ気付いたらしく、明るい声色で話し掛けてきた。
「あら、見られちゃったかしらぁ?」
わたしは首を大きく横に振った。
けれども、富岡さんはそんなこと気にも留めず、言葉を続けた。
「ね。ペラーンってなったでしょ。何でも干せる物干し竿は凄いのよ」
何でも干せる物干し竿 了