あなたが幸せなら、わたしも幸せ
先輩も井上先輩も無事高校に合格してめでたしめでたし。
でも人生ほら、そう上手くは続いていかない。
『井上先輩。最近先輩にお会いしてないんですけど、先輩風邪でもひいていらっしゃるんですか?』
わたしはある日井上先輩にそう尋ねた。
最近先輩は、全然家に遊びに来てくれなくなった。来るのは井上先輩だけ。前はどんなに忙しくても、二週間に一度は遊びに来てくれていたのに。
『先輩が来て下さらないからわたしの楽しみがなくなって、ちょっとつまらないんですよねえ最近』
井上先輩は金色に染めた髪をがしがしと掻きながら、わたしに尋ねた。
『……お前の楽しみってなんだよ』
『先輩の顔を拝むことに決まってます』
『ああそうかよ。お前棗のこと大好きだもんなあ』
そう言って先輩は何故かわたしの頭をよしよしと撫でた。その扱いがまるで子供扱いだったので、わたしは文句の一つでも言ってやろうと思っていたのだが、井上先輩の碧色の瞳はどこか悲しげで、わたしは結局何も言えなかった。
『なあ晶』
『なんですか』
『棗を助けてやってくんねえか?』
井上先輩の静かな声は、二人だけの部屋によく響いた。
わたしは先輩に会いに行った。会いに行ってすぐ、ああ、井上先輩の言っていたことはこういうことだったのかと理解した。
『……晶、か?』
わたしの名前を呼ぶ先輩の声は疲れきっていた。先輩の髪からは艶が失われ、ろくに寝ていないのだろう、目の下にはひどい隈が出来ていて、ただでさえ細い体はちょっと見ないうちにまた細くなっていた。
難関進学校でも飛びぬけて優秀な先輩にかかる期待は大きい。そんな周りからの期待に応えようとしすぎて、身体を壊してしまったのだと、井上先輩は言った。
『もうやめろって、何回も言ったんだけどな。ぜーんぜん、聞きやしねえ。明らかに無理してるくせに、無理なんてしてないって言いやがるんだぜ?あいつ。多分オレがこれ以上何言っても無駄だわ』
心身ともに疲れきっている状態で、それでも先輩は無理して笑おうとしていた。
笑わなくていいんですよ。そんな顔をしてまで無理に笑わないで。疲れてるなら疲れてるって言っていいんですよ。出来ないなら出来ないって言っていい。きついなら少し休んで下さい。誰も休むななんて言いません。
でも、先輩がそんな風に苦しんでたのは、わたしたちが先輩に多くを望んだからですね。先輩は努力して今の先輩を作り上げたのに、わたしたちはさらに上を求めた。完璧な先輩、完璧な息子、完璧な生徒、完璧な同級生。演じるのはつらかったでしょう?ごめんなさい。気付かなくてごめんなさい。無理をさせてごめんなさい。きっと誰にも弱音なんて吐けなかったでしょう?先輩は一人で溜めこんでしまうヒトだから。
……それを知っていてわたしは。
わたしはただ先輩の後ろ姿を無邪気に追いかけているつもりだった。
でもそれさえも、先輩には重荷だったのではないですか?自分に憧れている後輩にみっともない姿は見せられないと、無理を重ねたのではないですか?ごめんなさい、そういうつもりじゃなかった。先輩に迷惑をかけるつもりなんて、なかったんです。
わたしはただ先輩に近付きたかったの。先輩があまりにキラキラしていて眩しいから、手を伸ばさずにはいられなかった。
先輩に憧れるのはやめにします。それが負担になるというのなら。先輩への憧れも恋心も全部まとめて心の奥底に沈めておこう。二度と浮き上がってこないよう、鍵をかけた箱の中に入れて。その箱の周りには何重にも鎖を巻いて。
でもその前に、先輩に立ち直ってもらおう。あんな状態の先輩を放っておくなんて、わたしには出来ない。井上先輩が説得に失敗しているならわたしでもダメかもしれないけど、側にいることは出来るから。愚痴を聞くことくらいなら出来るから。
これからも先輩は周囲から大きすぎる期待を受けるでしょう。こんなに完璧に近いヒトはいないから。
だからね、先輩。わたしは先輩に弱音を吐きだせるヒトを作ってほしい。先輩に無理しなくていいんだよって言って笑ってくれて、いつも先輩の側にいてくれるヒトを作ってほしい。先輩にそんなヒトが出来るまでは、わたしが先輩の側にいよう。わたしはいつかやってくるはずの、他の誰かの身代わり。
それでもいいの。わたしは幸せ。先輩が、わたしの一番好きな顔をしたヒトが、わたしの隣で笑ってくれる。それだけで十分すぎる程だから。
わたしは先輩の幸せを願います。誰よりも優しくて、弱くて、脆くて、繊細なガラス細工のようなヒト。わたしの生きていく上での道しるべ。
先輩知っていますか?あなたが幸せなら、わたしも幸せ。だからどうぞ、いらなくなったそのときは遠慮なく切り捨てて。世界でただ一人、あなたにだけはその権利があるのだから。