もう一度、始めから
曲がり角で誰かにぶつかった。
ごめんなさいを言おうとして息をのむ。
相手も大きく目を見開いていた。
「先輩……」
そこには驚いた様子の先輩がいた。先輩がいるということは、侑もいるのだろうか? きょろきょろとあたりを見回してみたが、侑の姿はなかった。一緒に戻ってきたわけではないらしい。
先ほどまで眺めていた先輩の美しいお顔には、喧嘩をしたような形跡が全く見受けられなかった。ほっと安堵の息が漏れる。
声を荒げていたと聞いたから、少々心配していたのだ。ひょっとしたらそういう事態もあり得るかもしれないと。二人とも争い事は話し合いで解決するタイプで良かった。
嬉しさのあまり先輩の顔に手を伸ばす。わたしの指が、先輩の顔に触れても、先輩は嫌がらなかった。
良かった。喧嘩じゃなくて良かった。
「晶……」
「心配しました……」
「え?」
「静が先輩と侑が中庭で話してるのを見たってやってきて。なにかあるんじゃないかってひやひやしました。取り越し苦労で良かったです」
「静が? 見られてたのか……」
「そうみたいですね」
「流石静としか言いようがないな。…………ところで晶はさっきから何をやってるんだ?」
先輩の言葉ではっと我に帰る。しまった。随分と大胆なことをしてしまった。慌てて指を引っ込める。
「すみません! つい……」
「謝らなくていい。ただちょっと珍しいなと思っただけだ」
なあ、と先輩がわたしの耳元で囁いた。
「一応は別れた相手にこんなことするってことは、期待してもいいのかな」
「……期待って何のですか? わ、別れてほしいって言ったのは先輩のほうですよ? はっきり言って下さい、お願いでです。じゃないとわたしこそ余計な期待、しますよ」
ダメだ、声が震える。もっとちゃんとはっきり言おうと思ったのに。
「晶も俺と同じ期待してる? まだ、晶が俺のことを好きだっていう期待。晶は、俺が晶を好きだっていう期待だけど」
先輩の声も震えていて頼りない。不安に揺れている。
口にするならきっと今だな。なんとなくそんなことを思う。
「あの、今更ですけど、すっごく今更なんですけど、」
「ん?」
優しくてどこか甘さが滲む声。
「なんで先輩はわたしと別れようと思ったんですか……?」
他に好きなヒトが出来ました? わたしに飽きました? わたしが立てた仮説は、先輩の発言と照らし合わせて考えると間違っている気がする。
だって、今、わたしの耳が正常に機能しているならば、わたしは先輩に好きと言われている気がするから。
「……ホントは、別れたくなんてなかった。だけど、晶は弟くんが好きなんだと思ったから。邪魔したくなかったんだ。ほら、晶は俺が辛かったときに支えてくれたろ? だから晶には幸せになってほしかった。でも別れたはいいけど、未練たらたらで……。べたべたくっついてみたけど晶は俺のこと拒絶しないし、かと思えば弟くんに手作りのお弁当作るし。いい加減にしなきゃな、と思って弟くんと話し合いに言ったら、晶が好きなのはお前だー! って怒られた」
俺も弁当食べたかった。
付け加えられた一言に、井上先輩の方が先輩のことをわかっていたのだと感じる。悔しいな。先輩の一番の理解者はわたしでありたかったのに。
本当は知ってるよ。先輩がわたしのことを切り捨てても、わたしは平気な顔で笑っていられるけれど、その心は荒れ狂ってる。ただそれを表に出さないだけ。先輩が幸せなら、わたしも幸せ。そうだよ、そうだね。幸せだよ。だって好きだから。笑っていてほしいの。綺麗なヒト。
戒めとして封印していた言葉がある。重荷になる気がして、ずっと避け続けていた言葉。もちろん心の奥底には存在し続けていた感情。
「好きですよ。わたしが好きなのは先輩です。……だからもう少しだけ、側にいていいですか?」
むぅと眉根を寄せる先輩。泣きそうな情けないわたしがその瞳に映ってる。
「どうしてそう期間限定、みたいな言い方をするんだ? そりゃ方向性の違いとかで別れる日がこないとは言い切れないけど、出来るならずっと一緒にいたいのに」
先輩はわたしを揺さぶる天才だと思う。思わず泣いてしまったじゃないか。家でも学校でも、滅多に泣くなんてしないのに。
「……さっきの言葉、ウソじゃないよな?」
う、疑われている! 信用ゼロなのですね?
本人もその発言はマズイと思ったのか、慌てて弁解を始める。
「いや、あの、違う! 違うんだ! ただ、その、晶はずっと、弟のことが好きなんだと、思ってたから。ちょっと、信じられなくて。悪い……」
しゅんとうなだれる先輩はまるで叱られた子犬のようだ。こんなときにそんなことを思ってる場合ではないのかもしれないが、かわいらしい、と素直に思う。
ああ、先輩も不安だったのだ。わたしと同じで。相手の気持ちがわからなくて。些細なことで一喜一憂して。
一緒に帰れないのは寂しかった。たわいないメールのやり取りが出来ないのも辛かった。小学生時代からのつながりが、あっさり消えそうになっていたのが、たまらなく嫌だった。
そのくせ平気な顔をしていた。先輩のためなら、と。
先輩が幸せなら、隣に立っているのがわたしではなくても、幸せだ。それはウソじゃない。先輩とわたしを繋ぐ糸がぷつんと切れてしまっても、先輩が幸せなら、わたしも笑っていられるだろう。それもウソじゃない。
だけど――――――――……。もし、もしも先輩の隣に、わたしという存在が並んでいたのならば、それはきっと何に代え難い喜びだと思うのです。出来るならずっと、そうしていたいの。ワガママをいっても許されるのならば。
先輩の腕がするりとわたしの腰に巻きつく。抱きしめられている。
「もう一回、仕切りなおしてもいいか?」
「何をですか?」
「告白」
はい、どうぞ先輩。心が震える。言われるのは二度目だけれど。
「――――好きなんだ。晶が。今までもあんまりいい彼氏じゃなかったと思うけど、また俺の側にいてくれますか?」
「はい、先輩。わたしも好きですよ。世界で一番、誰よりも、大好きです」
戒めのように封印していた言葉。口に出してはならないと、無意識に避けていた言葉。もっと早く言葉にすれば良かった。
だって、世界で一番好きな顔をした先輩が、とろりと蕩けるように甘く微笑んでくれたのだから。
次話、最終話です。




