ただそれだけの話
それは偶然だった。しかし神様がいい加減現実を見るべきだと、与えてくれた機会だったのかもわからない。
好きな作家の新作が出たと聞いて、休日に一人で本屋へ行ったその帰り。道路を挟んで向かいの道を彼女が歩いていた。それほど遠い距離でもなかったので声をかけようとして……出来なかった。
彼女は義弟と一緒だった。買い物に行った帰りなのだろう。手には買い物袋がぶら下がっていて、傍から見たら新婚さんのように見えなくもなかった。
寄り添って歩く二人は仲睦まじげで、割って入る隙などどこにもない。彼女は幸せそうに笑っていたし、彼もまた同じだった。
あんな顔をして笑うのだ、彼女は。静といるときと、修司といるときと、そして何より自分といるときと、全く違う表情で。
彼女は気付かなかったが、彼の方は気がついて、晶にばれないように勝ち誇ったような笑みをみせた。勝者の笑みだった。
もう、ダメだと思った。
うすうす感づいていたこと。自分の好きと彼女の好きは同じではない。
このままこの関係をずるずると続けても、虚しいだけだ。すれ違う想いは、きっとどこかで訂正されるのを待っている。そしてそれを正しく修正する役目は、自分が受け持たねばならないと思った。
『別れてくれないか』
だからデートの帰り、そう告げた。
『いいですよ』
即答だった。理由さえ、尋ねられることはなく。
予想していた答えだったけれど、胸が痛んだ。
ゆるゆると、彼女は笑い顔になる。
嬉しい? 俺は悲しい。俺の提案を受け入れるとわかってはいても、心のどこかで期待をしている自分がいたから。
別れたから、これでさよならだ。
さよなら、だなんてとても言えなかった。
襲ったのは猛烈な後悔。彼女を無理矢理でも繋ぎ止めておけば良かったのに。物分かりのいいフリをして別れるなんて、出来っこないと知っていたのに。どうして、どうして自分は、あの手を離したのだろう?
彼女が、吸い込まれるように消えていく。一度もこちらを振り返ることなく。
完全に後ろ姿が見えなくなって、ぽとりと涙が一滴、足元に落ちた。こらえていたものが溢れだして、みっともないと思っても零れ落ちる涙を止められなかった。
『別れたって本当ですかー?』
別れて三日経って、俺のところにやってきたのは静だった。
晶とはあれ以来顔を合わせていない。向き合うのが怖くて、校内での移動を最低限にしているからだろう。会いたいけれど、会いたくないというのが本音だ。
『ああ』
いつも通りの軽い口調。笑っているのは表面でだけ。常にポーカーフェイスのこの後輩は、どちらかというと苦手な部類だ。
何しに来た。まさか告白じゃないだろう? 静は色恋沙汰には興味がないと、自分で豪語している。ただし、静が興味を持たないのはあくまで自分に関することであって、他人のそれにはひどく敏感だ。だから、俺たちが別れたという情報を静が握っていたとしても、何も驚きはしない。
晶から直接聞いたのかも知れないな、とも思う。晶と静は、仲が良いから。そうだとしたら、晶は一体何と伝えたのだろう。
『なんで別れたんです? ちなみに晶に訊いても教えてくれませんでしたー』
それはそうだろう。だって、伝えたのは『別れてくれないか』―――ただその一文だけだ。理由を訊かれたら、他に好きなヒトが出来たと、ありきたりな理由を答えるつもりだったけれど。……用意した理由も、結局は無駄になってしまった。
『教えない』
『うわー折角の親切無駄にする気ですか? ひどい先輩ですねー』
『……静』
猫のように、目を細めて、静は。
『ねえ先輩。先輩はどうせ、晶が侑くんと両思いだーって思ってるんでしょ? だから優しい先輩は別れてあげたんですよね? 二人が一緒になるために』
どうして静がそれを知っているのだと、考える余裕はなく。頭に血がのぼった。所詮お前は何も出来ない臆病者だと、暗に馬鹿にされた気がした。
俺達の間に殺伐とした空気が流れたのは当然だろう。
『静』
それ以上言うな。警告のつもりで発した言葉にも、平然としていて。
『要するに先輩は臆病なんです。わかるでしょ? 晶のためにやったことかもしれないけど、それじゃ誰も幸せになりませんよ? 晶も、先輩も、侑くんも! 現に晶は落ち込んでるし。……ねぇ先輩』
にっこりと静が笑う。どうしてだかいつもと変わらないはずの静の笑顔が、今日に限っては悪魔の微笑みのように感じられた。
『奪われたと思うなら、……奪い返せば、いいんですよ』
何を言っている? 俺がどんな想いで彼女を手放したと思ってる?
俺と別れた晶は、彼と付き合って幸せな未来を歩むのだ。いつか迷路に迷い込んでいた自分を、すくい上げてくれた彼女。あのときから、自分の一番は彼女になったのだ。彼女のために身を引くのは、自分のためでもあるのだ。
だから、どうか、頼むから、そんなことを言わないでくれ。
俺はそこまで大人じゃない。四条棗という男は、簡単なことで揺らぐのだ。そして今も揺らいでいる。これ以上不安定にさせてくれるな。
『先輩未練たらたらのくせにー。素直になればいいだけの、ただそれだけの話でしょう?』
別れてから五日目。ついに食堂で鉢合わせした。
『あっ……』
すぐに晶は視線を下げてしまう。ただの先輩と後輩というこの距離は、たまらなく遠いのだと改めて思い知らされる。
『……晶』
『は、はい……』
『お昼、久しぶりに一緒に食べるか?』
『え、あ、はい……!』
戸惑った顔だったけれど、嫌がっている風ではなかった。ほっと胸を撫で下ろす。
少しくらい、夢を見せて。いつかの幸せな夢。
ぎこちない会話をぽつぽつと続けた。
『先輩のそれ、美味しそうですね』
緊張がほぐれてきたのか――――しかしまだやや堅さは残るものの―――――晶が俺の食べていたオムライスをじっと見つめながら言った。
そのとき何故だか、普段なら絶対にやらないことを、やってみようと思った。
『……口』
『は?』
『口開けて? あーんって』
晶は物言いたげな顔をしていたが、素直に従ってくれた。
スプーンに乗せたオムライスを、そのまま晶の口へ運ぶ。
するとカフェテリア全体でカラーンと、スプーンだかフォークだか箸だかを落とすような音が聞こえた。……気になったけれど、あえて視線は晶から外さない。
『し、四条先輩が……! あの四条先輩が………!』
『え、待って! 破局したんじゃなかったの!?』
『バカ! あの二人が別れたなんてデマに決まってるじゃない! だってあんなにらぶらぶなのに!』
……。………。………。大ダメージを喰らった。これを平気で出来る男は果たしてこの世に存在するのだろうか。いたとしたら尊敬する。尊敬に値するレベルだ、これは。
『お、美味しかったです……。ありがとうございます……っ?』
『もう一口食べるか?』
『いえ、丁重にお断りさせて頂きたいです……。ていうか、あのどうかしたんですか?』
俺の突飛な行動についていけていない晶は、首をかしげている。わずかにその顔は朱に染まっている。かわいい。
『……今まで何もしなかったなと思って』
幸いなことに、晶の耳には届かなかったようだった。
……本当に、今まで何もしてこなかった。手も繋いだことはなかったし、抱きしめたこともなかったし、うん、すごくプラトニックな関係だったな。やっぱり手くらい繋いでおくべきだったなぁ。相合傘も試してみるべきだったかもしれない。そういう甘い思い出が、俺達の間にはあまりない。
……俺も晶もきちんと天気予報を確認して、しかも常に置き傘を用意してたから、相合傘をする機会もなかったんだよな。たまにはわざと忘れてみるべきだったのだろうか。
だけど登下校は一緒で―――――あ、やばい。それだけしかないかもしれん。
思い出、作り損ねたな。苦笑い。まだ、間に合うかな。
『……ぱい、先輩?』
『あ……悪い』
今なら言えるかな。いや、ダメだ。ほらそれは飲み込んで。
『また一緒にご飯食べような』
雨が降ったので、傘を忘れたふりして晶の傘に入れてもらった。晶は怪訝な顔をしていた。結論:相合傘は自分には向いていない。
図書室で、上の方に置いてある本を取ろうとして苦戦していたので、後ろから近づいてさっと取ってみた。晶はびくっと体を震わせていた。驚かせてしまったらしい。結論:あまりにも至近距離すぎて恥ずかしかった。
紙で指を切ったというので、ぺろりと指をなめてみた。晶は茫然としていた。結論:普通にばんそうこうを貼ってやれば良かったと思った。多分もう二度としない。
……色々やってみたが、ああうん。俺は少女漫画のヒーローにはなれないな。それだけははっきりとわかった。
え? お前たちホントに別れたのかって? 訊かなくてもわかるだろ。別れてるよ。
何人もの同級生に尋ねられた。同じ返事を返した。
どう見ても別れたカップルじゃない。
それはまあ、自分でもそう思うけど。それでも別れてるんだ。目に見えるだけが真実とは限らないだろう?
素直になればいいと、静は俺に言った。
素直になった結果がこれだ。俺と晶の距離は縮まったように見えるだろう。でも俺は知っている。俺たちの距離が、日を追うごとに離れていっているのを。俺は知っている。
それでも側にいてほしいと願うんだよ。わがままな俺の心は。
別れたくせに、未練がましくてごめん。
晶が彼とくっつくために別れたのに、何がしたいんだろうと自分でも思うよ。
わかってるんだけど、どうしようもないんだと言えば、キミは許してくれるかな?
晶が義弟のために作ったという弁当。それを見て、思わず嫉妬した。挙句気まで遣わせた。
嫉妬出来る立場じゃないだろ。いつの間にか自分の立ち位置さえ見失っている自分に呆れる。
歩いているうちにだんだんと、頭が冷えてきた。
歪んでいるこの関係。修正は俺の役目。だってこの事態を招いたのは俺だから。
一人、カフェテリアに向かえば、ああ、正面から彼が歩いてくる。
ちょうどいい。口元がわずかに緩むのが、自分でもわかった。
相手もこちらを凝視している。否、睨みつけている。一応、先輩なんだけどな。そんなに俺が嫌いかい? 俺もキミが嫌いだよ。もちろん、口に出しては言わないけどね。口に出してしまうと、余裕がないみたいじゃないか。それじゃ、ダメなんだ。
手放した今も、俺は晶の憧れの先輩でいたいんだ。そうすれば、晶はまだこっちを見てくれる。あの子の理想の先輩でいることは、キミには出来なくて、俺だけに許された、たった一つの特権。
だからまだ、憧れのヒトとしてその胸に留めておいてよ。
「ちょっといい? 水上侑くん、今日の昼休み空いてる?」
そんな顔しないでくれないか。
警戒心剥き出しで、いかにも嫌そうな顔をしたらほら、イケメンが台無し―――にはならないか。イケメンはいついかなるときでもイケメンなんですよ。確か晶がそう言っていたっけ?
「話があるんだ」
「……オレにはないけど?」
まあまあそう言わないで。大事な大事な、話だから。




