第九話 ユキと縄跳び①
いつも皆が縄跳びをしている場所の前。ライがちょうど顔を上げた。ユキと目が合う。
「……どうした?なんか、決めたの?」
ユキの顔を一目見て、ライは苦笑いした。からかうみたいでいて、どこか本気で心配している幼なじみの顔。
「分かる?」
「その顔。なんか、覚悟しましたみたいな顔してる」
ユキは思わず頬に手をやる。さっきまで陸さんとアレセンに話を聞いてもらったせいで、表情がまだうまく隠せていない。
「とりあえず、縄跳び……ロープと」
言いながら、足元に置いてあった縄を拾い上げる。
「ジャブ。基本から、よろしくお願いします」
頭を下げると、ライは一瞬、目を瞬せた。
「基本から、ね」
口ではそう繰り返しながら、目の奥が少しだけ寂しそうになる。
「お前はさ」
ライが、少しだけユキに近づいてくる。縄の取っ手を持ったユキの手元を、軽く指先でつつきながら。
「変わらなくていいんだよ」
ぽん、と軽く言う言葉に、長い時間がくっついている。
「俺が守るし。ずっとそうだったろ?」
ユキの胸に、子どもの頃の光景がいくつもいっぺんに浮かぶ。公園で転んだとき、クラスでからかわれたとき、ボールが飛んできたとき。間に入ってくれたのは、だいたいこの人だった。
「……うん」
ユキは笑って、うなずく。
「ライは子どもの頃から守ってくれて、ボクシング始めてからも、痛そうでも表では笑ってて……」
試合で顔を腫らして帰ってきても、自分の前ではいつも笑おうとした幼なじみの顔。その裏で、どれだけ怖さや悔しさを呑み込んできたのか、最近ようやく少しずつ分かってきた。
ライは肩をすくめる。
「これからも、それでいいじゃん」
視線をユキから少しそらして、天井のライトを一度見上げる。
「ダメなの?」
“変わらなくていい”と、“変わりたくない”が混ざった声。守るのが自分の役目だと信じてきた人の、素直な寂しさ。
ユキは縄の取っ手を握りしめた。
「ダメじゃないけど」
一度、息を吸う。
「ライの見てる景色……俺も、見てみたい」
言ってしまってから、心臓がどくんと鳴る。子どもの頃、一緒に行こうと言えばどこにでも一緒に来てくれた相手に、今度は自分が近づいていきたいと言っている。
ライは黙ってユキを見た。一瞬だけ、何かを呑み込むように喉が動く。
「俺と」
そこで言葉を切り、口の端を少し引きつらせる。
「レンの、か」
名前を出すときだけ、少しだけ棘が混ざる。でも、その棘が誰に向いているのか、ライ自身も持て余している。
ユキは正直にうなずいた。
「うん。二人が見てるもの、ちょっとだけでいいから」
ライは視線を落として、ユキの縄跳びを見つめた。しばらくして、小さく息を吐く。
「……いいよ」
顔を上げたとき、その瞳にはいつもの“副会長”と、“幼なじみ”の両方がいた。
「縄跳びとジャブ、見るよ」
言い切ってから、指を一本立てる。
「その代わり、約束」
ライは、少しだけ寂しそうに笑った。
「無理はなしな」
無理するなじゃなくて、なしな、と条件みたいに言うところが、ライらしい。
ユキは、笑ってうなずいた。
「……うん。約束する」
本当にできるかどうかは、正直まだ自信がない。怖さと、憧れと、レンの笑顔と、臆病って言われた悔しさが、ぐちゃぐちゃに混ざっている。でも――
(ライが見てくれるなら)
縄の片方をライに渡す。長さを合わせてもらいながら、ユキは心の中で小さく繰り返す。
(無理は、しない。……できるだけ)
「じゃあ、まず20回。飛び方は適当でいいから、止まらないことだけ考えて」
ライの声はいつもの練習のトーンに戻っている。ユキは「分かりました。がんばります」と、神妙に返事する。ライが苦笑する。
「なんで、急に敬語なの。変わんないでいい」
ロープが床に触れる音が、体育館に響く。ぎこちない1回目。ひっかかりそうになりながらも、なんとか続ける2回目、3回目。視線を上げると、向こうの方でレンがこちらを見ているのが見えた。無表情のまま、でも少しだけ首をかしげて。
ライの声が、すぐそばから飛んでくる。
「そう。肩の力抜いて。息、ちゃんとして」
リングの向こう、レンの視線。すぐそば、ライの声。その両方の間に、自分の呼吸がある。
いつか、あのリングの中から見る景色に手が届くかもしれない。今はまだ、その手前に立っているだけだ。




