第七話 土曜日の決意①
土曜日は、体育館が少し広く見える。
人が少ないせいかもしれないし、心臓がそわそわしているからかもしれない。ユキは、いつもより早く体育館に入った。下足箱の周りをホウキで掃きながら、入り口の向こうに頻繁に目をやる。
(……今日、来てくれるかな)
扉が、がらりと開いた。
「おはようございます」
ふわっとした声と一緒に、長身の青年が入ってくる。ゆるいパーマ、ラフなパーカー。肩から下げたスポーツバッグが、いつもの“土曜コーチ”の印だ。土曜コーチ、陸さん。普段は県庁で働いて、土曜日だけみんなの指導をしてくれる。この高校ボクシング部のOB。
「おはようございます」
ユキが挨拶すると陸さんは目尻を下げて笑う。
「おはようございます。……ユキ君、今日は早いんですね」
「はい。なんか、早く目が覚めちゃって」
自分でも苦しい言い訳だと思うのに、陸さんは「そういう日、ありますよ」とやさしく頷く。
「頭の中に、ちょっとした気になること、がある日ですね」
「……あります」
即答してしまって、ユキは苦笑した。陸さんは、その表情を確認してから、体育館の二階観覧席を指さす。
「少しだけ、上で話しましょうか。皆が来る前に」
◇◇◇
二階の長いベンチに並んで腰を下ろす。
下には、まだ誰もいないリングがぽつんと立っている。
「その、県庁、お休みなんですか、今日は」
口火を探して、ユキはつい分かりきったことを聞く。陸さんは「はい、土日は基本お休みですね」と笑う。
「その代わり、ここに出勤してる感じです」
「……すみません、いつも」
「いえいえ。本当に、けっこう楽しみなんですよ。ここに来るの」
社交辞令じゃない声だった。一呼吸おいて、陸さんが身を屈めるようにして、ユキの目をのぞきこむ。
「で。早起きユキ君の、今日の気になることは何でしょう」
逃げ道を塞がない言い方。それでもユキは言い淀む。
「……俺、」
指先を組む。親指と親指が押し合う感触で、なんとか声をつなぐ。
「ライと、雨宮君が……リングの上で殴り合ってるの、見て。こないだ」
「はい」陸さんは、知っている、という顔をした。顧問から、後から話だけ聞いたあの件だ。
「怖かったです。見てて。止めてほしいって思ったし、ああいうのは嫌だって思って」
「うん」
「でも、同時に……目が離せなくて」
ユキは、リングを見下ろす。
「二人が見てる景色、っていうか。リングの中から見える体育館とか、相手の顔とか……俺、ミット持って下から見てるだけで」
言いながら、自分でも何を言いたいのか分からなくなりそうになる。
「怖いし、向いてないなって、ずっと思ってたんですけど……あのとき、ちょっとだけ、あの景色、俺も1回くらい見てみたいなって思って」
言った瞬間、顔が熱くなった。野次馬みたいで嫌だな、とどこかで思う。陸さんは「ふむ」と小さく相槌を打つ。
「殴り合いたいじゃなくて、見てみたい、なんですね」
「……はい」
そこだけはハッキリしていた。
「勝ちたいとか、強くなりたいとかよりも……ライと雨宮君が見てるものを、ちょっとだけ同じ場所から見てみたい、みたいな」
自分で言って、苦笑いが出る。
「すごい勝手な気もしますけど」
陸さんは、すぐに否定も肯定もしなかった。しばらくリングを見てから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「勝手、ではないと思いますよ」
「そうでしょうか……」
「誰かが見ている景色を、自分も見たいって思うのは、わりと自然なことです。特に、その誰かのことをすごいなとか、かっこいいなって感じてたら、なおさら」
ユキは、胸がどきっとする。レンの頬に絆創膏を貼ったときの、あの感覚がよみがえる。陸さんは、そこで少しだけ真面目なトーンに戻る。
「ただ、それと試合に出る、はまた別の話ですね」
「……ですよね」
ユキは、少し肩を落とした。自分でも分かっていた。“見てみたい”と“出たい”の間には、深くて怖い溝がある。陸さんは、そこでふっと笑った。
「試合に出るかどうかは、すぐ決めなくていいと思いますよ。ユキ君のマネージャー、僕から見ても、とっても助かってますし」
「……助かってますかね」
「ええ。かなり。水の用意も、怪我のチェックも、空気の読み方も。安全担当がいてくれるおかげで、僕らは安心して打ち込めますから」
さらっとそう言われて、ユキは胸の奥がじんとする。
(俺、いてもいいんだ)
リングの外側にいる役割が、ちゃんと仕事として認められた気がした。陸さんは続ける。
「だから、リングに上がる話は、いつかそうしたくなったらまた相談する、でいいと思います」
「……いつか」
「はい。今すぐ決めないっていう選択も、ちゃんと一つの決定ですから」
ユキは、そこで初めて少し肩の力が抜けた。
「じゃあ、今日はどうするか、だけ決めてみませんか」
「今日、ですか」
「そうです。例えば――」
陸さんは、下に見えるフロアを顎で指し示した。
「とりあえず、今日はロープと、ライ君にジャブを教わってみるのはどうでしょう?」
にっこり笑う。
「いきなり試合に出るかどうかじゃなくて、リングの中でちゃんと立つために必要な一歩だけ、試してみる。それぐらいなら、怖さも少し軽くなりませんか」
縄跳び、ユキが苦手なやつ。
「……へたくそなの、バレちゃう」
思わず本音が漏れると、陸さんは「もうバレてる気もしますけど」とおどけた。
「へたくそでもいいんですよ。上手く飛ぶのが目的じゃないですし」
「じゃあ、なんのために……?」
「しんどいときにどう呼吸するかを覚えるためですね」
さらっと、とんでもなくそれっぽいことを言う。
「ロープに限らず、リングでも、人生でも、しんどいときって急に来るじゃないですか。そのとき、あ、今しんどいなって気づいて、息を整える練習になるんです」
ユキは、思わず笑ってしまった。
「人生まで入っちゃうんですね」
陸さんも笑う。
「それから、ライ君のジャブ。あれは怖がりな子のための武器でもあるので、ユキ君が覚えるのは悪くないと思いますよ」
「怖がりな子のための……」
「そう。相手を遠くに置ける技術です。怖くても、ここから先には入れないよって線を引ける」
ユキは、指先をぎゅっと握った。境界線。自分には、いちばん薄いと思っていたものだ。
「……やってみても、いいですか」
「もちろん」
陸さんは、すぐに頷いた。
「ロープで息を整えてから、ライ君にジャブを教わってください。リングで見てみたい景色にちょっとだけ近づく練習です」
リングを見下ろす。さっきより、ほんの少しだけ、リングが“檻”じゃなく“囲い”に見えた。
「それで十分ですよ。今日は、それだけで」
陸さんの言葉に、ユキは息を吐いた。
「……はい」
怖さは消えない。でも、今すぐ決めなくていいという言葉が、胸の中に小さな足場を作ってくれる。ユキは立ち上がった。
「じゃあ……縄跳び、してきます」
「行ってらっしゃい」
陸さんが手を振る。それを背中に感じながら、ユキは体育館の階段を降りた。縄跳びの音が、今日から少しだけ違う意味を持つ――そんな予感がした。




