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第六話(★) ライと部長

 次の日、体育館の片隅では、いつものサンドバッグの音がしていた。


 ドスッ、バスッ、ドスッ。


 誰が叩いているかなんて、見なくても分かる。


「……部長」


 ライが声をかけると、サンドバッグが一度だけ止まった。


「なんだ」


 振り向かないまま、低い声。


「その……昨日の、レンの件で。俺、ちょっとらしくなかったんで……」


 言葉がうまく続かない。後輩にキレて本気で殴りかけた先輩、なんて口に出したくなかった。


「頭冷やしたくて。スパー、お願いできませんか」


 部長――中道アレセンが、ようやくこちらを振り向く。

 正面から向き合うと、改めて「サイズ」が分かる。Tシャツ越しでも腕の太さと胸板の厚みがはっきり見えた。


(……やっぱ、デカいな)


 分かっていたはずのミドル級の体格が、いつもより大きく見える。

挿絵(By みてみん)

「顧問に怒られてただろ、お前」

 

 一瞬だけ沈黙。アレセンの目が、じっとライを見つめる。


「後輩ぶん殴って後悔してる?」


 図星すぎて、言葉が詰まった。


「今度は、痛めつけられる側になりたいってか」


 ドスッ、とサンドバッグに一発、重いパンチが落ちる。鎖がビンと鳴り、袋全体が大きく揺れた。

 その一発だけで、本気で殴られたら……というイメージが、背骨のあたりまで冷たく落ちてくる。


「……いいぜ」


 口元だけ、ほんの少しだけ動いた。


「スパー相手はいつも足りねぇ。上がれよ」

「おいおい」


 顧問が、眉間にしわを寄せて、二人のほうへ歩いてくる。


「懲りてないのか、北条。昨日も変な空気になってただろうが」

「すみません」


 ライは素直に頭を下げる。


「頭、冷やしたくて……」

「頭冷やすのは氷でやれ。リングで冷やそうとすんな」


 口ではそう言いながらも、顧問の視線はアレセンに移る。さっきサンドバッグを揺らした一発の記憶がよみがえったのか、一瞬だけ言葉に詰まった。


「まあ……アレセンとならな……」


 変なことにはならんだろう、と言おうとしたのかもしれない。……が、アレセンと目が合うと、その先は小さく濁された。


「ワンラウンドだけだぞ」

「分かってます」


 アレセンが短く答える。

 顧問は「はぁ……」とため息をついて、その場を離れていった。


 少し遠くでは、レンが、縄跳びのロープを手にしたままそれを眺めていた。

「もの好きっすねぇ」とでも言いたげな、面白がる目でライを見ている。

 ライは気づかないふりをして、マウスピースを口に入れて強く噛んだ。

 

◇◇◇


 ロープをまたいでリングに上がると、キャンバスがいつもより狭く見えた。

 アレセンと向かい合うとき、リングは一回り小さくなる――ライは体で知っている。

 向かいのコーナー、アレセンは無表情のままヘッドギアをつけていた。


「じゃ、ワンラウンドな。持ったらの話だが」

「はい」


 合図はいらない。グローブを軽く合わせて、ライはすぐにステップを踏んだ。いつものように、ジャブで距離を測る。


 パスッ。


 アレセンの顔面にジャブの先が届く。

 拳が当たった感触はあるのに、分厚い上半身はほとんど動かない。少し後ろに揺れたと思ったら、すぐ元の位置に戻ってくる。

 

(軽い……)

 

 手応えの薄さに、喉の奥がきゅっとなる。

 アレセンはほとんど動かない。顎を引いたまま、じっとライの足だけを見ている。

 

(足、見てる……)

 

 ステップの癖も、下がる角度も、全部読まれている気がする。ぞわっと背筋が冷えた瞬間、一歩、距離が詰まる。


 ドンッ。


 何の前触れもなく、真ん中にジャブが飛んできた。

 拳そのものより、その後ろに乗っている体重ごとぶつかってくる感じ。

 ガードの上からでも首が後ろに弾かれる。


「っ……!」


 本能的に下がろうとした足を、自分で止める。サイドに逃げようとすると、その一歩を読んだみたいに、アレセンの足が先に回り込んでくる。次の瞬間――


 ドスッ。


 みぞおちの横に、短いボディが沈んだ。

 

「……っ!」


 肺の底から、息が勝手に押し出される。膝が折れそうになる。ロープがなかったら、そのまま座り込んでいたかもしれない。痛みより先に、原始的な恐怖だけが先に走る。


「これが、壊れる手前」


 真正面から、アレセンの声が落ちてくる。


「ここから先は、壊して勝つほう」


 もう一発、打てる位置だった。アレセンの肩も腰も、いつでも振れる角度にある。でも、グローブはそこで止まる。


「俺は倒せるなら倒せって言う側だ。けど、後輩を壊せって教えた覚えはない」


 その一言で、ライの肩から少しだけ力が抜けた。

 

(……昨日、レンにもう一発いきかけた)

 

 感情のまま振りかけた右。止めてくれたのは、ユキの声だった。もし、あのまま振っていたら――今のボディみたいに、壊れる手前を自分で踏んでいたかもしれない。


「どうするか決めろよ、ライ」


 アレセンはガードを上げ直す。


「詰めきれないままでいくのか、昨日みたいに、線越えてくのか」


 ジャブ。ライは、一歩、踏み込んで打つ。今度は、自分でも分かるくらい、さっきより深く踏み込んだ。怖いから浅く打ちたい体を、意識で前に押し出す。

 ワンツー。小気味良い音と共にアレセンのヘッドギアが揺れる。分厚い身体が一瞬だけ後ろに沈み、それでもすぐ前へ戻ってくる。


(……やっぱ、デカいな)


 どれだけ当てても簡単には動かないという事実が、じわじわ怖い。それでも、拳を止めずに打ち続けるしかない。

 アレセンの眉が、わずかに動いた。


「……まあ、さっきよりはマシだな」


 口の端が、ほんの少しだけ上がる。


「詰めきれないって、お前はコンプレックスにしてるかもしれねぇけど」


 アレセンは短くジャブを返してくる。今度は軽く、触るだけ。


「壊したくねぇって思ってるなら、そのままでいろ」


 ドン、と最後にもう一発、肋のあたりにボディ。さっきよりは軽いが、芯だけは残る。


「うっ……」

「ここまで、だな」


 ライは大きく息を吐いた。足は重い。胃のあたりは痛い。でも、昨日、レンを殴ったあとみたいな、どす黒い自己嫌悪は、少し薄くなっていた。


(簡単に、壊せる側に行けるわけじゃない、ってことは分かった)


 拳の重さを味わったうえで、素直にそう思う。

 ロープをまたいで降りると、図書委員を終えたのだろう。ユキが駆け寄ってくる。


「ライ!」

「平気。ちょっとミドル級に、壊れる手前を教えてもらっただけ」

「全然平気じゃないよ……」


 心配そうに顔を覗き込むユキの声を聞きながら、ライは小さく笑った。その笑いには、もう昨日の尖りは残っていなかった。

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