第五話(★) 幼なじみの回想
北条ライは、ひとつ息を吐いて壁にもたれた。
(……最悪)
手の甲で自分の口元を拭う。グローブを外した指が、まだ微かに震えている気がした。怒りにまかせて、殴った。理由を全部剥がしてしまえば、ただ「気に入らない後輩を、本気で殴った」だけだ。
レンの顔。あいつの「そういう顔もできるんすね」という声。視界の端がじわじわ熱くなっていく。ライは、わざと目を閉じた。
——まぶたの裏に浮かぶのは、別のリングだった。
◇◇◇
体育館は、今よりずっと大きく見えた。ジュニア大会の県予選、小学生の部。ライは、そのとき五年生だった。
対戦相手は、1つ年下の四年生。反対のコーナーでアップしていたときから、ちょっと変な子だと思っていた。とにかく、無表情。「絶対、勝つ」とか、「ぶっ倒してやる」とか、そういう顔じゃない。ただ、淡々とシャドーをしている。
(年下だし)
ライは最初、少しだけ油断していた。始まってすぐに、その油断は吹き飛んだ。
ゴンッ、とヘッドギアが揺れる。
「っ……!」
ガードの間を抜いて入ってきたストレート。続けざまに、左のフック。頭が揺さぶられて、キャンバスがぐにゃっと見えた。
(なに、こいつ……)
容赦、という言葉がなかった。ジャブで様子を見る、とか。力を加減するとか。そういう気配が、一切ない。とにかく、当たるパンチを、当たるだけ当ててくる。
バン。
ゴン。
ヘッドギアが何度も揺れて、肩に伝わる衝撃で、腕がじわじわ重くなっていく。客席からは、よくある声援が飛んだ。
「ライ、下がるな!」
「手、出せ!」
頭の中はだんだん真っ白になっていった。
(くそ……)
一発、右を返した。かすった。当たった手応えはあったのに、相手の表情は一ミリも変わらない。
バシッ。
逆に、また真ん中に一発もらう。鼻の奥がツンとして、視界がにじんだ。次の瞬間、レフェリーの腕が割り込んできた。
「ストップ!」
ライは、ふらっと一歩下がった。鼻の中を何かあたたかいものが流れていく。パタパタと赤い血がキャンバスに落ちる。客席がざわついた。
(……負けた)
レフェリーが、相手の腕を上げる。
その子は——やっぱり無表情だった。勝っても、嬉しそうな顔をしない。負けたほうを見もしない。
(なんだよそれ)
ムカつく、と口にしそうになった。でも、そこに、別の自分が口を挟んだ。
(言ったらダメだよ。そういうの)
鼻血が止まってから、ライはその子のほうへ歩いて行った。近くで見ると、年下なのがよく分かる。まつげが長くて、キュッと口を結んでいる。
呼吸を整えながら、ライはできる限りの笑顔を作った。
「さっきは、ありがと。お前、強いな。またやろ」
一瞬、その子の無表情が揺れた。
「……いいの?」
初めて聞いた声は、思っていたよりも小さかった。
「いいの、って?」
「負けたのに。またやろ、なんて言ってくれるの」
視線が、ほんの少しだけ不安そうになる。ライは、そこでやっと気づいた。
(ああ、この子も、怖かったんだ)
無表情なのは、何も感じていないからじゃなくて。感じ過ぎて、出し方が分からないだけなのかもしれない。
「俺も、楽しかったし」
ライは、心からそう思っていた。殴られて痛かった。鼻血も恥ずかしかった。それでも、ちゃんと殴り合いになったこと自体は、どこか嬉しかった。
「だから、またやろ」
「……うん」
相手の口元が、やっとほんの少しだけ緩んだ。ライはそっと相手の手を取って、ブンブン振る。握手——それだけで、さっきまでのイライラが、すこし溶けた気がした。
◇◇◇
着替えを済ませて廊下に出た瞬間——ライは、しゃがみ込んで泣いた。
現実は、甘くない。年下にかなわなかったこと。痛かったこと。鼻血が出たこと。想像してた“勝ち方”と全然違ったこと。いろんな思いがいっぺんに押し寄せて、膝を抱えたまま、声を殺して涙が止まらない。
(悔しい……)
さっきの笑顔なんて、全部嘘みたいに感じた。そのとき、横からそっと影が落ちた。
水色のハンカチが、差し出される。
「……お前」
顔を上げると、ユキがいた。近所の同い年の幼なじみ。客席にいるはずだった子。
「来てたのかよ……」
しゃくりあげながら言うライに、ユキはこくんと頷いた。
「応援してた。がんばってたね」
背中に、やさしく手が触れる。ただ、「ここにいるよ」って伝えるみたいな手つき。その感触だけで、ライは余計に泣けてきた。
「年下に、負けた……」
「うん」
「痛かった……」
「うん」
「鼻血、恥ずかしい……」
否定も、励ましもない。全部「うん」で受け止められるのが、逆に救いだった。
泣き疲れて、やっと涙が引いたころ。ライは、ハンカチで鼻を拭きながら、ぽつりと言った。
「……でもさ、あいつ、強かったよな」
ユキは、ふふっと笑った。
「すごかった。ライ、ちゃんと最後までやってたし。握手してたでしょ。僕、手が痛くなるくらい拍手しちゃった」
その言葉で、胸の奥がじんわりあたたかくなった。一生懸命拍手するユキを想像して、顔がほころぶ。
勝ち負けで全部決まるわけじゃない。痛くても、情けなくても、そこでどう笑ったかのほうを、大事にしていたい。
◇◇◇
体育館の壁にもたれた高校二年のライは、廊下で泣いていた昔の自分を、少し離れたところから見ているような気持ちになっていた。
(変わらなくていいんだよ、アイツは)
口の中で、もう一度つぶやく。リングの外で背中をさすってくれる、昔から変わらない手の持ち主。ユキ。
そして、(できるなら、俺も)そう、心の中でだけ付け足した。




