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第四話 幼なじみの怒り②

「おい、そこまで!」


 顧問の声が、体育館の空気を割った。ボクシングのことはまったく素人だ。フォームの違いも、距離の取り方も、細かいことは分からない。でも――面倒な雰囲気を嗅ぎつけるのだけは、やたらとうまい。

 顧問はリング下まで来て、手を上げた。


「北条! 雨宮! いま、スパーの顔じゃないだろ。やめろ」


 北条ライが、ほんのわずかに息を吐いた。感情を、ただ必死で抑えている。ライと雨宮レンは、リングの中から顧問を見下(みお)ろして、声をそろえる。


「先生、これスパーです」

「そこだけ、声をそろえるな。技術のことは分からん。けどな」


 顧問は言い切った。


「今の空気は分かる。これ、喧嘩の空気だ。部活でやる顔じゃない」


 一拍。体育館に静けさが落ちる。見てはいけないもの、を見る直前の静けさ。顧問は続けた。


「北条、お前は副会長だろ。言葉で止めろ。リングはお前の喧嘩の場所じゃない。

 雨宮、お前は一年だ。強がりをリングに持ち込むな。……わかったな」


 レンが「強がり」と言われたのが気に障ったのか、一瞬だけ目が細くなる。


「強がりじゃないっすけど」

「じゃあなおさら、やめろ。二人とも降りろ」


 顧問は即答した。

 ライは固く握ったグローブを開いて、ロープの方へ下がった。レンも一歩遅れて従う。従い方が、やけに素直で、それが逆に怖い。

 そのとき、ユキはようやく中に入った。扉がきしむ音がして、顧問が振り向く。ユキは笑って会釈(えしゃく)しようとして、笑えなかった。

 リングの上のライとレンが、同時にこちらを見る。ライの目に、怒りが残っている。レンの目には、何かの楽しさが残っている。どちらもユキの胸に刺さって、胃が縮む。


「……ユキ」


 ライが先に呼んだ。声は落ち着いている。落ち着かせている。

 ユキは喉が詰まりながら言う。


「ごめん。俺のせい、だよね……」


 ライが首を振る。


「関係ない。ユキは何も悪くない」


 悪くない、が昨日と同じ響きで、ユキはまた胸が苦しくなる。守られているのに、守られるほど、自分が“物”になっていく感じがする。

 レンがぽつりと言った。


「……ほら。ユキ先輩、そういうとこ」


 ユキがレンを見ると、レンはいつもの無表情のまま、でも視線だけで突いてくる。


「守られ慣れてる」


 ユキは言葉を失う。地雷に触れられた感覚がした。顧問が手を叩いた。


「はい、ここまで。全員、練習に戻れ。北条と雨宮は――」


 一瞬、顧問は言葉を探した。技術の指導はできない。だから、やれることはリングから遠ざけるだけ。


「……今日は別メニュー。お前ら、一回離れろ」

「先生」


 ライが何か言いかけた。けれど顧問は首を振る。


「言い訳はあと。今は冷やせ。これは命令だ」


 ライは小さく頷いた。頷き方にいつもの副会長、が戻ってきて、ユキは少しだけ救われる。

 レンは「はい」とだけ言う。その返事が、従順すぎて、ユキは背筋が冷えた。レンは従うように見せるのが上手い。自分の本当の姿を隠すように。

 一歩踏み出して、「……痛っ」とつぶやく声が、妙に普通で、ユキはそこでやっと身体が動いた。


「雨宮君!」


 リング下から駆け寄る。顧問が「青戸は入るな」と言いかけて、ユキの顔を見て言い直した。


「……手当てしてやれ。雨宮はロッカールーム。北条、お前はこっち」


 ライは「すみません」と小さく頭を下げた。顧問に、部に、空気に。

 レンはロープをくぐってリングを降りると、ユキの方へよろよろ近づいてくる。足元はそんなに乱れていないのに、平気なふりが透けて見える。


◇◇◇


 ユキはレンのヘッドギアをそっと外した。

 

「ちょっと腫れてきたね。どこか、すごく痛いとこない?」

「……まあ、顔っすね」


 レンは答えながら、苦笑いをした。少し離れた場所で、ライは顧問に何か言われている。距離があって言葉までは聞こえないけれど、「すみません」ともう一度頭を下げる姿だけが見える。


 ユキはレンをロッカールームのベンチに座らせた。頬がすでに赤く腫れ始めている。


「冷たいよ、ごめんね」


 準備した氷のうをあてながら言うと、レンは目を細めた。


「……大丈夫っすよ。ユキ先輩、優しいんで」


 その「優しい」に、昨日の「臆病」が重なる。胸の奥がうずくのに、ユキはそれ以上、言葉を探せない。少し間があいてから、レンがぽつりとこぼした。


「……あんなこと言っておいて」

「ん?」

「かっこわるいとこ、見られましたね」


 ユキは、一瞬きょとんとして、それから首をぶんぶん振った。


「全然!かっこわるくない!」


 自分でも驚くくらい強い声が出た。レンが目を瞬く。

 ユキは慌てて言葉を継いだ。


「だって、あんなストレートもらっても、ちゃんと立ってて……ジャブも返して……すごいなって思った」


 “痛そう”より先に、“立ったままでいる”ことに目を奪われた。あの瞬間、自分なら絶対に目をつぶって、逃げていたと思う。

 レンは一瞬だけユキを見て、それから視線をそらした。耳のあたりが、ほんのり赤くなる。


「……へへ」


 照れ笑い、みたいなものが、やっと口元に浮かぶ。


「よかった。ユキ先輩にダサく見えてたら、辛いし」

「そんなふうに見ないよ、絶対」


 即答すると、レンは氷のうの下で目を細めた。


「マジっすか」

「マジ」


 会話だけ切り取れば軽いのに、ユキの胸の中では何かが静かにずれていく。


(ああ……この人、自分がどう見えてるか気にしてるんだ)


 臆病だとか、守られ慣れてるとか、そういう刺す言葉の裏で。「ダサく見られたくない」とか「ユキ先輩にだけは」とか――口にしないまま、こちらに預けているものがある。

 絆創膏(ばんそうこう)を取り出して、ユキはレンの頬にそっと貼った。指先が、少しだけ震える。


「……痛い?」

「んー……貼ってる先輩のほうが、痛そうっすね」


 からかうみたいに言う声が、昨日よりやわらかい。ユキは苦笑して、「俺は大丈夫」と、いつもの言葉を口にしかけて――喉のところで止めた。


(大丈夫、って……何が?)


 リングの上で殴り合う二人から、目を離せなかった自分。駆け寄ることもできなかった自分。さっきまで怖くてしかたなかったくせに。今、レンの笑顔を見て、「すごい」とか「かっこいい」とか思ってしまっている自分。

 なんだか、心を動かされている。


「……ユキ先輩?」


 レンが覗き込む。


「ぼーっとしてますよ」

「ううん、なんでもない」


 ユキは笑って、絆創膏の端を軽く押さえた。ちゃんとくっつくように。剥がれないように。


(なんでもない、わけないのに)


 胸の真ん中あたりで、昨日から刺さったままの「臆病」と、さっき見た「かっこいい」が、ぐしゃっと混ざっていく。

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