第三話 幼なじみの怒り①
次の日。図書委員を終えたユキが、体育館に入る少し前。廊下を曲がったところで、乾いた音がした。
――ドン。
床が鳴る音。空気が揺れる音。胸の奥が、反射で縮む。ユキは足を止める。体育館の扉の向こうから、何かがぶつかる気配が続けて二つ、三つ。
(……なに?)
嫌な想像が先に立つ。誰かが痛い目にあっているという想像。ユキはそういう想像だけが、異様に速い。
扉の隙間から見えたのは、リングだった。レンが、叩きつけられるように倒れこむ。正確には、ロープ際で踏ん張れずに尻もちをついて、背中がロープに弾かれた。
その一瞬が、ユキの目には乱暴に見えた。
相手は――ライ。幼なじみの北条ライが、リングの上に立っている。グローブは付けている。ヘッドギアもしている。形式はスパーだ。なのに、空気が違った。
ライの目が、競技の目じゃない。レンは床に座ったまま、舌打ちを飲み込むみたいに息をする。ライは一歩だけ近づいて、低い声で言う。
「あいつに、余計なこと言ってるらしいな」
ユキは扉を開きかけて凍りつく。あいつーーユキのことだと、すぐに分かった。レンは肩をすくめた。無表情のまま、わざと軽く言う。
「だる……さすが副会長。耳が早いっすね」
「今のままでいいんだよ、アイツは」
ライの言葉が、リングの上から落ちてきた。その瞬間、ユキの胸がきゅっと縮む。安心と、情けなさが同時に来る。守られるのは温かいのに、守られ方が“檻”みたいに感じることがある。
レンが鼻で笑った。
「……今のままでいい、って。誰が決めるんすか。俺の線の中なら安心、って」
「は?」
ライの声が、さらに低くなる。
「納得してねぇ顔だな。……立てよ」
レンはゆっくり立ち上がり、グローブを構える。
「過保護。分からせてくださいよ」
挑発っぽい言葉なのに、声はやっぱり平らで、静かだった。
ライは短く息を吐く。
「……いいよ。後悔すんなよ」
その「いいよ」は、後輩の相手をしてやる先輩、じゃない。同じリングに立つ相手に、真正面から受ける「いいよ」だった。二人が構え直した瞬間、体育館の空気が変わった。
リングのきしむ音。シューズがキャンバスを擦る音。
ユキは扉のそばで固まったまま、目を離せなかった。
レンが、先に踏み込む。軽いジャブ。ライはそれを小さくスウェーしてかわしながら、自分の距離を測る。
「……っ」
レンのジャブが一瞬だけ重くなる。ミットに打ち込んできたときと同じ、「ふと」の強さ。
ライの表情がわずかに変わる。いつもの競技者の顔から、何かを押し殺す顔へ。
(いやだ……)
ユキの喉が、ひゅっと鳴る。声は出ない。
ライが、踏み込んだ。ワン、ツー。教科書みたいなリズムなのに、さっきまでより明らかに速い。
――ドン。
ストレートが、レンのガードの隙間を抜けて頬をとらえた。ヘッドギア越しでも分かる、きれいな一発。レンの頭がわずかにのけぞり、ロープが背中に触れる。
「……っ」
レンの息が漏れる。その一瞬だけ、目が泳いだ。ライの顔に、感情が浮かぶ。怒りとも、悔しさともつかない、見慣れない影。レンが、口元を歪めた。
「……副会長、そういう顔もできるんすね」
言いながら、ふらつきながらもジャブを返す。軽くじゃない、ちゃんと「刺す」ジャブ。ライはそれをブロックしながら、低く返した。
「ここで副会長って呼ぶな」
ライとして殴っている、という線引き。ユキには、その言葉の意味が真っ先に刺さる。
(二人とも……やめて)
心の中で何度も言うのに、身体は動かない。目が、リングから離れない。レンが前に出る。ライも引かない。距離が詰まるたびに、グローブとグローブがぶつかる音、腕と腕が擦れる音がする。
ワンツー。
ボディ。
ショートの打ち合い。
それは、約束したコンビネーションの交換じゃない。二人の意地がぶつかり合う音だった。
ライの右が、もう一度入る。今度は少し浅く。次の瞬間、レンのジャブがライの頬をかすめた。
「……チッ」
ライが短く舌打ちする。珍しい。いつもなら飲み込む音。ユキの鼓動がうるさい。リングに近づきたいのに、足が震えて動かない。
――パン。
ライのストレートが、レンのガードごと押し込んだ。レンの身体がロープに叩きつけられる。
ガードが下がったところにライの右フックが……
「ライ!」
ユキの悲鳴が響く。
ライははっとしたように後ろへ下がる。胸が大きく上下している。「幼なじみを守りたい」の呼吸と、「部活の先輩」の呼吸が、胸の中でぶつかっているみたいだ。
レンはロープにもたれたまま、数回瞬きをした。遅れて、顔の痛みに気づいたように顔をしかめる。




