第二十八話 雨の日④
ユキのパンチは、当たらなかった。
いや、正確には「当たらない」だけではない。
ジャブを出せば、その腕の外側をすり抜けるように、レンの拳が返ってくる。
「……うっ」
空を切った自分の右肩に、レンのグローブがぽんと乗る。
ワンツーを繰り出せば、二発目が伸びきる前に、レンの左がユキの額を軽く弾く。
打てば、返る。外せば、差し込まれる。
自分の動きのすべてに、不正解のハンコを押されているような感覚。
(……当たんない。なのに、返ってくる!)
分かっていた。レンが、自分とはまるで違うところで生きてることくらい。
でも、こうして真正面から向かい合って、自分の勇気がすべて空振りに終わり、その隙を正確に打ち込まれる度に――胸の奥がじわじわと熱く、苦しくなる。
(ライみたいにも、レンみたいにも、なれないなぁ……)
息が上がる。視界の端が、少しだけにじんだ。汗か、涙か、自分でも分からない。ヘッドギアの中が、やたらと狭く感じる。
「ユキ先輩」
レンの声が聞こえる。
「ガード、下がってきてます」
分かってる。
腕が重い。肩も、もげそうに痛い。
ボディをもらったところは、まだずきずきする。
それでも、もう一回だけ、と拳を握った。
(ここまで来たんだから)
リングに上がるって決めた自分に、せめて一発くらい――届いたって思いたい。
最後のつもりで、ストレートを出した。
腰を、ぐっと前に落とす。今まででいちばん、力を込めた一撃。フォームなんてぐちゃぐちゃかもしれない。でも、“殴りたい”より“届きたい”が勝った一発。
レンの目が、一瞬だけ細くなった。
(来る)
そう思った瞬間には、もう身体が反応していた。
ほんの紙一重で、そのストレートの軌道から外れる。呼吸を合わせる。足の裏でキャンバスを捉え直す。
重心をずらした拍子に、ユキの拳は空を切って、そのまま、自分の身体ごと前に流れていった。
「――あ」
バランスを崩す。足がもつれる。つま先が、キャンバスに引っかかる。
腰が、そのままストンと落ちた。
ドサ、とも、バン、とも違う、力が抜けた身体が落ちる音。
「っ、ごめっ――!」
レンが、慌てて駆け寄った。倒したというより、勝手に崩れた。それでも、最後の一発を空振りさせたのは自分だ。
(やりすぎたかもしれない)
胸の奥が、ぎくっとする。さっきまでの意地悪な気持ちが、まとめて冷える。
「ユキ先輩!」
キャンバスに膝をついて、ヘッドギアに手を伸ばしかける。ヘッドギア越しにのぞいたユキの顔は、汗と涙でぐしゃぐしゃだった。泣いてるのに、笑ってる。情けなさに潰れそうなのに、誰かを安心させようとしてる目。
(……やめろよ。そういう目、今するなよ)
胸が、きゅっと痛む。殴ったほうが痛いなんて、ずるい。
リング下から、ロープが揺れる。
ライが、勢いよくロープをまたいで上がってきた。さっきとは違う。今度は止める誰かの手より先に動いてしまった。
「ユキ――!」
「……やっぱ」
かすれた声が、先に飛んできた。ユキが、自分でヘッドギアを持ち上げようとして、うまくいかず、グローブで顔を覆った。隙間から、涙がにじみ出ている。泣き顔のまま、笑った。
「やっぱり……二人みたいには、うまくいかないなぁ……」
ライの顔。レンの顔。パンチが当たって、相手が下がるあの感じ。「よくできました」って言える側の人たち。
自分は、最後まで当てられなくて、勝手にバランス崩して、尻もちついて、泣きそうで。
「がんばったつもりなんだけどなぁ……」
泣き笑い、という言葉がそのまま形になったみたいな表情。悔しくて。情けなくて。でも、ちょっとだけおかしくて。
レンは、一瞬、何を言えばいいか分からなかった。
「……二人みたいに、じゃなくていいですよ」
出てきた声は、思っていたよりずっと低くて、自分で少し驚く。
「先輩のは、先輩のままでいいっす」
それでも、ユキには届いたかどうか分からない。ライは、ぽかんとしたあと、ぐっと唇を噛んだ。
「うまくいってたよ」
やっと絞り出す。
「当たるかどうかだけが、うまくいくじゃないだろ。ここまで来て、リング上がって、立って、倒れても、『もうちょっと』って言ったの、お前だし」
言いながら、ライの胸の奥も痛む。
(本当は、こんなとこまで来させたくなかったくせに)
陸さんが、ゆっくり近づいてきた。
「今日は、ここまでですね」
穏やかな声。
「ユキ君、よく頑張りました。当たらなかったけど、勇気を出した日……ってことで、ちゃんと覚えておきますよ」
ユキは、涙の中で、かすかに笑った。
「かっこわるくて、やだなぁ……」
陸さんは、にっこり笑う。
「でも、二人と同じ場所まで来たんです」
そう言って、ユキのヘッドギアにポンと手を置く。
レンは、ほんの少しだけ後ろに下がる。自分の胸の中で、どうしようもなく膨んだ意地悪な気持ちと、それでも倒れたユキを見て真っ先に出てきた「ごめん」が、ぐちゃぐちゃのまま、どこにも行き場がなくて。
(俺、やっぱり……)
ライみたいには守れないな、と。アレセンみたいに、合理的にもなれないな、と。それでも――
(今日のこれ、たぶん一生忘れないっすよ)
初めて、自分の前で倒れたユキの泣き笑いを、レンはヘッドギア越しに刻みつけていた。
そのとき。アレセンが、両手をゆっくり動かした。
――パン。
――パン。
大きな音じゃない。拍手というより、確認みたいな二回。
「……」
誰もすぐには反応できなかった。でも、その二回は、はっきり伝わった。よくやった、の合図。アレセンが言葉で言わない代わりに、音で出した肯定。
ユキは、ヘッドギアの中で目を瞬いた。泣いたのがバレたみたいで、慌ててグローブで目元をこする。乱暴に。誤魔化すみたいに。
そこへ、顧問がわざとらしく大声を出した。
「おお! ちょっと休憩! 休憩はさもう!」
必要以上に騒ぐ。そして顧問自身も、咳払いをするふりをして顔をそむけ、目元を手でさっと拭った。
「はいはい、給水タイム! ヘッドギア外して、とりあえず深呼吸。雨の音、聞け雨の音!」
意味の分からないことを言いながら、顧問はユキの近くへタオルを投げて寄こした。ユキは受け損ねて、タオルが肩に落ちる。それが妙におかしくて、悔しいのに、また少し笑ってしまう。
雨音が、相変わらず天井を叩いている。でもさっきより少しだけ、やさしい音に聞こえた。




