第二十七話(★) 雨の日③
ユキはまだ構えを解いていない。頬を弾かれても、ガードは上がったままだ。
レンが、ふっと息を吐いて、構え直す。
(……ついに、ここまで来たじゃないですか)
目の前で、震えながらも立っている先輩を見て、レンは思う。いつも穏やかで、優しくて、笑っている人。
今、その人が、自分に殴られて、それでも立っている。
(もっと、見たい)
本気の顔。怖がっている顔。それでも前に出ようとする顔。レンは、グローブを少しだけ上げた。
「ユキ先輩」
「……なに」
まだ息がうまくできない。
「今の、よくできました、のやつですよ」
ヘッドギア越しに、薄く笑ってみせる。
「逃げなかったから」
リング下で、ライの歯ぎしりのような小さな音が、雨音にまぎれて消えた。
◇◇◇
レンのジャブが頬をはじいても、ユキの目は――まだ、優しかった。痛みに滲んでいるのに、どこか「気にしないで」と言いそうな、あの目のまま。
(……なんで、まだそんな顔してんすか)
胸の奥で、なにか意地悪な気持ちが、ふくれあがる。殴られても、怖くても。人のことを先に心配しそうな、あの表情。
(俺が当ててんのに)
もっと怖がってほしいわけじゃない。でも――
(優しい顔のまま、ここに立たないでくださいよ)
レンは軽くステップを踏んで、距離を半歩だけ詰めた。
「ほら」
グローブを、わざと低めに構える。顔も、ボディも、どこかが空いているように見せる。
「来てください」
誘うように、煽るように。ユキは、息を荒げながらも、一歩前に出た。
(練習通り……)
足から。前へ。肩を出して、怖さを飲み込んで――ジャブを伸ばす。その瞬間。レンの上体が、すっと沈んだ。ユキの拳が空を切る。視界から、レンの姿がいなくなる。
(え――)
と思う間もなく。衝撃が、みぞおちのあたりに入った。
「……っ!」
息が止まる。身体が、息のやり方を忘れる。
レンのボディブローは、本当に軽い。さっきのジャブよりも力を抜いている。それでも、正確な場所に、正確な角度で当てられた一発は、威力以上に効いた。
ユキの顔が、ぐしゃっとゆがむ。喉の奥で声にならない息がもれて、膝から、キャンバスに落ちた。
ドサッ、ではなく、ドサリ、と音がする。
リング下で、ライは心臓がひっくり返ったような感覚になった。
「おい、大丈――」
思わずロープをまたごうとして、その手を、リングの中から伸びた細い腕が制した。
ユキだ。片膝をついたまま、ふらふらする視界で、ライのほうに手を伸ばしている。
息がうまく続かない。それでも、無理やり言葉にする。
「はいらない……で…」
ヘッドギアの中の顔は真っ青だ。それでも、目だけははっきり開いている。怖いのに、逃げない目。
「もう、ちょっと……がんばってみたい」
声はかすれているのに、不思議と耳に残る。
「……まだ、立てます……」
ヨロヨロと、ロープに手をかけて立ち上がる。膝が笑っている。それでも、立とうとする。
ライは、ロープの上から身を乗り出しかけた。
「ユキ、もういいって――」
肩に、ふっと手が置かれる。
「ライ君」
陸さんだった。穏やかだけど、いつもより少しだけ強い指の力。
「……あの子の勇気、見てあげましょう」
ライが、ぐっと歯を食いしばる。
「でも――」
陸さんは、ライの目をまっすぐに見返した。
「続けようって決めた勇気は……あの子のものです」
リングの中では、ユキがなんとか両足で立った。まだ息は荒い。頬も、さっきより赤い。みぞおちの痛みは、ちゃんと残っている。
それでも、ガードを上げた。
(がんばってみたいって……言っちゃったし)
怖い。苦しい。でも、ここで「やっぱり無理です」と言ったら――さっき絞り出した勇気ごと、どこかに落としてしまう気がした。
レンは、その姿を見つめていた。
(……ほんと、バカですよ)
心の中で、誰に向けるでもなく悪態をつく。でも、その目の奥は、さっきよりもずっと熱かった。
「ユキ先輩」
レンは、グローブを軽く上げる。
「もうちょっとだけ、やりましょう」
優しさと、意地悪さと、どうしようもない執着が混じった声で。




