第二十六話 雨の日②
雨の音が、まだ天井を叩いていた。ヘッドギアをつけ終わったユキは、ロープをまたいでリングに上がる。足の裏に、あの少しだけ沈む感触。ライと立ったときより、心臓の音が一段階うるさい。
対角のコーナーには、レン。いつもより、ほんの少しだけ目が細くなっている。笑ってはいないけれど、怒っている顔でもない。
(ついに、ここまで来たな)
グローブをぎゅっと握りながら、レンは思う。いつも穏やかで、優しくて。「大丈夫」とか「無理しないで」と笑う先輩。痛い顔を飲み込んで、誰かのために笑うの人間。
(本気の顔、まだ途中なんだよな)
ミットのとき。腹打ちさせたとき。ライとのマスを見ていたとき。どれも悪くなかった。でも、まだ全部じゃない。そういう確信が、喉の奥に引っかかっている。
リングサイドには、陸さんと顧問、ライ。サンドバッグを叩く手を休めて、アレセンがこちらに目を向ける。
「条件、もう一回だけ確認しましょうか」
陸さんが言う。
「一ラウンド。強く当てない。怖くなったら、すぐ『やめたい』って言う。
僕か顧問が止めたら、そこで終了。いいですね?」
「はい」
ユキは、小さくうなずく。喉がからからだ。
「レン君も」
「了解です。ちゃんとマス寄りにします」
「マス寄りって言い方やめろ」
ライがぼそっと突っ込む。レンは肩をすくめて、グローブの準備をした。
リング中央に出ていく二人。ユキの耳の中で、雨音が急に遠のく。代わりに、自分の呼吸だけが近い。ヘッドギアの内側が、狭い。
「じゃ、始めますね」
陸さんが二人の間を見る。
ゴングの音が、雨音と混ざった。
◇◇◇
グローブが、軽く触れ合う。それだけで、ユキの心臓が跳ねた。触れただけなのに、戦いが始まったって身体が理解してしまう。
「……よろしく、ね」
「よろしくお願いします」
レンは、いつもの敬語で返しながら、ユキの目をのぞきこむ。ユキの目が左右に泳ぐ。視線の逃げ方が、ばれている。
「怖い? 震えてます?」
レンの声が、雨音より軽い。いたずらみたいに。それが逆に、逃げ道を削る。
「こっち、向いて」
レンが半歩だけ距離を詰める。そして、ちょん、とグローブの先でユキの顎に触れた。触れただけ。皮膚が押されただけ。なのに、熱が集まる。
「先輩の今の全部、俺に見せてください」
ユキはようやく目を上げて、構えを作る。ライとやったときより、相手が大きく感じる。実際はそんなに変わらないはずなのに、視界の“圧”が違う。
(怖い……)
「やめたい」と言えば止まる。それも分かっている。でも――言ったら、ここまで来た自分が消えてしまいそうで。
左足を、そっと前に出す。息を吸って――恐る恐る、ジャブを出した。肩と腕だけで伸びる、ぎこちないジャブ。当てたいんじゃない。来ないでほしい。そういうジャブ。
(あー)
レンは、一瞬でそれを理解した。次の瞬間には、身体が勝手に動いている。
ユキのジャブのラインから、すっと上体を外へずらす。ほんの少し、肩を滑らせる。横に一歩、重心を移動。ユキの拳が空振りで通り過ぎる。
(ごめん、先輩)
心の中で小さくつぶやいて――レンは、自分のジャブを返した。その瞬間、ユキの視界からレンの姿が消える。
「あれ……?」
と思うより先に、右側から何かが閃いた。
パスッ、と軽い音。ヘッドギアの横が、弾かれる。
「……んくっ」
レンのジャブは、はじくみたいに当たった。強くない。本気じゃない。それでも、しっかりとした「当たる」の感触だけは残す一発。
のけぞるように身体が揺れる。
視界が、一瞬だけぐらっと傾いた。キャンバスの白と、ロープと、天井のグレーが、くらっと回る。
(……あ)
殴られた、と認識するのに、一拍遅れる。
ライとやったときとは違う。「受けてくれる優しさ」じゃなくて、ちゃんと狙って当てられた感じ。
ユキは、反射で後ろ足に体重をかけた。ロープまで下がりそうになって、あわてて踏みとどまる。
「……大丈夫っすか」
レンの声が聞こえる。
ユキは、ヘッドギアの中でまばたきを繰り返した。
「だ、だいじょ……ぶ」
声がふらつく。でも、倒れてはいない。膝も、まだ抜けていない。頬のあたりが、じん、と熱い。痛みそのものよりも、ショックのほうが大きい。
(俺、いま……ちゃんと殴られた)
誰かに、合わせてもらったんじゃない。ユキを見て、動きを読んで、「ここ」と決めて入ってきた一発。
リング下から、誰かの息を呑む気配がした。見られている、という事実が、痛みより刺さる。
ライは、ロープのすぐ外で腕を組んだまま、硬い顔で見守っていた。レンの動きは分かる。あいつなりに、かなり落としている。スピードも、パワーも、たぶん本気の半分以下だ。
(それでも、あの一発は、ちゃんとだ)
避けて。ラインをずらして。カウンターの入り口だけを、きっちり見せたジャブ。ユキの首が揺れるのを見た瞬間、ライの指先に力がこもる。
(当てるなとは言ってない)
胸の奥で、どうしようもない黒い感情が暴れる。スポーツとしては、正しい。危ないラインは踏んでいない。だから、何も言えない。言っちゃいけない。ロープをつかむ手が、少しだけ震えた。




