第二十五話 雨の日①
土曜日の体育館は、雨音つきだった。バスケットゴールの裏の窓ガラスに、大きな水滴が次々とぶつかっては流れていく。
「今日はアップ長めでいきましょうか。冷えるといけないんで」
陸さんの声も、いつもより少し柔らかかった。そのとき――ガラッ、と体育館の扉が乱暴に開いた。
「……っさむ」
ふわっと冷たい空気といっしょに、雨粒を連れてきたみたいに、レンが立っていた。
頭から肩まで、びしょびしょだった。前髪からぽたぽたと水が落ちて、ジャージの色が変わっている。
「レンくん!?」
一番に反応したのは陸さんだった。
「えっ、どうしたんですか、その……」
「傘、どっかに忘れちゃって」
レンは、いつものトーンであくび交じりに言った。
「走ったら、間に合うかなって思って」
「間に合わなくていいから濡れないで来てくださいよ……!」
陸さんが、めずらしくちょっと声を上げる。慌ててタオルを取りに走ろうとしたところで、
「とりあえず、拭いとけ」
ライが先に動いた。自分のスポーツバッグから、予備のタオルを引っ張り出して、レンの頭にぽいっと乗せる。
「風邪ひくぞ。アホかお前は」
「あざっす」
レンは素直にタオルをかぶった。濡れた前髪をぐしゃぐしゃ拭きながら、肩からもぽたぽた水が落ちる。
それでも、靴だけはちゃんと上履きに履き替えているあたり、妙に律儀だった。
「上着、どうします? そのままはさすがに、ですねぇ……」
陸さんが困ったように眉を寄せたそのとき。
「俺、ジャージ予備持ってる」
ユキが、ぱっと手を挙げた。
「体育のときの、洗い替え用……。よかったら、貸そうか?」
レンの視線が、タオルの下からぴょこんと出てくる。
「マジっすか。助かります」
「ちょっと待ってて」
ユキは、ロッカールームの方へ走っていった。ロッカーを開けて、いつも畳んで入れてあるジャージを取り出す。自分用の、ふつうサイズ。特別に大きいわけでも、すごく小さいわけでもない。
(……レン、けっこう背あるけど、着れないほどじゃないよね、多分)
そんなことをぼんやり考えながら、体育館に戻る。
「これ」
「おー」レンはタオルを首にかけ直しながら、ジャージを受け取った。
「ユキ先輩の、ですか」
「う、うん。ちょっと、丈短いかもしれないけど」
「全然。ありがたいっす」
レンは、その場でジャージの上着を羽織り始めた。濡れたシャツの上から、ユキのジャージ。肩のあたりで、すこしつっぱる音がした。
「……なんか」
袖を通しながら、ぽつり。
「小さい」
その瞬間、すかさずライのツッコミが飛んだ。
「小さいとか言うな」
「いや、サイズの話で――」
「サイズの話でも言うな。ありがたく黙って着ろ」
ライは、半分本気、半分あきれ顔で眉をひそめた。
レンは肩をすくめて、ファスナーを上まで上げる。少しだけ袖が短い。手首がのぞいている。裾も、腰骨のあたりで止まっていて、いつものレンのジャージより気持ちタイトだ。
(……似合ってる、って言うと、なんか変かな)
ユキは、目のやり場に困りながらも、ついじっと見てしまう。自分の名前が小さく刺繍されたジャージ。胸のあたりに書かれた「AOTO」の文字が、レンの身体の上で、少しだけ引き伸ばされている。
(レンが、俺の……)
ぼんやりした実感が、じわじわ広がる。
「お、あったかいっすね」
レンは、袖をぐっと引っ張って見せた。
「ユキ先輩のジャージ、結構いいっすね」
「学校のやつ。ふつうのだよ」
「ふつうのがいいんすよ。安心する感じ」
にやりと笑いながら、レンは首元を少しつまんで、くん、と匂いを確かめるみたいな仕草をした。
「ちょ、やめてよ、そういうの……」
ユキは慌てて視線をそらす。
(なんか、恥ずかしい……)
ライが、横で小さくため息をついた。
「レン。ユキのジャージ、雑に扱ったらマジで怒るからな」
「分かってますよ。大事にします」
そんなやりとりを聞きながら、陸さんはふふっと笑っていた。
「じゃあ、今日は室内メニューですね。濡れたまま外出したら、さすがに僕でも怒ります」
「了解です」
レンは、タオルで最後にもう一度髪をがしがし拭いてから、サンドバッグの前を見た。今は、ぽっかり空いている。
「ユキ先輩、アップは終わってるんすか」
「あ、うん。次はサンドバッグって言われてて」
「じゃ、俺、見ましょうか?」
レンがごく自然に言う。
「俺、中でちゃんと働いとかないと怒られそうですし」
「怒らないですよ」
陸さんが笑いながら口を挟む。
「でも、一緒にやるのは賛成です。ユキ君、さっきのワンツー、レン君にもう一回見せてあげてくださいね」
「……はい」
ユキは頷いて、サンドバッグの前に立った。あの「よく、できました」の感覚がよみがえる。指先が、じんと熱くなった。ライが、少し離れたところからそれを見ている。アレセンも、リングの近くで視線だけで追っている。
雨音が、さっきより強くなった気がした。ユキは、ぐっと拳を握った。
(レン、遅れても来て)
(びしょ濡れで、平気な顔して)
(俺のジャージ、ふつうに着て)
サンドバッグの前に立ちながら、自分の胸の内のざわざわを、ひとつひとつ数える。雨の匂いと、汗の匂いと、レンのジャージから柔軟剤の匂いが混じる。
(――今日だ)
突然、そう思った。自分でも驚くくらい、はっきりと。
(今日だったら、レンとやってみてもいいかも)
怖さは、まだある。でも、その怖さの上に、別のものが少しずつ積み重なっていた。ライと見た景色。レンの腹に当てた拳。二人で走ったランニング。今日の、びしょ濡れで笑っている顔。
ぜんぶ合わせて、「やってみたい」に、やっとちょっとだけ届いた。ユキは、サンドバッグを見つめたまま、小さく息を吸った。
「……陸さん」
「はい?」
リングサイドでノートを持っていた陸さんが、顔を上げる。
「あとで……」
ユキは、ちらっと隣のレンを見た。レンは、何も言わずに、ただじっと見ている。
「レンと、スパー……やってみたいです」
自分でも驚くくらい、声は震えていなかった。陸さんはすぐに頷かず、少しだけ首をかしげる。
「“マス”じゃなくて、“スパー”でいいんですね」
「……はい」
喉がからからになる。それでも、ユキは目をそらさなかった。
「一ラウンドだけ。強く当てない。怖くなったらすぐ『やめたい』って言う。僕か顧問が近くで見ていて、どっちかが止めたら即終了」
条件をひとつずつ並べていってから、陸さんはもう一度聞く。
「それでも、やってみたいですか」
「……はい」
今度の返事は、さっきより少しだけ大きかった。ライの胸がきゅっと鳴り、レンの目の奥で、静かに何かが灯る。
「じゃあ、ライ君」
「……分かってます」
ライは固い表情でうなずいた。
「無理なしと、壊さないは、俺が保証します」




