第二十三話(★) レンのシャドー①
夕方の体育館。いつものように、ロープとサンドバッグの音が混じった空気のなかで、ライとレンは並んで鏡に向かっていた。
レンのシャドーは、今日もやたらキレがいい。
ステップイン、ワンツー、右のショートフック。そのすべてに、見えない誰かの影を殴りつけているみたいな、妙な熱がある。
「……レン、調子いいな」
隣のライがぼそっと言う。
レンは息を整えつつ、ぽろっと本音を落とした。
「そりゃまあ……」
構えたまま、ちょっとだけ視線をそらす。
「シャドーのなかで毎日、ライ先輩ボコボコですよ」
さらっと、とんでもないことを口にした。ふたたび、虚空に向かってパンチを繰り出す。
ライの眉がぴくっと動く。
横で水を飲んでいたユキは、盛大にむせた。
「げほっ……レン、それ、本人の前でさらっと言う?先輩だよ、ライは」
「リングの中で先輩も後輩もないんで。
いつもライ先輩と試合してる前提でやってるんで。シャドー」
悪びれずに言うレン。ほんの少しだけ、得意げですらある。ライは隣で長く息を吐いた。
「……お前さ、そろそろ現実、見よっか」
ライが顎でリングをしゃくる。笑顔だが目は笑っていない。
「リング上がって。最新版の俺、ダウンロードさせてやる」
その声に、レンの目が一気に輝いた。
「――えっ、いいんすか。やりますやります」
食い気味に返事して、グローブをはめてリングにひらりと飛び乗る。
ユキは苦笑して、その背中を見上げた。
「……ライ、今のは自分で火をつけちゃったんじゃない?」
「いいよ。たまには見せとかなきゃだろ、現実」
そう言いながら、ライもロープをくぐる。
その横顔には、半分あきれたような、半分楽しそうな色が混ざっていた。
◇◇◇
ユキの目線の先で、ゴングが鳴る。
ライが軽くステップを踏む。レンはすでに、さっきのシャドーの続きをやる気まんまんだった。
体育館の空気が、ふっと熱を帯びた。
「……俺たち、完全に蚊帳の外ですねえ」
ユキがぽつりとつぶやく。
隣でアレセンはあっさり肯定した。
「あれ、ライの先輩業だから。やって分からせるやつ。俺らは見物」
ライはジャブを突きながら、レンの出足を測っていた。
「軽くだからな」
「了解っす」
口ではそう言いながら、最初の一発から全力に近いレンのジャブが飛んでくる。
「……お前の軽く、ほんと信用ならねぇんだよな」
ぼやきつつ、そのジャブをスウェーでかわし、カウンター気味にワンツー。
レンはきっちりガードしているが、一発一発に、追いつきたい気持ちが乗っている。
足も速い。さっきまでのシャドーでイメトレしていた動きが、そのままライ目がけて突っ込んでくる。
(はいはい、いつものやつ)
ライは半歩下がりながら、レンの左右フックをブロックしていく。
ドスッ、パシッ。
「距離、詰めすぎ。熱くなりすぎ」
「そんなことないっす」
「声が息上がってんだよ」
軽口を叩きつつも、拳は本気同士だ。
ユキはだんだん笑えなくなってくる。
「一応、軽くって聞こえたけど……」
顧問は一番そわそわしていた。
今日は、土曜コーチの陸さん不在。大人で2人を止められるのは、自分しかいないというプレッシャーが、じわじわ背中に乗っかってくる。
ライの右ストレートが、レンのヘッドギアをはじく。
「っ……!」
足が一瞬、流れかける。レンはすぐに踏ん張って、左ボディを打ち返した。
顧問の額にうっすら汗が浮かぶ。
(これ、止めたほうが……いやでも、北条なら加減は……でも雨宮は加減しない……)
頭の中で「止める」「様子を見る」が何度も入れ替わる。
リングの上の二人には、迷いなど一切なかった。
「どうした、シャドーんときほど当たんねぇぞ」
「……実物のほうが強いからですよ」
レンの目は、完全に獲物を追う顔になっている。
それでも、ライの動きには、ほんの少しだけ後輩を守る意識が混ざっていた。
ジャブを見せておいて、レンのガードを少し上げさせる。
そこにボディ。腹にめり込む鈍い音に、リング下から小さなどよめきが起こる。
「うっ……!」
「吐くなよ。マット汚れるから」
「吐かないっすよ」
言い返しながら、レンは苦笑いのような顔で前に出る。
そこに、もう一度、ライの右がかぶさる――。
「ちょ、ちょっと待て!」
顧問が、見ていられなくなって立ち上がった。
リングに近づきながら、声のトーンが裏返る。
「お前ら、ライトだよな!? ライトスパーだよな!?
北条、少し抑えろ、雨宮も――」
その瞬間。
「はいはいストップ」
低い声が、顧問の声をあっさり踏みつぶした。
アレセンが、ロープをくぐってリングに入る。
「いきなり入るな。危ないだろ!」
顧問が慌てて叫ぶより早く、アレセンは二人の間にズカズカ割り込む。レンの肩に片手、ライの肩に片手。
「そこで止まれ、両方。解散」
ぐい、とそれぞれを逆方向に押し分けた。
「まだっす! 俺、全然いけます!」
「雨宮」
アレセンの声が、すこしだけ低くなる。
「『まだいける』は、俺たちが言うセリフ。
言われる側がお前。分かった?」
レンは、ぐっと口をつぐんだ。汗で濡れた前髪が、額に張りついている。
ライも、少しだけ息を荒げながら、アレセンの手を見た。
「……すみません。ちょっと熱くなりすぎました」
「お前もな。ライ」
アレセンはライのヘッドギアを軽く小突く。
「生徒会も忙しいんだろ。リングもフルパワーとか、体力配分下手かよ」
「否定できないですね……」
ライが苦笑する。ロープの外で固まっていた顧問は、ほっと肩の力を抜いた。ユキが申し訳なさそうに近づいてくる。
「すみません、あの二人、熱くなると止まらないので……」
「いや……まぁ……」
顧問は曖昧に笑って、タオルを持ったユキのほうを見る。
「青戸、その……ちゃんと冷やしてやっといてくれ」
「はい。任せてください」
ユキは、ライとレンを順番に見て、ぽつりとこぼした。
「やっぱり、俺たち、さっき言った通り蚊帳の外ですねえ」
「おう」
アレセンがリングから降りながら、肩越しに笑う。
「まぁ、あいつらなりのコミュニケーションなんだろ、あれも」
リングの上では、ライとレンが、まだ何か言い合っている。
「先輩、次は倒しますから」
「そのセリフ、あと百回くらい聞けるな」
現実のリングの中で、シャドーの中で毎日殴られている“ライ先輩”が、笑いながらそこに立っていた。




