第二十二話 気持ちの距離②
道の端で、ユキはほぼ歩きに近いペースで前に進んでいた。胸は苦しいし、足は重いし、息はぜいぜい言うし――
(……まだ、半周ある)
心が折れかけた、そのとき。
「ユキ先輩ー」
前からではなく、後ろから声がした。振り向くと、レンがゆるいフォームで近づいてくる。本気のランじゃなく、あきらかにユキに合わせる走りだ。
「……レン?」
「周回遅れ、お迎えに来ました」
軽口のトーン。でも、その呼吸はぜんぜん乱れていない。
「自分のペースでいいって、陸さん言ってたじゃないですか」
「う、うん……」
「だから、俺もユキ先輩のペースで走ります」
レンは、隣に並んだ。同じ速度。同じへばりそうな歩幅に、あえて自分を合わせる。
「……ごめんね、足引っ張って」
思わず出たユキの言葉に、レンは首を振った。
「別に。ユキ先輩と走るの、けっこう好きなんで」
さらっと言う。胸の苦しさと、別の種類の苦しさが一緒に押し寄せて、ユキは返事に迷った。遠く、校門のあたりで、ライがこっちを見ているのには、まだ気づいていない。
アスファルトを踏む足音が、二つだけ。午後の光の中で、距離だけは、少しずつ縮まっていく。
はぁ、はぁ、と自分の息がやかましい。隣で走るレンの呼吸は、やっぱりそこまで乱れていない。
「……ごめん、ほんとに、ゆっくりで」
「だから、いいって言ってるじゃないですか」
レンは前を向いたまま、淡々と答える。
「部活なんで。こういう日もあるっすよ」
「こういう日、ばっかりなんだけどなぁ……」
弱音がこぼれて、自分で苦笑する。そのたびに脇腹がキリッと痛む。
少しだけ沈黙が続いたあと、レンがぽつっと口を開いた。
「ね、先輩。この前の話、覚えてます?」
「この前……?」
ユキは、走りながら記憶をたどる。縄跳び、ジャブ、レンの腹、翌朝の校門、マススパー……胸の中にひっかかっている出来事はたくさんある。
その中ですぐに浮かんだのは、顎を軽くつかまれたときの感覚だった。
「……次は俺とスパーってやつ?」
「そうそう」
レンは、口元だけで笑う。横目でユキの反応を窺いながら、ペースをほんの少しだけ落とした。
「覚えててくれてよかったっす」
忘れようとしても、忘れられなかった。リングの上で座り込んだあと、「次は俺と」って言われたの、ちゃんと覚えている。
「まだ、怖いですか」
「……うん」
素直に答える。息が上がっているせいで、嘘をつく余裕もない。
「ライとでも怖かったのに……レンとなんて、もっと、っていうか」
「ひどくないっすか、それ」
言い方は軽いけれど、声の温度は少しだけ真面目だ。
「まあ、分かりますよ。俺、ちょっと怖い寄りなの自覚してるんで」
「……自覚、あるんだ」
「ありますよ」
レンは、あっさり認めた。
「でも、練習、ちゃんと付いてきてるじゃないですか。ロープもシャドーも、ランニングも」
「ちゃんとってほどでも……」
「がんばってますよ、ユキ先輩」
かぶせ気味に言われて、ユキは口をつぐむ。レンは、少しだけ前を走って、すぐまた横に戻ってくる。
「だから、絶対無理って感じじゃないかな、って」
「……ちょっと無理くらいには、なったかも」
「距離、縮まってるじゃないっすか」
さらっと言いながら、レンは指で前方の校門を指した。まだ遠い。でも、さっきよりは近い。
「約束、別に今日とか明日とかじゃなくていいんで。俺とやってもいいかなって思った日でいいですよ」
レンは、そこでまた、ちらっとだけユキを見る。
「そのかわり、逃げられると思わないでくださいね」
「え?」
「やってもいいかなって顔したら、すぐ拾いに行くんで」
薄く笑いながら、言葉だけはきっぱりと。ユキは、はは、と乾いた笑いを漏らした。
「……レン、さ」
「はい」
「なんでそんなに、俺とスパーしたいの? 俺、弱いよ。
泣いちゃうかも……恥ずかしいけど」
自分で聞いておいて、心臓が少し速くなる。怖いのもあるし、知りたい気持ちもある。
レンは、ほんの一瞬だけ黙った。足音だけが続く。風が、汗ばんだ肌をかすめる。
「さぁ? 勝ち負けじゃないんで。いいっすよ」
やっと出た言葉は、いつもの「別に」と同じくらい、曖昧だった。
「怒ったり、悔しがったり、痛い顔も……ぜんぶ、俺に見せてください。泣いてもいいんで」
ユキは戸惑って尋ねる。
「笑顔とか、優しさとか…じゃなくて?」
「逆っすね。みんなが好きな先輩の表のやつの裏、まだ途中だと思うんで」
「途中……?」
「ミットのときと、この前のボディのときと、マスのときと」
ひとつひとつ、指を折るように並べていく。
「まだ、全部じゃないなって感じするんですよ」
「全部って……顔、そんなにないよ」
「ありますよ」
レンは、少しだけ笑って、前を向いた。
「俺が見たいだけなんで、気にしないで走ってください」
「気になるよ……」
思わず返すと、レンは「ですよね」と、楽しそうに言った。
遠くの校門のところで、黒いシャツの誰かが手を振っている。たぶんライだ。こっちを見て、じっと待っている。
ユキは、ぜいぜい言いながらも、少しだけ足を前に出した。
隣を走るレンの「予約」が、ちゃんと胸のどこかに刺さったまま。




