第二十話(★) 陸さんvs部長
ライは、柔らかい眼差しをユキに向けている。
「……がんばったな」
声をかけると、ユキは照れたみたいに視線を落とした。
「う、うん……なんか、まだ足がふわふわする」
「ふわふわで済んでるなら十分」
リングサイドでは、陸さんがにっこり笑う。土曜コーチの、ふわっとした笑い方。そこにいるだけで体育館の空気が少し軽くなるみたいな。
その平和なひと時に――サンドバッグの前から、部長のアレセンが一歩踏み出す。
「陸さん」
低い声。短い呼びかけ。陸さんが振り向くと、アレセンは淡々と続ける。
「今から、スパーお願いしてもいいですか」
「……え、陸さん、と?」ユキが思わず声を漏らす。ライも、レンも、同時に顔を上げた。
アレセンはグローブを打ち鳴らす。パン、と乾いた音が体育館に響く。
「こいつらに、スパーの音、聞かせてやりたいんで」
ぶっきらぼうな言い方。見せるじゃなく、聞かせる。そこに、部長なりの考えが混じっている。
陸さんは、一拍置いてうなずく。
「いいですよ。アレセン君。……でも、顔は弱めでお願いしてもいいですか?月曜、会議なので」
そう言って、困ったように笑いながら、いつも羽織っているゆるいパーカーのファスナーをそっと下ろした。
パーカーの下から、黒いTシャツ、引き締まった体躯があらわになる。
肩、背中、腹。土曜コーチの輪郭が、別の人間に置き換わる感じ。
スポーツバックの中からグローブとマウスピースケースを取り出し、顧問に「タイマーお願いします」と声をかける。
リング下で、体育座りのユキが目を丸くする。
「……陸さん、すご……」
レンは眠そうに目を細めて、ぼそっと言う。
「まぁ、身体は部長に負けてねぇな。でも陸さん……遠くからチマチマ当ててきそう」
想像しただけであくびが出る。ふわぁと大きく口を開けかけたレンに、ライはリングから目を離さないまま、低い声で返す。
「レン、初めてか。陸さんはああ見えて――」
そこまで言った瞬間。
――ドゴッ。
音が、体育館の空気を震わせる。
ついさっきまでのマススパーの「パシッ」とは違う。もっと低くて鈍い、重さが伝わる音だった。
ユキの背筋がびくっと跳ねる。レンがあくびを止める。ライは、息を吸うのを忘れたみたいにリングを見た。
陸さんは、リング下の三人を、ほんの一瞬だけ見た。
(怖かったら目を伏せていいんですよ)
言葉にはしないけれど、そういう目。次の瞬間にはもう、視線はアレセンに戻っている。
ライが、ようやく続きを言う。
「ああ見えて、ゴリゴリのインファイター。距離潰して殴るスタイル」
アレセンの懐に陸さんが入る。距離が詰まる。肩がぶつかる。胸が押し合う。重いパンチの応酬。音が明らかに違う。
耳で聞くというより、床を通って足の裏に響く、ミドル級の音だった。
ドゴッ。
ズン。
バン、とロープがわずかに鳴る。
リング下の三人は体育座りのまま、背すじが少しずつ伸びていく。怖い。でも目を逸らせない。
陸さんはマウスピースを噛み締め、息の間だけで言葉を絞り出す。
「……ナイスです、アレセン君」
アレセンはすぐに返す。息が上がっていないわけじゃない。でも声は強い。
「褒める余裕、あります?」
言い終わる前に、また拳が交差する。陸さんの腹に。アレセンの肩に。お互いの骨格を確かめ合うみたいに重い音が続く。
その中で、一瞬だけ。
アレセンの足が、ほんの少しだけ流れた。よろめく、とまではいかない。でも、芯がずれたのが分かる。
次の瞬間、陸さんの腕が入った。
止めるんじゃない。支えるみたいに。優しく、倒れない位置に戻す。アレセンの背中に腕をまわしてポンポンと叩く。陸さんは息を整えて、いつもの声で言った。
「……はい。おしまいにしましょうか」
まるで授業のチャイムみたいに。アレセンは悔しそうに笑って、拳を下ろした。
陸さんもようやく腕をほどいて、ふう、と短く息を吐く。
「やっぱり現役の相手は、荷が重いです」
「何言ってんすか。相変わらずパンチ重いっす」
アレセンが、年相応の青年の顔で笑った。
リング下では、ライとユキが尊敬のまなざしのまま拍手をする。パチ、パチ、と控えめな音が体育館に響く。
顧問が、リングサイドへ近づいてくる。
「……陸さん、おつかれ。アイツの相手は骨が折れるだろ。すまん」
陸さんは、マウスピースを外して、いつものふわっとした笑い方に戻る。
「いえいえ」
そして、さらっと言う。
「身体張るのは、まかせてくださいね」
レンは体育座りのまま、ぼそっと呟いた。
「怪獣達のど突き合い……っすね」
ぼやくような声に、ユキは笑いそうになって――ドゴッ、という音が蘇って、喉の奥がひゅっと締まる。ここはやっぱりボクシング部だと思い出す。やさしい空気のまま、でも背すじだけが、ピンと伸びた。




