第二話(★) 不敵な後輩②
ミット打ちが終わると、体育館の空気が少しだけゆるむ。遠くでボールの弾む音、誰かの声。音の密度がほどけて、ユキはようやく自分の呼吸がどこか浅かったことに気づいた。
ユキは体育館の隅に座り、グローブの表面をタオルで拭いた。丁寧に、いつも通りの作業。ここにいる理由を確かめるみたいに。
足元に影が落ちる。顔を上げると、雨宮レンが水を飲んでいた。ペットボトルを傾ける喉が細く動いて、息が一拍遅れて整う。
「……雨宮君、慣れた?」とユキは聞いた。何に、とは言わなかった。部活に、ミットに、先輩に、空気に。
レンはボトルを下ろして、「まあ……そうっすね」と言った。その声はいつも通り平らで、すこしだけ気怠い。
ユキはグローブを拭く手を止めずに、「ならよかった」と笑いかける。さっきのことなど無かったかのように。
そのとき、レンがふいに言った。
「皆、ユキ先輩のこと、優しいって言いますよね」
ユキの手が、一瞬だけ止まる。優しい。図書室でも言われたばかりの言葉だ。褒め言葉の形をしているのに、ユキには時々、首にかかる輪みたいに感じる。
「さんざん聞きましたよ。癒し系。王子の姫。図書室の天使。儚げ、守ってあげたくなる、とか」
指を折って数え上げながら、レンは言った。笑っているわけじゃないのに、目だけが少し楽しそうに見える。
ユキは「そうなの?」と軽く返そうとして、言葉が喉に引っかかった。
レンが一歩近づく。近い、と思った瞬間にはもう、距離が埋まっていた。
「でもさ」
レンの声が、すこしだけ低くなった。耳元に落ちる言葉。体育館の騒がしさが、急に遠くなる。
「……臆病なだけじゃないですか?」
ユキはぎょっとして、グローブを拭く手に力が入る。
「ちょ、……何それ。俺は……」
否定しようとして、うまく言葉が出ない。臆病、という単語が、触れてほしくない場所を正確に叩いてくる。
ユキはようやく息を吸って、「俺は……みんなを応援したいだけで……」と言った。声が、いつもより薄い。自分でも頼りなく聞こえる。
レンは少し首をかしげた。表情は動かないのに、納得していないことがはっきり伝わる。
「応援、って」
レンの視線が、ユキの手元――グローブを拭く指先に落ちる。丁寧に整えようとする指。傷む前に、壊れる前に、手当てをする指。
「それ、外から見てるだけの応援っすよね」
ユキの胸が、きゅっと縮む。反論したいのに、図星の痛みが先に来る。
「……俺、役に立ててるし」
言いながら、ユキは自分で分かる。“役に立ててる”は、逃げ道かもしれない。きれいに見せる言い方。
レンは、息を吐くでもなく、ただ淡々と言った。
「じゃあ、確かめましょうよ」
ユキは目を上げた。レンの目の奥が、静かに光っている。優しさなのか、残酷さなのか、判別できない種類の光。
「リングに上がりましょうよ。俺が、確かめてあげる」
その言葉の最後が、妙に丁寧で、ユキは背中が冷えた。確かめるって、何を。臆病かどうか? 優しいかどうか? それとも――自分が、壊れるかどうか?
ユキは、笑って流そうとした。いつもならできる。軽く、やんわり、その場を濁して終わらせる。でも喉が動かない。代わりに、タオルを握ったまま、ユキは小さく言った。
「……それ、練習のときの言い方じゃない」
レンは「そうっすか」とだけ返した。否定も、訂正もしない。そして一歩も離れない。ユキの境界線が薄いことを、最初から知っているみたいに。
体育館のどこかで、縄跳びの音が途切れた。ほんの短い沈黙。その沈黙の中で、ユキは気づいてしまう。怖いのに、胸の奥のどこかが、言葉にできない引力で引っ張られている。
ユキは、グローブの表面をもう一度だけ拭いた。まるで最後の確認みたいに。




