表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/25

第十九話 レンの予約

 リングを降りても、ユキの足はまだ少し震えていた。マウスピースをはずして、顧問からペットボトルを受け取る。一口飲んだだけで、喉がびっくりしてむせそうになる。


「ゆっくり飲めよ」


 ライが苦笑しながら背中を軽くさする。それだけで、さっきまでのキャンバスの感触が、少し遠くなる。

 ユキは、もう一口だけ水を飲んで、呼吸を落ち着かせた。ふぅ、と息を吐いたところで。


「王子様に守られてボクシング、よかったっすね」


 横から、平らな声が降ってきた。

 顔を上げると、レンがそこにいた。いつの間にかすぐ近くまで来て、ユキの前に立っている。


「お、おつかれ……」


 とりあえずそう言うと、レンは口の端だけで笑った。


「お疲れさまです、ユキ先輩」


 わざとらしく、陸さんの真似みたいな敬語で言う。


「王子様に守られてマスデビューって、なかなか贅沢(ぜいたく)っすよね。痛くなったらすぐ止めますって保証つきで」

「……そういう言い方しないでよ」


 ユキは苦笑しながら、タオルで汗をぬぐう。図星だからこそ、ちょっとだけ刺さる。レンは、その様子をじっと見ていた。


「でも、ちゃんと前出てたっすね」

「そう……?」

「ジャブ。さっきの。撫でてるだけからは、卒業したかなって」


 さらっと褒められて、ユキは一瞬きょとんとした。


(……レンに、褒められた)


 あの日、何度も何度も「はい、もう一回」とやり直しさせられたのを思い出す。本気の顔を見せろ、と言われたことも。

 胸の奥が、じわっと熱くなる。


「ありがと……レンが、練習してくれたから」


 正直に言うと、レンは一瞬だけ視線をそらした。


「まあ」


 そっけない返事。でも、その耳のあたりが少しだけ赤い。すぐに、いつもの薄い笑みに戻る。


「じゃ、次は俺とスパーしましょ」

「レンと?」


 あまりにも自然に言われて、ユキの声が裏返る。


「今の、王子様バージョンだったんで」


 レンは、軽く首をかしげる。


「次は、俺バージョンで」

「ま、待って、ちょっと……」


 腰が引ける。ライでもあんなに怖かったのに、レン相手なんて想像しただけで心臓が跳ねる。


「俺、まだ……」

「まだは、分かってますよ」


 レンは一歩近づいた。距離が詰まる。汗のにおいと、レンの体温が混じる。


「でも、いつかは、こっちにも来てもらうんで」


 そう言って、ユキの顎にそっと手をかけた。指先で、軽く持ち上げる。痛いほどじゃないのに、逃げられない角度。


「ちょ……レン?」

「この前のお返し、してないんで」


 ユキの目を覗き込んで薄く笑う。


「俺だけ、リングの上の顔、見せてもらってないの不公平じゃないっすか」


 自分の前で、殴れずに泣きそうになっていた顔。やっとよくできました、を出せた顔。全部、自分だけが近くで見てきた。


「ライ先輩にも、ちょっとは見せたほうがいいかもしれませんけど」


 ちらりと視線を横に流す。ライがこっちを見ているのがわかる。


「俺の分も、ちゃんと返してもらわないと」


 ユキは、顎を支えられたまま、言葉を失っていた。胸の鼓動(こどう)が早いのは、さっきまでのマスのせいだけじゃない。


「……いつか、な」


 さすがに見かねたのか、ライが口を挟む。


「今日は終わり。無理はなしって約束だからな」


 レンは、肩をすくめて手を離した。


「はいはい。今日は予約ってことで」


 顎から落ちた手が、最後にそっとユキの頬の横をかすめる。


「ユキ先輩の次、楽しみにしてますよ」


 そう言い残して、レンはサンドバッグのほうへ歩いていった。ユキは、その背中を見送りながら、水のボトルをぎゅっと握りしめる。


「……ライ」

「うん」

「俺、やっぱり、向いてないかも」


 思わず本音が漏れると、ライは少しだけ笑って、


「向いてないやつが、リング上がって座り込むまで頑張れるかよ」


 と、いつもの調子で返した。その声に、さっきまでの怖さと、レンに顎を取られたときのざわつきが、少しだけ丸くなって胸の中に落ち着いていく。

 小さいけれど決定的なスイッチが、静かに入っていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ