第十九話 レンの予約
リングを降りても、ユキの足はまだ少し震えていた。マウスピースをはずして、顧問からペットボトルを受け取る。一口飲んだだけで、喉がびっくりしてむせそうになる。
「ゆっくり飲めよ」
ライが苦笑しながら背中を軽くさする。それだけで、さっきまでのキャンバスの感触が、少し遠くなる。
ユキは、もう一口だけ水を飲んで、呼吸を落ち着かせた。ふぅ、と息を吐いたところで。
「王子様に守られてボクシング、よかったっすね」
横から、平らな声が降ってきた。
顔を上げると、レンがそこにいた。いつの間にかすぐ近くまで来て、ユキの前に立っている。
「お、おつかれ……」
とりあえずそう言うと、レンは口の端だけで笑った。
「お疲れさまです、ユキ先輩」
わざとらしく、陸さんの真似みたいな敬語で言う。
「王子様に守られてマスデビューって、なかなか贅沢っすよね。痛くなったらすぐ止めますって保証つきで」
「……そういう言い方しないでよ」
ユキは苦笑しながら、タオルで汗をぬぐう。図星だからこそ、ちょっとだけ刺さる。レンは、その様子をじっと見ていた。
「でも、ちゃんと前出てたっすね」
「そう……?」
「ジャブ。さっきの。撫でてるだけからは、卒業したかなって」
さらっと褒められて、ユキは一瞬きょとんとした。
(……レンに、褒められた)
あの日、何度も何度も「はい、もう一回」とやり直しさせられたのを思い出す。本気の顔を見せろ、と言われたことも。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「ありがと……レンが、練習してくれたから」
正直に言うと、レンは一瞬だけ視線をそらした。
「まあ」
そっけない返事。でも、その耳のあたりが少しだけ赤い。すぐに、いつもの薄い笑みに戻る。
「じゃ、次は俺とスパーしましょ」
「レンと?」
あまりにも自然に言われて、ユキの声が裏返る。
「今の、王子様バージョンだったんで」
レンは、軽く首をかしげる。
「次は、俺バージョンで」
「ま、待って、ちょっと……」
腰が引ける。ライでもあんなに怖かったのに、レン相手なんて想像しただけで心臓が跳ねる。
「俺、まだ……」
「まだは、分かってますよ」
レンは一歩近づいた。距離が詰まる。汗のにおいと、レンの体温が混じる。
「でも、いつかは、こっちにも来てもらうんで」
そう言って、ユキの顎にそっと手をかけた。指先で、軽く持ち上げる。痛いほどじゃないのに、逃げられない角度。
「ちょ……レン?」
「この前のお返し、してないんで」
ユキの目を覗き込んで薄く笑う。
「俺だけ、リングの上の顔、見せてもらってないの不公平じゃないっすか」
自分の前で、殴れずに泣きそうになっていた顔。やっとよくできました、を出せた顔。全部、自分だけが近くで見てきた。
「ライ先輩にも、ちょっとは見せたほうがいいかもしれませんけど」
ちらりと視線を横に流す。ライがこっちを見ているのがわかる。
「俺の分も、ちゃんと返してもらわないと」
ユキは、顎を支えられたまま、言葉を失っていた。胸の鼓動が早いのは、さっきまでのマスのせいだけじゃない。
「……いつか、な」
さすがに見かねたのか、ライが口を挟む。
「今日は終わり。無理はなしって約束だからな」
レンは、肩をすくめて手を離した。
「はいはい。今日は予約ってことで」
顎から落ちた手が、最後にそっとユキの頬の横をかすめる。
「ユキ先輩の次、楽しみにしてますよ」
そう言い残して、レンはサンドバッグのほうへ歩いていった。ユキは、その背中を見送りながら、水のボトルをぎゅっと握りしめる。
「……ライ」
「うん」
「俺、やっぱり、向いてないかも」
思わず本音が漏れると、ライは少しだけ笑って、
「向いてないやつが、リング上がって座り込むまで頑張れるかよ」
と、いつもの調子で返した。その声に、さっきまでの怖さと、レンに顎を取られたときのざわつきが、少しだけ丸くなって胸の中に落ち着いていく。
小さいけれど決定的なスイッチが、静かに入っていく。




