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第十八話 はじめてはライと③

 レンは、リング下の影に立っていた。誰にも気づかれない位置で、ペットボトルを片手に。


 ユキがジャブを出す。

 ライが受ける。

 また出す。

 また受ける。


(マススパー、っすよね)


 分かっている。強く当てない。怖くなったら止める。見ていれば分かる、優しいスパーリング。それでも。


(初めては、ライ先輩なんだ)


 ユキが、リングの中で誰かに向かって拳を出すのは、自分じゃなくて、あの幼なじみだ。胸の奥が、じわじわと熱くなる。怒りとも違う。悔しさとも違う。名前のつけづらい、重い感覚。

 ライの「当ててもいいよ」という声が聞こえる。副会長らしい。優しくて、真面目で、ちゃんと怖さを抱えたまま前に出させる言い方。


(……ずる)


 そこまでしてやるのか、と思う。守ってきたのに、自分で殴らせて、景色まで分けてやるのか、とも思う。

 ユキが、ふらつきながらも、もう一度踏み込む。


 ――パスッ。


 さっきより、いい音。ちゃんと、体ごとの音。ライの身体が、ほんの少しだけ後ろに揺れる。ユキの顔が、びくっとして、すぐに青ざめる。


「ご、ごめん!」


 あわてて頭を下げかけたところを、ライがすぐに止めた。


「謝んな。今のは、ナイスのやつだろ」


 そう言って、ほんの一瞬だけ笑う顔が、やっぱりどこか痛そうで。レンは、きゅっと拳を握りしめた。


(ユキ先輩の初めて、よかったっすね)


 心の中だけで、誰に向けるでもなく呟く。


(次は、俺がもらいますから)


 ロープの向こうで揺れる二人を見ながら、そんなことを、まだちゃんと自覚できないまま、思っていた。


 ユキのジャブが、もう一発だけライのグローブに触れたところで――


「ストップ」


 リングサイドから、陸さんの声が飛んだ。


「はい、そこまで。今日はここまでにしましょう」


 顧問も、慌てて「お、おう、ストップ!」と手を上げる。

 ユキは、そこで糸が切れたみたいに力が抜けた。


「……っ」


 足がふらっとして、そのままキャンバスに、へにゃっと座り込む。お尻から落ちる形で、ロープにもたれかかる。


「腕……重い……」


 肩で息をしながら、か細い声が漏れた。拳を握っていた両腕が、鉛みたいに感じる。ジャブしか出していないはずなのに、肩から先が全部、自分のものじゃないみたいだ。ライは、構えを解いてすぐにユキのそばにしゃがみ込んだ。


「上出来」


 短く言う。


「はじめはそんなもん。ワンラウンド丸々なんて、いきなりもたなくていいんだよ」


 そう言いながら、ユキのガードの位置をポンポンと軽く叩く。「ちゃんと上がってたろ」と、そこも褒めてやるみたいに。

 リングサイドでは、陸さんがうんうんと頷いていた。


「そうですねぇ。座り込むまで前に出られたっていうのは、かなり上出来だと思いますよ」


 顧問も「お、おう、そうだな。青戸、よくがんばった」と便乗するけれど、ちょっと目が潤んでいるのを、ライは見逃さなかった。


「ユキ、大丈夫か」

「だいじょ……ぶ、では、ない……かも……」


 正直でよろしい、と陸さんが笑う。


「じゃあ、降りましょうか。無理しないっていう約束、ちゃんと守ってくれて嬉しいです」


 そう言われて、ユキはやっと少し笑った。ライは、ユキのヘッドギアに手を伸ばした。


「動くなよ」


 バックルに指をかけて、慎重に外していく。顎のベルトのところが少し食い込んでいて、ライは指先でそっと肌との隙間を作った。


「痛くない?」

「うん、楽になった……」


 息が上がっているせいで、声がひゅーひゅーしている。それでも、ユキは頬をゆるませた。カチン、とバックルが外れる音。ライは、そっとヘッドギアを持ち上げた。汗でぺたっとなった前髪が、額に貼りつく。


「ほら。お疲れさん」


 ライの手が、いつもの癖でその前髪をかき上げようとして――途中で止まる。


(リングの上だから、ってのも、なんか変か)


 少しだけ迷ってから、結局そっと撫でるだけにした。額をぬぐう仕草にすり替えるみたいに。ユキは、目を細める。


(ライの手だ)


 子どもの頃から知っている手。怪我した場所を確認するときの触り方。「痛いだろ」って言いながら、絶対に限界を越えさせない手。


「……ありがと」


 小さな声で言うと、ライは「どういたしまして」と笑った。その笑顔の奥に、さっきまでの辛そうな影が、まだ少しだけ残っているのをユキは知らない。

 

 リングの外では、レンがその様子を見ていた。「初めてのマス」を終えたユキの顔も、それを見届けてヘッドギアを外してやるライの横顔も。

 胸の奥で、また何かが、静かにきしむ音がした。

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