第十七話 はじめてはライと②
「……ユキ先輩の、初めて」
その言葉が耳に引っかかったまま、レンは縄跳びをやっているふりをしていた。
視線は、ぜんぜん自分の足元を見ていない。
リングのロープの向こう。今日はそこに、ユキが上がる。
(初めては、ライとがいいです)
さっきのユキの声が、何度も頭の中でリピートされる。
(……なんすか、それ)
マススパー。軽く当てるだけ、とは聞いている。それでも、初めてって言葉に、妙なもやもやが残った。自分の腹を殴らせたのも初めてだったはずなのに。あれはカウントされないんだろうか、とか、くだらないことを考えてしまう。
縄跳びを回す手を止める。ライとユキが、リングに上がるところだった。
◇◇◇
ロープをくぐるユキの足取りは、ぎこちない。リングの感触は初めてだ。キャンバスの微妙な沈み込み。サンドバッグの前とも、体育館の床とも違う。
(高い……)
実際の高さはたいしたことないのに、世界が一段上になった気がする。下から見上げていたリングが、今は自分の足の下にある。
ライがヘッドギアを直しながら言う。
「ほんとにやるの?」
「だ、大丈夫………」
反射でいつもの言葉が出る。ライは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「無理すんなって言ってるだろ。怖いって言っていいんだよ」
「……怖い」
言った瞬間、胸の奥がすこしだけ軽くなる。ライは、うん、と短く頷いた。
「よし。それでいい」
対角のコーナーへ歩き出す前に、ユキの肩をぽん、と叩く。
「練習通りでいいからな」
リングサイドには、陸さんが立っている。すこし離れて、パイプ椅子に座ってこちらを見つめる顧問。アレセンはサンドバッグの側で腕を組み、目だけで二人を追っていた。
「じゃ、軽くいきましょうか」
陸さんが穏やかに言う。
「マスですからね。怖くなったらすぐ止めますよー」
顧問は「頼むぞー」とだけ付け足し、手を叩いた。
「始め!」
向かい合う。ライは、いつもより少しだけ猫背気味に構えを低くした。目線を合わせるためでもあり、威圧感を減らすためでもある。
(近い)
ユキは、ガードを上げるだけで精一杯だった。さっきまでサンドバッグを叩いていた拳が、今は変に重く感じる。
ライが、ゆっくりと前に出た。
「ほら。練習通り」
左足を少し前に出して、ジャブを見せてくる。本気じゃない。わざと大きめのモーション。「こうだよ」と教えるときの、それだ。
ユキは、ごくりと唾を飲み込んだ。
足から。前に一歩。腰を少しだけ回して、肩を出す。思い出しながら、ゆっくりとジャブを出した。
――ぺしん。
ライのグローブに、軽く触れる程度の音。
「うん。いいよ」
ライはすぐに笑った。
「当ててもいいから。ちゃんと前出てきたやつは、エラい」
その顔は笑っているのに、どこか辛そうだった。
(ずっと俺が守ってきたくせに)
心の中で、自分に向かって吐き捨てる。
(今日、自分から殴りに来るんだもんな)
子どもの頃。からかわれたユキの前に立って、代わりに怒ってきたのはいつもライだった。ボールが飛んできたら、真っ先に手を出すのもライだった。
「痛くない」って笑ってみせる、その裏で、何度も拳を握りしめてきた。
その守られる側が、今日、自分と向き合って拳を上げている。
(……いいのか、これで)
守りたい。でも、進みたいと言ったのは、ユキ自身だ。ライは、ほんの一瞬だけ視線を落とし、それから顔を上げた。
「ユキ、怖かったら、怖いって言えよ。終わりにしたかったら、終わりたいって言え」
「……うん」
「あとは、当てていいから」
もう一度、はっきりと。
「練習通りで、お前は当ててもいいよ」
その言葉で、やっとユキは息を吸えた。ジャブ。もう一度。前に出る足が、さっきより少しだけスムーズになる。ライは、そのジャブをグローブで軽く受けながら、わざと自分の顔の横を空けるように動いた。
「どこでも。好きなとこ打ってみ」
「えっ」
「顔でもボディでも。俺がちゃんと合わせて受けるから」
言っていることは簡単なのに、それを口にするライの顔は、苦い。
(本当は、当てさせたくないくせに)
リングの外から、レンはそれをじっと見ていた。




