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第十六話 はじめてはライと①

 土曜日の体育館。ユキは一生懸命、サンドバッグに向かっていた。


 トン。

 ドス。

 パスッ。


 まだ軽い、非力(ひりき)。それでも、この前までの「ぺしん」とは違う音が混じっている。

 体重が、ほんの少しだけ前に乗るようになった。足も、棒立ちじゃない。ぎこちないながらも、ちゃんと前に出ている。


(……何か、あったな)


 リングの影で縄跳びの紐を整えながら、ライはちらりとそっちを見た。子どもの頃からずっと見てきたから分かる。怖いのを我慢してるだけの動きじゃない。怖さを抱えたまま、一歩分だけ、前に出ようとしている動きだ。


「まじめにがんばってますねぇ」


 横から、のんびりした声がした。


「陸さん」


 ライが振り向くと、土曜コーチの陸さんがノートを片手に、サンドバッグを叩くユキを眺めていた。目尻(めじり)は下がっているのに、視線はちゃんと一人ひとりを追っている。


「ユキ君、ちょっと雰囲気変わりましたね」

「……分かります?」

「分かりますよ。仕事柄、そういうの、得意でして」


 冗談めかして笑う。


「向いてるかどうかはさておき」

「さておき、ですか」


 ライが苦笑すると、陸さんはうんうんと頷いた。


「さておき、応援したくなりますね。ああいうのは」


 パスッ、とユキがもう一発。肩に力は入っているけど、目をそらしてはいない。自分のパンチの行き先を、ちゃんと見ている。


「……マネージャーのままでいてほしい気持ちと」


 ライは、サンドバッグ越しにユキを見ながら言った。


「なんか、前に出たいんだろうなってのと、両方あります」

「両方あっていいと思いますよ」


 陸さんはすぐに返す。


「片方だけじゃなきゃいけないっていうほど、単純な話でもないですしね」

「そうですかね」

「そうだと思いますね。……マスくらいだったら、いいんじゃないかなぁとは思いますけど」


 さらっと言う。声のトーンはゆるいのに、その一言に、ライの指先がわずかに動いた。


「マススパー、ですか?」

「はい。軽くしか当てないやつ。遊び半分じゃなくて、怖さと距離だけ味わう練習」


 陸さんは、リングをちらりと見てから、ライに視線を戻した。


「もちろん、無理強いはしません。やってみたいなら、止められる場所で一回やってみましょうか、くらいの提案です」

「……止められる場所、ね」


 ライは、リングをじっと見た。あの中で、色んな奴と何度も向き合った。怖さも、痛さも、悔しさも、そこに全部置いてきた。今、その手前で、ユキがサンドバッグを叩いている。


「部長のアレセン君と顧問の先生にも、話通しておきますけどね」


 陸さんが付け足そうとした、そのとき。


「わ、」


 後ろから、慌てたような声がした。


「俺、やってみたいです!」


 振り向くと、ユキが汗を拭きながら立っていた。息は上がっている。顔も赤い。それでも、目だけはまっすぐだった。


「……聞こえてた?」


 ライが苦笑まじりに聞くと、ユキはこくこく頷く。


「マス、って、その……軽いやつ、ですよね。あの、もしよかったら、俺……」


 言いながら、視線が泳ぐ。怖さと、やってみたい気持ちが、胸のあたりでぶつかっているのが見える。陸さんは、いつものふわっとした笑顔を浮かべた。


「やってみたいですか?」


 さっきと同じ問いを、今度は本人に。ユキは一度、拳をぎゅっと握った。サンドバッグを叩いてきた拳。レンを初めて殴った拳。


「……怖いですけど」


 正直に言う。


「やってみたいです」


 陸さんは、すぐには頷かなかった。その代わり、少しだけ首をかしげる。


「誰と、やってみたいですか?」


 その問いに、ユキは一瞬きょとんとして――すぐ、ライのほうを見た。


「えっと……」


 喉がからからになる。でも、ここで逸らしたら絶対に後悔すると思った。


「初めては、ライとがいいです」


 おそるおそる、でもはっきりと。


「ライの見てる景色、ちょっとだけでいいから……一緒に、見てみたいから」


 言った瞬間、顔が真っ赤になる。ライの前で、こんなことを口にするのは、子どもの頃以来かもしれない。ライは、一瞬、完全に固まった。


(……初めては、って)


 変なところだけ耳に残って、頭が軽くバグる。心臓のあたりが、きゅっと掴まれたみたいに痛い。ユキが、真正面から自分を見上げている。不安と、期待と、ちょっとした憧れの混ざった目で。


「……お前」


 やっと声が出た。


「人を殴るの、怖いんじゃないの」

「怖い」


 ユキは即答した。


「怖いけど、ライだったら……ちゃんと受け止めてくれるから」


 その一言が、ずるいくらい、まっすぐだった。ライは、思わず笑ってしまう。嬉しいのか、苦しいのか、自分でもよく分からない笑い。


「……そりゃ、受け止めるよ」


 目をそらして、頭をかいた。

 陸さんが、二人の間を見比べながら、穏やかに口を開く。


「じゃあ、条件を決めましょうか」

「条件、ですか」

「はい。今日は“マス”です。強く当てない。怖くなったら、すぐ止める。

 私か顧問の、どちらかがずっとついています」


 指を一本ずつ折りながら、確認するみたいに挙げていく。


「それから、ユキ君」

「はい」

「やめたいって思ったら、その場でちゃんと言うこと。『続けなきゃ悪いから』は、ダメですよ」


 ユキは、グローブをぎゅっと握りしめた。


「……分かりました」


 ライのほうを見る。ライも、小さくうなずき返す。


「じゃあ、」


 陸さんはにっこり笑った。


「ライ君。ユキ君の初めての相手、よろしくお願いします」

「言い方」


 ライが眉をひそめる。陸さんは「あ、言い方ミスりましたね」と笑いながら、リングの方へ歩き出した。

 ユキの胸は、怖さと同じくらい、期待でいっぱいだった。ロープの中から見る景色。ライがいつも見ている景色。その入り口くらいは、今日、やっと一緒に立てるかもしれない。

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