第十三話(★) ユキとレン③
次の日。ユキは、朝から落ち着かなかった。家を出る時間をいつもより早くして、電車も一本早めに乗った。気づけば、まだ始業にはだいぶ時間がある。校門の前。登校してくる生徒はまだまばらで、制服の色だけがぽつぽつと視界を横切っていく。
(……来るかな)
カバンの持ち手を握ったり、離したりする。昨日の、自分のパンチの感触が、まだ手のひらに残っているような気がしてならない。腹、痛くないかな。アザになってないかな。やっぱりやりすぎちゃったかな――と考えるたび、頭の中で “パスッ” という音がリピートされる。
「あー……ねむ」
聞き慣れた、気だるい声がした。振り向くと、レンがあくびをしながら校門をくぐってきた。肩からカバンを下げて、ネクタイはちょっとゆるい。いつも通りの、雨宮レン。
(来た……!)
胸がどきっと跳ねる。ユキは、慌てて駆け寄った。
「あ、雨宮君!」
声が裏返りそうになるのを、なんとか押しとどめる。レンは、半分閉じた目のままこちらを見る。
「……おはようございます、ユキ先輩」
「お、おはよう……!」
二人並んで校舎の方へ歩き出す。周りには、まだクラスメイトがぽつぽついる程度。それでも、誰かに聞かれていないか気になって、ユキは声の音量を調節する。
(言わなきゃ……)
昨日から、ずっと心に引っかかっていた言葉。
「えっと……その……」
うまくタイミングが掴めない。
階段に足をかける瞬間、勢いで口を開いた。
「昨日はありがとう!!」
思っていたより大きな声が出た。レンが少しだけ目を見開く。
「……なにがですか」
「ほ、ほら……練習、つきあってくれて。殴るの、初めてだったから……」
自分で言いながら、顔が熱くなる。傍から聞いたら、完全に危ない会話だ。
「アザとか……大丈夫?」
恐る恐る聞くと、レンは一瞬だけきょとんとした顔をした。
「アザ……?」
自分の腹のあたりをさっと見て、数秒の間。次の瞬間、ふっと噴き出した。
「ユキ先輩のパンチでアザ!」
笑いながら、あり得ない、とでも言うように首を振る。
「いや、マジでないっすよ。見てみます? なにもないから」
「で、でも、昨日、けっこう……」
ちゃんと入った、よくできました、が頭の中でぐるぐるする。レンは、ちょっとだけ肩をすくめた。
「あれくらいで折れてちゃ、一生ボクシングできないっすよ」
軽口なんだけど、それを支えるだけの、本当の硬さが声の奥にある。
「ユキ先輩、知らないでしょ」
「な、なにを……?」
「硬さ」
レンは、足を止めた。廊下の途中。数人が脇を通り過ぎていく気配がする。そのまま、ユキの手をひょい、と掴んだ。
「ちょっ……」
驚く間もなく、その手を自分の腹に持っていく。制服の上からだけど、ユキの指先にちゃんと筋肉の硬さが伝わってくる。
「ほら。わかります、ここ? 案外、硬いんですよ」
「ちょ、ちょっと待って……!」
周り。周りの目。朝の廊下で、男子同士でこんな距離の近さは目立つ。
「み、みんなの前で……!」
ユキは慌てて手を引こうとするが、レンが少しだけ強く押さえる。
「いーでしょ、別に」
レンは、にやりと笑った。
「心配させたままにしておくほうが、悪いし」
心配してくれてありがとうなんて、絶対言わないタイプの言い訳。でも、ちゃんと伝わる。
(……心配、してたの分かってたんだ)
昨日、自分の拳が当たった場所。ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなる。
「……ほんとに、痛くない?」
まだ信じきれなくて、ユキはもう一度だけ聞いた。レンは、少しだけ目を細めた。
「痛かったら、痛いって言いますよ」
ゆるい口調のまま、顔を近づけて、耳元で囁く。
「それに、ユキ先輩に殴られるの、そんなに嫌じゃないですし」
「えっ」
「泣きそうだったでしょ。顔、真っ赤にして。悪くなかった」
またそれ。平気な顔して、さらっと心臓に悪いことを言う。ユキは耳まで一気に熱くなって、あわてて手を引っこ抜いた。
「もうっ……! 登校中にそういうこと言わないで……!」
「はいはい」
レンはふっと笑って、また歩き出す。その横顔を見ながら、ユキは胸の奥をぎゅっと押さえた。
(よかった……ほんとに、よかった)
アザになっていない腹。笑っているレン。よくできました、と言ってくれた昨日の声。全部まとめて、少しだけ、誇らしい。
レンは何でもないように下駄箱へ向かいながら、ちらりとユキを見た。
「――ついでに」
「……なに?」
「名前、呼び捨てにしてくださいよ」
足を止めないまま、軽く告げる。なのに、声は妙に真剣で、ユキは一瞬固まった。
「え、でも……」
「他人っぽいじゃないですか。レン、って聞きたい」
さらっと言って、レンはやっと、いつものにやっとした笑い方をする。
「ほら。言って」
ユキはギュッと口を閉じる。名前を呼び捨て。今までライ以外にしたことがない。
「……レン……昨日はありがと」
「どういたしまして、ユキ先輩。……よくできました」
満足げに短く頷いて、レンは人混みの中に紛れていった。ユキは、その背中を見送りながら、小さく息を吐いた。




