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第十二話 ユキとレン②

 ポスッと軽い手応(てごた)えが返ってきた。レンの腹に、ユキのグローブが触れた。押した、に近い。パンチを当てたというより、「失礼します」とノックしたくらいの強さ。レンは一瞬だけ目を伏せて、すぐに顔を上げる。


「……はい、もう一回」

「え」

「今の、さわるのと同じなんで。体重、乗ってないっす。腕だけ」


 ユキは慌てて下がりかけて、すぐ足を止めた。逃げたら終わりな気がして、止まるしかなかった。


「今度は足から。前に出てから、腕」

「……う、うん」


 構え直して、一歩だけ踏み込む。拳を伸ばす。さっきよりは少しだけ前に出たはずなのに――


「全然ダメ。もう一回」


 レンの声が、淡々と飛ぶ。


「なでてるだけ。ぜんぜん“打ってる"になってないっす」

「い、今のも?」

「今のも」


 容赦(ようしゃ)がない。でも、怒っているわけでもない。ただ、事実として告げられる。


「はい、足、ぜんぜん動いてない。棒立ち」

「わ、分かってるんだけど……」


 分かってるのと、できるのとは、別だ。頭の中ではイメージできるのに、身体が言うことを聞かない。

 もう一発。やっぱり軽い。


「もう一回」

「……」

「まだ。まだ、ユキ先輩のパンチになってないっす」


 何度も、何度も。ぎこちない踏み込み。中途半端(ちゅうとはんぱ)な伸び。その度に、レンの「もう一回」が返ってくる。息があがってきた。胸の奥が痛いのは、苦しさなのか、悔しさなのか分からない。


(……なんで、できないんだろ)


 幼なじみのライは簡単そうにやって見せる。後輩のレンだって、軽くでも、ちゃんとパンチの形になっている。なのに自分だけ、いつまでたっても、撫でているだけ。


「ユキ先輩」


 レンが、短くため息をついた。


「どーぞ、もう一回」

「……雨宮、くん」


「ぜんぜんダメ。ごめんなさいって謝ってるみたいなパンチしてどうすんすか」


 図星すぎて、胸がじくっとする。謝りながら殴っているみたいだ、と自分でも思っていたところだ。目の奥が、じんわり熱くなる。


(泣きそう……)


 ここで泣いたら、本当に臆病って言われる。分かっているのに、喉のあたりがきゅっと詰まる。

 そのとき、低い音がふっと途切(とぎ)れた。ドス、ドス、とサンドバッグを叩いていた音が止む。横を見ると、部長のアレセンが手を止めて、こっちを見ていた。無表情。でも、その目は完全に「観ている」目だった。


(見られてる……)


 さらに泣きそうになる。部長に見られている。へたくそな、自分のパンチを。レンが小さく、「はぁ」と息を吐いた。


「……ユキ先輩」


 今度は、さっきまでより少しだけ厳しい声だった。


「逃げんな」


 ユキはびくっとする。レンは、薄く笑った。いたずらっぽいのに、どこか真剣な笑い方。


「打ってこい。本気の顔、見せてよ」


 その言葉が、前にもどこかで聞いた台詞を、胸の奥から引きずり出す。


(本気の……顔)


 ミットを持っていたとき、同じことを言われた。現実から半歩下がった場所で笑っている自分を、何度も見透(みす)かされてきた。ユキは、唇をきゅっと噛んで、一度目を閉じた。


(俺ばっかり、いい人の顔して。痛いのも怖いのも、人に預けて。それで、優しいって言われて……)


 胸の奥でぐちゃぐちゃになっていたものが、ふっとひとつにまとまる気がした。目を開ける。レンが、真正面にいる。


「……よし」


 小さくつぶやいて、自分に言い聞かせるみたいに。ユキは構え直した。足の位置を確認する。片足を半歩前に、重心を少しだけ前へ。拳を握り直す。怖い。それでも――今だけは、“ごめんなさい”をやめる。息を吸う。吐きながら、踏み込む。次に、腕だけじゃなくて、足から。


 ――パスッ。


 さっきまでと違う音がした。さっきより、少しだけ深く入った手応え。レンの身体が、ほんのわずかに後ろへ揺れる。ユキの心臓がどくんと跳ねる。自分がやったとは思えない感触。

 レンは、一瞬だけ目を見開いて、それから口元に笑いを浮かべた。


「……よく、できました」


 テストに丸印をつけるみたいに、静かにそう言う。その声が、冗談とも、煽りとも違って聞こえた。

 アレセンは、サンドバッグの横で短く頷くと、何も言わずにまたバッグに向き直った。さっきと同じリズムで、音を刻み始める。

 ユキは、まだ拳を握ったまま、息を整えることも忘れていた。


(今の……俺?)


 怖さは消えていない。でも、その中に「ちゃんと当たった」という感触が、はっきり残っている。レンが、ふっと視線を落として言う。


「最初から、それでいいんすよ」


 ユキは、やっと息を吐いた。目の奥に溜まっていた涙は、汗に紛れてわからなくなっていた。

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