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第十一話 ユキとレン①

 数日後。その日は、ライが生徒会で遅くなる日だった。体育館の隅は、いつもより少しだけ静かだ。

 ユキはサンドバッグの前に立っていた。グローブをはめて拳を握る感触には、まだ慣れない。


 ペシッ。

 パスッ。


 サンドバッグが、情けない音を立てる。揺れもしない。表面を叩いているだけ、みたいな音。


(……なでてるだけ、って自分でも思う)


 どうしても、最後のところでブレーキがかかる。当てちゃいけない、って身体が覚えてしまっている。


「ユキ先輩」


 後ろから声がした。振り向くと、レンが壁にもたれてこちらを見ていた。いつもの、何を考えているか分からない顔。


「人殴ったこと、ないでしょ」

 

 唐突(とうとつ)な問いに、ペチン、と出しかけた拳が止まる。


「……ない」


 正直に答えるしかなかった。自分から誰かを殴ったことも、殴られたことも、一度もない。


「ふーん、やっぱり」


 レンはすこし遠くを見る。それから、壁からすこし離れて、ゆっくり歩いてくる。ユキとの距離が、じわじわ縮まる。


「俺で試してみません?」


 いたずらっぽく口の端を上げて、そんなことを言う。


「えっ、なんで……できないよ、そんなの」


 慌てて首を振る。冗談だと思いたいのに、レンの目の奥は冗談じゃない。レンはユキの正面、腕の届く距離で立ち止まった。


「先輩のパンチ、なでてるのと変わんないし」


 ストレートに言われる。さっきまで自分で思っていたことを、そのまま口に出される。レンは肩をすくめる。


「殴るの、嫌なんすか」

「嫌っていうか……怖い」


 ユキは視線を落とした。自分の拳を見つめる。これで誰かに本気で当てたら、その人が痛い顔をする。そう想像するだけで、胸が苦しくなる。

 レンは、少しだけ目を細めた。


「じゃあ、俺で練習しましょう」

「練習って……」

「本気じゃなくてもいいんで。まぁ、どうせ、先輩の本気、たいしたことないし」


 軽口をたたきながら、レンは一歩下がって、ゆるく構えた。顎はあがっていない。ガードもちゃんと上がっている。でも、わざと隙を作るみたいに、ボディのあたりがゆるい。


「初めての顔、見せてくださいね」


 前に言ったのと同じような言い方で、今度は少しだけ笑って。


「どーぞ」


 バンテージを巻いた拳で自分のボディを示す。


「ここ。軽く」


 ユキは、喉がからからになった。


「……無理だよ。痛いでしょ」

「痛かったら、痛いって言います」


 レンは、あっさりと。


「殴る側も、痛くなかったらどうしようって顔してますけどね、今」


 図星だった。当てて痛がらせるのが怖いくせに、当てても何も起きなかったら――自分の弱さが、全部バレる。レンは、少し真面目な声で付け足した。


「俺のこと殴るの、けっこうレアですよ?」

「レアって言われても……」


 笑いそうになって、笑えない。それでもレンは、構えを解かない。「どーぞ」をやめない。ユキが逃げられない位置に、きちんと立っている。


(……試してみません?)


 さっきの言葉が、耳の奥で繰り返される。ユキは、利き手を前に出して、ゆっくりと構える。


「ほんとに……軽く、だからね」

「はいはい。先輩の軽くなんて、なでてるのと同じっすよ」


 レンの軽口に押されながら、ユキは距離を詰める。心臓の音がうるさい。目の前にいるのはサンドバッグじゃない。自分の名前を呼んでくれる人間だ。

 拳を伸ばす寸前(すんぜん)で、ユキは一度、ぎゅっと目をつぶりそうになった。レンが、かすかに笑う。


「目、開けて。俺、ここにいますから」


 その一言で、ユキは目を開けた。レンの視線と、真正面からぶつかる。からかう光と、少しだけ期待の混ざった光。ユキは、息を吸った。


 ――ほんの少しだけ、ブレーキを弱める。


 拳が、恐る恐る、レンのボディへと伸びていった。

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