07 婚約の証
アリィは姉妹と喋りながら、野菜を洗い終えて川を立ち去ろうとする。
立ち上がった時、背後から砂を踏みしめる音が聞こえてくるのだった。
「で、殿下!」
先にユオのことに気付いた姉妹は、ぴしっと姿勢を正して頭を下げる。
ここは平和な場所だが、無意識にユオへの敬意や畏怖が染み付いているのだ。
「ユオシェム様?」
アリィは振り向き、ユオを見た途端に頬が緩む。
自分でも、それを自覚すらしていなかったのだが。
「お姫様に魔法を教えようと思ってね」
ふわりとした金髪が、渇いた風に揺られている。
いつもの笑顔で彼はやってきて、その姿にアリィは安心するのだった。
「楽しみだわ。すぐに魔法は使えないわよね?」
「そうだね、まずは感覚を掴まないと。それから少しずつ慣らしていこう。いきなり出力すると、二度と使えなくなってしまうリスクもあるから」
「分かったわ」
声のトーンがほんの少しだけ低くなり、片目を閉じて茶目っ気を出すユオ。
アリィは心臓が跳ねるのを感じながらも、(辛いものを食べたせいで、血圧でも上がったのかしら)と、別の心配をするのだった。
「わ、私たち、アリィさまが洗ってくださった野菜を届けてきますね!」
シャロとロナは気を遣うようにして、アリィから野菜の籠を奪い取る。
二人はそのまま、ラニのいる畑の方に走って行った。
「ありがとう、気を付けてね」
気が利く子たちだ、と感心して笑顔で見送るが――どういう意味で気を遣われたか、当のアリィは分かっていなかった。
「よし。魔力属性と、魔力量の測定から始めようか」
ユオはそんな無自覚な彼女を見て、ただ優しく笑うばかりだ。
アリィも疑いのかけらすらなく、頷いた。
皇太子にはあれだけ嫌悪感があったのに、ユオのことはひとつも嫌ではない。
アリィ自身、それがとても不思議だった。
(男の人は大きいから怖いのだと思ってたけど、ユオシェム様は少しも怖くないわ。大きいのに、どうしてかしらね)
アリィは傍で準備するユオの姿を見つめながら、楽しい気分で待っていた。
彼は手の中に、どろどろとした闇を携える。
その中から敷物と銀の聖杯を取り出した。
アリィは驚いて目を見開き、そして輝かせる。
「それも魔法なの?」
「うん。闇属性って物理法則に反することができたり、精神汚染ができたり、便利なんだよ」
「すごいわ。異次元空間に荷物を保存してるみたい」
「実際、原理的にはそんな感じだよ」
わくわくしてきたアリィは、ユオの手から出る闇の魔力を見つめる。
ユオは敷物を敷いて、聖杯に川の綺麗な水を汲んだ。
それから、二人で向かい合うようにして腰を落とす。
そんな二人の様子を、谷底の人々は密かに見守っていた。
「これは魔石を埋め込んだ杯……要は魔法道具なんだ。この聖杯に綺麗な水を入れて、その人の血を一滴垂らすと、その人の魔力属性や魔力量が分かるんだよ」
ゆっくり説明するユオに、真剣に聞くアリィ。
「前にやったことがあるわ。私は氷だって……」
「うん。実は、シノから聞いてたんだけど……それは世界政府の目を盗むためのものだったんだって」
「え……?」
「まぁ、試しに僕がやるから見ててよ」
アリィが疑問に思う余裕もなく、ユオは自分の指をナイフで少しだけ切って、杯の中に血を落とした。
血で赤く広がるわけでもなく――その雫が落ちた瞬間、墨汁を落としたかのような黒い靄が水の中に広がった。
それはしばらく渦巻いてから、消えていったのだ。
「これが……貴方の、闇属性の証なのね」
無色透明な水に戻っていくのが不思議だった。
聖杯をまじまじと眺め、アリィは顔を上げ、傷の心配をする。
その際に視線がかち合って、また鼓動が速くなるのを感じた。
ユオは指の傷など、どうにも思っていない様子だ。
「反応がはっきり出るほど、魔力量も高いことになるんだ。君の肌を傷付けるのは気が引けるから、髪の毛でもできるように改造しておいたよ」
アリィの動揺はさておき、ユオはまた気遣いを見せる。
「ありがとう。手を切るのは少しだけ怖かったから、嬉しいわ」
「鋏で切った方がいいよ。無理に抜くと痛いから……やってあげようか?」
「え、えぇ……お願い」
先回りして改善してくれたことに、アリィは頬を緩ませる。
「失礼するね」
ユオは闇の中から鋏を取り出した。
アリィは彼のその手が、髪に迫るのを受け入れる。
香水の香りと、体温を近くで感じるようで、その間もドキドキと心臓が高鳴っていた。
ユオはそんな彼女の瑠璃色の髪の毛を一本、大切に扱うように鋏で切り離す。
(たった一本の髪を切るだけなのに、すごく大切にされてるみたい……)
心臓の高鳴りすらどうでもよくなるくらい、アリィはその行為のひとつひとつを記憶に刻んでいた。
「はい、髪の毛だよ。自分で落としてごらん」
アリィの手の上に、ユオは優しく髪の毛を落としてやる。
彼女が怖がるから、指先が触れないように。
「うん、やってみるわ」
瑠璃色の髪の毛を受け取り、言われたとおりに聖杯の中に落とす。
すると――水の中はたちまち光を放ち、幻想的な色彩に変化した。
アリィの瞳のような、空色と桜色のグラデーションを醸し出す、オーロラ色の水面。
そこに小さくも存在感のある満月が、ひっそりと浮かぶ。
しばらくそれに見とれていると、すっと消えてしまった。
「月……? 氷じゃないってことなの?」
理解は追いつかなかったが、アリィは疑いもせずにユオを見上げた。
「うん……君は間違いなく、月の属性だよ。病も傷も癒やし、邪悪なものは浄化してしまう。女神様のものなんだ」
当のアリィは、まだ半信半疑だ。
そんな彼女に、ユオは最初から分かっていたかのように告げる。
「私は、女神様の力を受け継いだのね……家族は守ってくれてたんだわ」
ここでもまた、アリィは守られた事実を実感した。
最初から本当の属性を発表していたら、きっと世界政府から目を付けられていただろう。
感激して、涙が溢れそうになる。
けれどもアリィはそれをぐっとこらえ、泣かずにユオを見上げた。
「この力を人のために使いたいわ。ユオシェム様、どうすればいいか教えてくれる?」
今までのアリィは、王女として何も出来なかった。
そんな負い目も重なり、役に立ちたいという気持ちが先走る。
「焦らないでいいさ。少しずつ、確実にやっていこう」
そんなアリィを否定せず、ユオは受け入れるようにして励ました。
彼はまた手の中に闇を出すと、その聖杯をしまっていく。
それと交換するように、今度はそこから髪飾りを出した。
「失礼するね」
そして、アリィの瑠璃色の髪に、そっと挿す。
青い薔薇と白い茉莉花で構成されたそれは、ところどころに青緑色の宝石が散りばめられていて――それらがユオの瞳の色のように輝いていた。
男が自分の瞳の色の宝石を、髪飾りにして贈る。
即ち、永遠の愛と独占欲の象徴。
それは世界政府や星慧教団なんかが出てくるよりも前、古くからの世界共通の認識だ。
「これは……?」
「僕らは婚約者だから。これから旅に出て、色んな国を回る。君の立場が揺らがないよう、計画が決まった時に、懇意にしてる職人に作らせたんだ」
「形式的なものなのに、こんなに高価なものをもらってもいいの?」
ユオには女性の影がある――と、アリィは思っている。
計画のために隠しているのかと思うと、申し訳なくなってくるものだ。
けれども政治的には必要であり、アリィにとっては祖国も自分の身も守る手段だった。
ユオにとっても、この関係はきっと政治的に大事なのだろうと考える。
「そうだけど、ちゃんとしておきたくて。あ、嫌なら外していいからね?」
表情が曇ったのを見逃さなかったユオは、慌てるようにそう言った。
いつもの余裕が少しばかり消えて、目を泳がせて動揺する。
「ううん、ありがたく受け取るわ。とても綺麗だし、私のために用意してくれたんだもの。よろしくね、ユオシェム様」
アリィは宝石が欲しいのではない。
たった一瞬だとしても、自分のことを考えて作ってくれたことが尊く感じた。
今は何も考えないようにして、愛しげに髪飾りに触れる。
(もし彼が皇帝になったら、私との婚約は不要になるかも知れないけれど……その時までは、身に付けていてもいいわよね)
どう見てもアリィのためだけに作られた髪飾りは、一生忘れない思い出になりそうだった。
同時に、少しばかり切なくなってくる。
「こちらこそ、よろしくね」
ユオは拒否されなかったことに満足気に微笑み、ただそれだけを返した。
その重い感情はまだ隠したまま、今は受け入れてもらえただけでよかったのだ。
それからアリィはユオに見守られながら、残りの時間を魔力を掴む訓練に費やすが――滞在中に感覚を掴むには至らなかった。
☾
数日の準備を終え、いよいよ旅立ちの日――ユオは男性陣と最後に会議をしているようだった。
アリィは彼が戻ってくるのを、ラニが住む城にて待つ。
町の女性たちもやってきていて、賑やかに話をしていた。
「ユオシェム殿下は魔法道具や魔法絡繰を作るのがお好きなのよね」
「そうそう、我が息子ながら意外な趣味よ」
女性たちと雑談をする中で、ラニはユオのことも軽く話す。
母親として心配はあっても、信じて送り出す準備もできているようだ。
「しかし、アリィちゃん……その服、本当に似合うわ。私も可愛い娘が欲しかった!」
ラニが配慮したのだろう、アリィの服は独創的なデザインのものだ。
出身国の国の着物をアレンジし、フリルやレースを増やしたような、愛らしくも機能性のいい服が仕立てられた。
それを着たアリィは、ここの人たちを思って大切に着ることを誓う。
砂漠でもあるし、目立たないようにとフード付きの外套も添えられていたのだ。
「ありがとうございます、皆さん。大切に着ますね」
自分でも着れる簡単な服に少し感動し、アリィは女性陣に笑顔を向けた。
相変わらず丈は少し短めだったが、ここで過ごす間に慣れてしまったのである。
「最初はジナビアを目指すようね。あそこはユオが生まれたところなのよ」
会議の終わりを待ちながら、ラニは雑談を続ける。
ユオのことを知りたいと思っていたので、アリィは興味津々で話を聞いた。
「カナンの皇子様なのに、北国でお生まれになったのですか?」
「二十年前の白夜祭でね。皇后が招かれていたんだけど、あの女ったらそれを蹴ったのよ。第一皇妃様は市井の出だったから、外交のお役目はなくて。臨月の私が代わりに行くことになって……今思うと、嫌がらせね。そこでユオが生まれたの」
「ユオシェム様のお名前は、古代語で白夜を意味するものですよね。そういうことでしたか」
「そうそう。数日差で、向こうの末の王子様もお生まれになってね。それからご縁があって、ジナビアに行くことも多くなったわ。ジナビアの末王子様とユオは、今も仲良しみたいなの。それからティファも赤ちゃんの時に連れて行ったのよ」
「陛下はラニ様を信用されて、ジナビアとの外交のお役目を任せておられたのですね」
アリィはここで過ごすうちに、皇帝がラニを寵愛していた片鱗をひしひしと感じていた。
「…私がここに来たのは、十年前なの。あの人が生きているなら、まだ完全に皇后に乗っ取られてないから、希望はあるわ」
ラニは懐かしむように視線を落とした。
「ラニ様と皇帝陛下が、いつかまた再会できることを祈っています」
アリィはただ、素直な気持ちだけを告げた。
「アリィちゃんは本当に優しい子ね……これから先、前みたいに謝らないでね? 出鶴には寄生虫が付いてるだけで、とてもいい国なんだから!」
ラニは思うところがありながらも口には出さず、逆にアリィを勇気付ける。
「はい。きっと朗報を持ち帰るので、ラニ様もお体にお気を付けくださいね」
旅立ちの準備は万端で、ここに来てたくさん笑うようになっていた。
それから会議が終わったようで、アリィはユオと合流して外に出た。
ここでの女たちがユオに群がらないのは、序列が分かっているからだ。
気楽に話しかけられるのは、母であるラニだけ。
他の女たちは彼から話しかけられない限り、必要以上に言葉を交わさない。
そんな風に、次期皇帝に対して皆が弁えていた。
何より、アリィの髪飾りを見て皆が察している。
わざわざ聞く者はいなかったが、二人の婚約関係は暗黙の了解のようだ。
(兄上と有明姫様は、本当にお似合いですね)
ティファは静かに見守り、彼女への初恋を思い出に昇華させようとしていた。
「アリィさま、また戻ってきてくださいね?」
「うん。シャロとロナも、元気でね」
この場所で特に懐いていた姉妹に別れを告げ、アリィは彼女たちと抱きしめ合った。
「兄上、姉上にもよろしくお伝え下さい」
「そうだね。あの子とも近いうちに合流すると思うし」
「まさか、飛び出していくなんて思いませんでしたけど……」
「連絡は取れてるから大丈夫さ。軽く叱っとくよ」
ユオはティファを含む弟たちと別れの挨拶をしていたが、さっぱりとした印象だ。
(姉上? 皇女様はいないわよね。三つ子みたいに、親戚の子がいるのかしら)
アリィは傍で兄弟の会話を聞きながらも、その場で問いかけることはしなかった。
「アリィちゃん、ユオを過信しないようにね。目的のためなら、家族ですら騙す男なのよ」
「母上はひどいなぁ。僕は純粋な息子なのに」
「どこが純粋なのよ」
忠告を加え、なおかつ息子の軽口にツッコミを入れる。
母は実の息子よりも、全面的にアリィの肩を持っていた。
そうなるくらい互いに信頼しているのだろうと、アリィは親子の掛け合いを見て笑う。
「じゃ、僕らは旅に出るよ。次に帰ってくる時は……きっと、皆がここから出られる時だから」
人々に別れを告げて衣を翻すユオに、頭を下げるアリィ。
二人は手を振られながら、岩を開いて中へと歩いていった。




