06 初恋の人
閉じ込められてからの六年間、アリィは目が醒める度に憂鬱だった。
そのまま醒めなければいいと、何度思ってきただろうか。
けれども夢うつつの中、しっかりと抱き上げられた暖かさを、肌は記憶していた。
それとは別に、暖かな太陽のような気配を感じながら――。
その日は生まれ変わったかのように、幸せな気持ちでアリィは目を覚ます。
見慣れない天井も、乾いていて暑い空気も。
祖国とは違うのに、尊いものに感じてくるのだ。
この場所にいる人たちとの触れ合いや、家族の真意――それらを知ったからか、今は生きていることに安堵する。
(私、きっとユオシェム様の隣で眠ってしまったんだわ……)
今の状況に感謝をしながらも、アリィは昨晩の状況を思い返して顔を赤らめた。
男性の隣で眠ってしまうなんて恥ずかしい、と。
慌てて個室から出て、そこがラニの暮らしている建物だと知った。
歩いているうちに最初に話をした広い部屋に出て、ラニやユオ、それに弟たちの姿を見る。
ちょうど朝食中だったようで、家族水入らずで談笑していたのだ。
「アリィちゃん、おはよう。よく眠っていたみたいね」
快活なラニがそう言うと、アリィのために残していたパンやスープを出した。
「おはようございます。ラニ様、何から何までありがとうございます」
「いいのよ、疲れてたんでしょ。ユオが運んできたの」
「そ、そうでしたか……」
皿を受け取ったアリィは、空いていたティファの隣に何気なく腰掛ける。
ラニから言われて恥ずかしさもあり、ユオにばかり注目していた。
ティファがそわそわとしてアリィを見ていたことにすら、彼女は気付いていない。
「あはは、寝ちゃってたからね」
ユオは笑って言った。
三つ子たちが、従兄である彼の膝の上を争っている。
「ありがとう。ユオシェム様、私たちはいつ出発するの?」
一緒に行く約束をしたのは覚えていて、アリィは楽しみながらも控えめに問いかけた。
それから、ふんわりとしたパンに齧り付く。
「七日後かな。しばらくここでゆっくりしようかなって。午前は弟たちの勉強を見るから、その後で君に魔法を教えようか」
魔法という言葉に、アリィは目に見えて顔を明るくする。
好奇心もあるのだが、それを習得することで役に立てるかも知れないという気持ちもあった。
「楽しみだわ!」
「顔色が良くなったね」
「貴方のお陰よ」
人生を終わらせるよりも、今は様々な世界を見てみたい。
まだそんなに時間は経っていないのに、アリィの心は癒やされていた。
恥じらいながらも正直に言うと、ユオは優しく目を細めて微笑む。
そんな笑顔を見ると、胸が落ち着かなくなる。
不快ではなく、心地よい騒がしさだった。
(ユオシェム様とはあの日が初対面なのに、どこかで会ったことがあるような気がしてくるわ)
彼の目的は、世界に逆らうのと同義だ。
それすら恐れをなさないのに、アリィを見つめる目はとても優しい。
懐かしくて、遠い昔に会ったことがあるかのように感じてしまうくらいに――。
☾
それからアリィはラニの手伝いとして、一緒に土いじりをすることになった。
出鶴とネシアは似ていて、王族が農業に携わるのは珍しいことではない。
儀式のために米や野菜を育てていたので、アリィは久しぶりの農作業に張り切っていた。
「サラは生物学に長けていたのよね。植物の育て方にも詳しくて」
雑談しながら、ラニは芋やトウモロコシなどを収穫していく。
家庭菜園というよりは、本格的な農家のようだ。
「はい。私も少し齧っていて、兄はその分野だとかなりの知識量があります」
「兄妹でかなり優秀なんだってね。ユオから聞いたわ。二人は何が専門なの?」
「兄の専門は生物学ですが、医学や魔法科学などにも長けています。私は文学や歴史ですね」
「兄妹で方向性が違うのね。ネシアにも学校制度はあるけど、二十歳になるまでに大学課程修了だなんてすごいわ」
兄を褒められて嬉しくなるくらいには、アリィは家族のことが好きだ。
ラニは親友の息子に思いを馳せ、手を進める。
トウモロコシを収穫した後の土に、同じ種を蒔いていた。
(すぐに蒔いて大丈夫かしら)
そう思いながらも、アリィはふかふかな土に触れてみた。
砂漠の地域にしてはかなり状態がよく、柔らかくていい土だ。
幅広い野菜を育てるのに適しているし、収穫後なのに疲弊していない。
「もしかして、この土は魔法で肥沃になってるのでしょうか」
「ご名答ね。私も魔法なんて使えなかったんだけど、今はこうやって日の魔法を使いこなしてるわ」
「日の魔法、見てみたいです!」
「いいわよ」
ラニはアリィの要望に応えるかのように、両手に魔力を集中させる。
暖かな光が手の中に集まり、その手を大地に翳した。
そうすると――それに照らされた土からは、すぐに芽が伸びてくる。
「すごいです! さっき種を撒いたばかりなのに」
感動と同時に、世界政府が禁じる理由が分かった気がしてくる。
(魔法は確かに火種にもなるけど、それだけじゃないのに。世界政府側は、こうして人が自立するのを望んでいないのかもね)
世界政府側の思惑が、星慧教団と――魔王を目覚めさせることと直結しているとしたら、そんな背景も想像できるのだ。
「日の魔法は色々と役に立つの。こうやって成長を促進させたり、人間に使えば筋力なんかを増強することもできるのよ。傷や病気の治癒力は微々たるものだけど、心を癒やす効果があるの」
嬉しそうにラニは笑う。
心を癒やす効果と聞いて、アリィは寝ている間に感じた気配を思い出した。
(夢の中のあれは……)
太陽に照らされていたかのように、心地よかったのだ。
「もしかして、ラニ様……」
寝ている間に、心を癒やす魔法をかけてくれたのだろうか。
そう聞きたかったが、ラニはそれ以上を言わせてはくれない。
「さぁ、アリィちゃん。あそこの川でこれを洗ってきて! たくさんあるからね!」
ラニは大きなカゴを押し付けた。
小ぶりながらも、しっかりとした芋たちだ。
その優しさを受け取り、アリィは微笑む。
「はい! あの、ありがとうございます」
それでも、礼は言いたかった。
「アリィちゃんはもう、大丈夫よ。これからは自分の足で歩けるわ」
言わせないつもりだったのにと、ラニは照れくさそうにしてアリィを見送った。
☾
それからアリィは、近くの小川で芋をひとつひとつ丁寧に洗う。
土の状態もいいから、野菜もしっかりと実が引き締まっているのだ。
三割くらい洗ったところで、足音が近付いてくる。
「アリィさま!」
その声がする方を見ると、昨日ずっと付き添っていた姉妹がやってきたのだ。
二人はアリィを見るなり競争するように駆けてきて、姉のシャロの方が少し早く到着する。
「シャロとロナじゃない。昨日は楽しかったわね」
「はい! アリィさまと一緒で嬉しかったです!」
「お姉ちゃんばかり、アリィさまと話してずるいよ!」
ニコニコと笑って積極的に話しかける姉のシャロに、少し恥ずかしそうにしながらも関わりたい妹のロナ。
二人はアリィの両脇を占領した。
「アリィさま、殿下と一緒に行かれるんですね。前に殿下が連れてきた女の人も行っちゃったし、また退屈になりますね……」
「女の人?」
「とっても綺麗な人ですよ! アリィさまと同じくらいに! お名前は……」
アリィはそこでようやく、ユオに女性の影を感じる。
(ユオシェム様は、あんなに素敵な人だものね……私にも優しくしてくれたのよ。他に恋人がいても、おかしくはないわよね)
シャロはその女性の話を続けるが、アリィは少し上の空になり、聞き逃してしまう。
婚約とはいえど、政略的なものだ。
カナンでは特に皇妃という側室制度を取り入れているから、愛人を持つことも珍しくはない。
分かっているのに、どうしてか胸が痛くなった。
「それより、アリィさまは出鶴の出身だから、月の女神さまの力が使えるんですか?」
ロナの方はアリィのことに興味津々で、姉の話を遮るように控えめに聞いた。
昨日からこの調子で、ずっと質問責めなのだ。
「昔、検査をしたのだけど……その時は氷属性だと言われたわ。お父様やお兄様と同じね。お母様が月の属性なの」
「氷って、氷天将様ですよね?」
「えぇ。出鶴の王家は表王家と裏王家がいて……それぞれ氷天将様の子孫と、月の女神様の子孫なの。私の両親はその表裏の王家が一緒になった形なのよ」
「何それ、すごいです!」
シャロとロナは興味津々だ。
アリィから聞いたことはすぐに覚え、話を聞くたびに目を輝かせている。
(月の属性は珍しすぎて、お母様が女神様の生まれ変わりだと言われてるものね)
アリィは母のことを思い出した。
女神の生まれ変わりだからと、星慧教団の信者たちに罵倒されていたのはよく覚えているのだ。
「アリィさまは月の女神さまみたい……星慧教団は女神さまは邪神だって言うけど、わたしたちの故郷は田舎だから、まだ信じてたんですよ!」
「私、月の女神さまと闇天将さまの恋の話が好きです!」
「もう、お姉ちゃんのバカ! 私が話してるのっ!」
ロナが照れながら喋っていると、シャロが割り込むように入ってくるので、軽く喧嘩になってしまう。
アリィはそんな彼女たちに微笑み、二人の頭を同時に撫でた。
「闇天将様は私も好きよ。魔族を裏切って女神様のために尽くしただなんて、格好いいものね」
アリィはそう言うと、幼い頃に口伝で聞いた神話を思い出す。
月の女神は十二人の天将と呼ばれる神々を従え、魔族と戦った。
中でも闇天将は女神に恋し、魔族を裏切ったダークヒーロー的な存在だ。
幼いアリィが神話を聞いて、密かに恋をした人物でもある。
(闇の魔法を操り、カナンの始祖となった闇天将様……敵にはすごく冷酷だけど、仲間には優しかったと言うわ)
伝承では容姿の描写も、一部を除けば十二天将たちの本名の提示もほとんどない。
それでも闇天将のことを想うと、ふとユオの姿が浮かんでくる。
アリィは無意識に、伝承上の初恋の人と彼を重ねてしまったのだ。
(どうして今、ユオシェム様を浮かべたのかしら)
そのことについては、まだアリィはさほど疑問に思わなかった。
(殿下とアリィさま、お似合いだよね……婚約者って言ってたし、結婚するのかな?)
(だけど、無闇に言ったら怒られちゃうから言えない!)
姉妹は同じことを考えるが、皇族について軽々しく語ってはならない。
教育されているゆえに、口をつぐむ。
三人は川のせせらぎを聞きながら、それぞれ思いを馳せていた。
☾
その頃、ユオは弟たちの勉強を見てやった後、小さい三つ子たちを外に開放した。
すぐに飛び出していく三つ子たちを笑顔で見送り、その隣には実弟のティファが静かに佇んでいる。
「あの、兄上……」
ティファは何かを聞きたそうにもじもじとしながら、背の高い兄を見上げた。
「体面上、彼女とは婚約者という関係だよ。皇太子との結婚を避け、なおかつ出鶴を守るには、彼女はカナンの皇子……僕と縁を結ばなければならなかったから」
ティファが何を言いたいのかを聞かずとも察し、優しくそう言った。
「奪いたいなら受けて立つよ。ティファも皇子だしね。ま、今回だけは容赦しないけど」
そして、視線を弟に落とし、微笑みながら畳み掛けるように付け加える。
いつもは優しいが、この時ばかりはどこか威圧感を放つような視線だった。
五歳離れたユオは、ティファが望むものを何でも与えてきた兄だ。
自分が我慢することも厭わなかった。
だからティファもユオを慕っている。
何より皇太子に目を付けられたのを、助けてくれたのはユオだったからだ。
そんな弟は、兄の初めての本気を悟った。
「兄上と争う気はありませんよ。僕は勝てない戦いはしたくないですし、あの方はどちらにしろ、高嶺の花ですから」
はにかむように笑い、ティファは自ら初恋を散らそうとする。
兄との対立は望んでいなかったし、彼女を見つめる以上のことを考えていなかったからだ。
何より、視線が合うことはなかったから。
「賢明だね。傷が浅いうちに諦めた方がいいさ」
「兄上も、一目惚れされたのですか……?」
「遠い昔にね。彼女は覚えていないだろうけど……僕はもう、後戻りは出来ないところにいるんだ」
ユオは詳しく語らなかったが、真昼の月を見上げる。
いつ、どこで二人が出会ったのか、何年もこの場所で過ごすティファには見当がつかなかった。
弟が知る限り、兄は大陸から出たことはないのだ。
(有明姫様のお兄様とは、外交でこちらに来られたときに、お会いしたとのことでしたが)
アリィの兄とユオがよく会っていたのは知っているが、彼女本人と出会うタイミングはなかった筈だ。
「まるで、生まれる前に出会ったみたいに仰るんですね」
ティファは少し冗談めいて言った。
いつものユオなら笑い飛ばすような、荒唐無稽な話だ。
それでも、この時の彼は一瞬だけ笑みを絶やした。
懐かしむように目を伏せた後、また微笑む。
「ティファも、昔から賢い子だね。いつか全てを話してあげるよ。それまでたくさん考えるといいさ」
ユオはティファを守る対象だと思っていながら、明確な子ども扱いはしなかった。
何事も自分で考えさせ、すぐに答えを与えない。
だからこそ、ティファも本気で慕っている。
初めての恋すら、捨ててしまうのを躊躇わないほどに。
「その答え合わせは、いつになりますか?」
背中を追うばかりのティファも、ユオの本質を知る日が待ち遠しくなる。
いつも遠くを見ている兄を見上げ、切実そうに問いかけた。
「星辰が揃った時、僕らはまたここに戻るだろう。全て開示されるのは、その時さ」
その回答すら、今のティファには理解の範疇に及ばない。
未熟さを思い知らされながら、弟はその未来を待つことに決めた。




