1-02 ジェミリオン
布越しに密着する体、感じる体温。
アリィは今、夢うつつの気分でいた。
(私、本当に逃げているの? あの皇太子から……)
胸がこれでもかと高鳴り、満月がいつもよりも綺麗に見える。
追手は当然のように現れた。
だが――ユオはアリィを抱えたまま、足技だけで兵士たちを蹴落としていく。
砂埃が舞い、鎧が転がる音が夜に響いた。
「お強いのですね……」
驚いたアリィは、思わずそう口走ってしまう。
すると、ユオは微笑んだ。
「ま、それなりに鍛えてるから」
強さを自慢するわけでもなく、それが当然だと言わんばかりだ。
(この人なら、もしかしたら本当に……世界政府を壊せるのかも知れないわ)
世界最高峰の軍事力を誇る、カナン帝国。
その兵士たちを蹴散らす様子を見れば、どれだけ強いかが分かる。
そうして追手は少しずつ減っていき――街の外れに来た頃には、もう誰もいなくなっていた。
「お姫様、大丈夫かい?」
改めて、二人の視線は交差する。
暗すぎない褐色の肌。
優しげな目元と、淡い色の睫毛は、笑うとどこか無防備に見えた。
「はい、ありがとうございます。まさか、本当に逃げ出すなんて。どのようなお礼をしたらいいか……私、刺繍くらいしかできませんの」
結婚を回避できたのはいいことだが、アリィは何も持っていないことに気付く。
自分の特技を考えて、差し出せるものを挙げた。
すると、ユオは声を出して笑い始める。
「あはは、君らしいね」
初めて会ったはずなのに、元から知っていたかのように言うのだ。
「刺繍では足りませんよね……」
どうして笑われたのか考えたアリィは、差し出すものが弱かったのかと真剣な顔をする。
「違う違う。刺繍でも嬉しいけどさ……敬語をやめてよ。今はそれだけでいいや」
「そんなことで……?」
「僕にとっては、とっても大事なことなんだ」
ユオの要求に、きょとんとするアリィ。
「そう……分かったわ」
言われたとおりに敬語をやめた。
失礼ではないかと少し焦ったが、ユオは嬉しそうに笑う。
その反応は過剰にすら見えたが、アリィは少し肩の力を抜いた。
「ありがと、元気出た。もう少し走るよ」
アリィを抱えたまま、ユオはまた帝都の街を走り続ける。
ただ走るのではなく、屋根を伝ったり降りたりして――とてもじゃないが、普通の身体能力ではない。
(刺繍で笑うし、そんなことで元気が出るなんて、変わった人なのねぇ)
アリィはそう思いながらも、彼に身を委ねる。
走る最中に、鳥が慌てて逃げて行った。
「まぁ、鳥さん。せっかくお休みだったのに、ごめんなさいね」
アリィは呑気なわけではなく、それを真面目な顔で言う。
言った後にはっとして、恐る恐るユオを見た。
「僕も謝った方がいいかな?」
ユオが怒っていないから、アリィは安心する。
「きっと許してくれたから、大丈夫なのだわ」
「そっかぁ、優しいね」
否定されることを覚悟していたアリィだが、そんなユオをじっと見つめた。
「えぇ、お優しい鳥さんだったわ」
受け入れてくれたことが嬉しくて、静かに微笑む。
そのまましばらく走り、二人は街と砂漠の境界のあたりまでやってきていた。
ユオはゆっくりと丁寧にアリィを下ろしてやり、街路樹に凭れさせる。
「ずっと同じ姿勢だったから、疲れたよね?」
態度は優しく、視線はアリィを捕らえて離さない。
「大丈夫よ。貴方って、他の殿方とは違うのねぇ」
そんなユオの様子に、アリィはおっとりとした口調で言った。
「どういうことだい?」
「だって、私の気持ちを確認するのだわ。他の殿方はね、いきなり抱きついたり、触ってきたりしていたのよ。皇太子もね」
「えっ……」
淡々と事実だけを語るようなアリィに、ユオは言葉を詰まらせる。
「そんなことをしたら、失礼だろう?」
どう言葉をかけるか悩み、ユオは笑顔を崩さずに言った。
「侍女を見たでしょう? お父様やお母様やお兄様がいないところでは、いつもなのよ」
「それは……家族に言わなかったのかい?」
「言ってはいけないと言われていたの。それに……きっと、言えばお母様がひどいことをされるのよ。私が我慢すれば、それでいいのだわ」
アリィの虐待は日常のもので、それを語ることすら淡々としている。
今は喜代古から離れたし、家族もここにはいない。
(この人は、鳥さんにも優しかったわ。言っても問題ないわよね)
そう判断してのことだった。
一瞬だけ、沈黙が流れる。
ユオはその僅かな間、アリィに表情を見せなかった。
すぐに顔を上げて、笑顔を見せたのだが。
「君はもう、僕のお姫様だ。君への無礼は僕が許さないし、そんなことをされていい人じゃない」
感情を抑えるように、ユオは静かに言った。
「まぁ。貴方は律儀な人なのねぇ」
アリィはただ、そんなふうに受け取る。
今は駆け落ちして、婚約者のようなものだ。
だから優しくしてくれるのだろう、と。
「違う……人として当たり前のことなんだ。君の家族だって、そう思ってたはずだよ」
ユオはただ、アリィの被虐慣れした思考を元に戻そうとする。
もっとも、長年染み付いたそれは、右から左にどうにかなるものでもない。
ユオはアリィに見えないよう、拳を強く握る。
(まさか、そんなことになっていたなんて……)
怖がらせないよう、表情だけは柔らかなままで。
「家族は私を閉じ込めたわ。六年間、一度も会いに来てくれなかったの。だからきっと、嫌われたのだわ」
言われ続けた悪意を復唱するように、アリィは目を伏せる。
侍女たちはともかく、家族とは仲が良かった。
それでも十二歳の頃、急に離れの城に閉じ込められて――ずっと攻撃されてきたのだ。
「それも違うよ……実はね、君のお兄さんと僕は友達なのさ」
大きな声を出さないよう、振り絞るようにユオは言った。
感情のまま声を荒げれば、アリィを怖がらせるのが分かっていたからだ。
「お兄様と……? でも、六年前のカナンとの交流の時、貴方はいなかったわ」
どこで知り合ったのかと、アリィは首を傾ける。
「別のルートでね。君を閉じ込めて会いに行けなかった理由は……少し複雑なんだ。それには僕も少しは加担してた。本当にごめん」
頭を下げるユオ。
そうされたアリィだが、理由が本気で分からなかった。
「ユオシェム様、顔をお上げになって? 貴方が私を閉じ込めろと、お兄様に命令したわけでもないのでしょう?」
身を乗り出して、アリィはユオの顔を覗き込む。
本気で申し訳なさそうな顔をする彼に、胸が痛んだから。
「もちろんさ。それに、君のお兄さん……シノと出会ったのは、彼が君を閉じ込めた後だったから」
顔を上げたユオは、真っ直ぐにアリィを見つめる。
「それなら、どうして謝ったの?」
「閉じ込められてたのを知ってたのに、数年はそのままでいることを容認したから」
「でも、それはユオシェム様に口出しできることではなかったでしょう?」
理由を聞いても、アリィにはユオに非があるとは思えなかった。
「君が周りに可愛がられていると、ご両親もシノも信じてた……だから、君を皇太子から守るためには、数年はそのままでいた方がいいって、僕が助言したんだ。僕が魔法をちゃんと身に付けてから、連れ出しに行こうって……」
嫌われるのを覚悟で、ユオは真相を話す。
虐待が分かっていれば、そんな判断は下さなかったのに、と。
「ユオシェム様は、見ず知らずの私を守ろうとしてくれたのねぇ」
アリィはふわりと目を細めた。
詳しく理由を聞いても、彼が悪いとも思えない。
家族にも何か事情があったことは悟ったから、むしろ少しばかり気分が楽になる。
「私ね、ずっと死にたかったのよ。今日こそは、終わろうと思っていたの」
天気のことでも話すかのように、アリィは月を見上げた。
ドレスについた砂は、払ってももう取れなさそうだ。
それを聞いたユオが絶望したような顔をするのも、彼女は見ていない。
「でもね、もう自分からは死なないわ。ユオシェム様が助け損になるもの」
ユオの立場は今、アリィ以上に危ないだろう。
世界政府からも目を付けられ、帝国からは爪弾きになったのも同然で。
そこまでして守ってくれた人を、糾弾する気にはなれなかった。
ユオは握った拳をほどく。
「損とかじゃなくて……本当に、君が生きたいって思えるようにしたいな」
立ち上がって、少し照れくさそうに笑った。
そして、街の外に広がる砂漠の方を見る。
「ユオシェム様は、礼儀を重んじる方なのね」
アリィはユオの優しさを悟る。
彼が使用人たちを操って自殺させたことを思い出したのも、それなら矛盾しない。
アリィに対して優しいのは、表面上でも婚約者になったからなのだろう。
「はは、ズレてるんだろうなぁ……まぁいいや、そういうことにしておくよ」
アリィの解釈とユオの真意は、かなりのズレが生じている。
それに気付いている彼は笑うだけで、訂正しようともしない。
「さて、今から砂漠を歩くよ。また抱えてもいいかい?」
アリィは頷くが、同時にはっとする。
「えぇ。ここに来る前に、ラクダさんが引く車で砂漠を通ったのよ」
「そっか、可愛かった?」
「とてもね。でも、車には結界があったのだけれど……魔物がいたの。初めて見たわ」
アリィの顔がみるみるうちに青ざめていく。
「あ、そっか。出鶴は全域が結界だから、陸地に魔物がいないんだっけ。うちは人里にしか結界を張ってないから、出るね」
出る、と言われて、アリィは慌てたようにそわそわし始めた。
「大変だわ……せっかく逃げたのに、魔物に食べられてしまうかも」
「大丈夫だよ。僕が抱えて行くからね」
「確かに、貴方は強いものねぇ」
魔物に食べられることを想像して口をぱくぱくさせるアリィに、ユオは笑いをこらえて平然を装った。
「抱えさせてもらうよ」
「お願いするわ」
許可を得てから、ユオはアリィを抱き上げる。
街の警備の目を盗みながら、二人はとうとう砂漠に出て行った。
アリィは無意識に、ユオの服を握りしめる。
「魔物は魔力の残滓から発生する、ただの害獣なんだよ」
「そうだけど……星慧教団では、魔物は試練の存在なのだわ。試練だから、殺されても仕方がないのだって」
「僕はあんなインチキ教団なんかより、女神様を信じてるよ。本当にそうなら、先人たちが結界なんて張ってないさ」
「そうよね。思えば、矛盾だらけだわ」
アリィは信じさせられていたものに疑問を抱いていたが、それを家族以外には言えなかった。
六年の間、ずっと洗脳され続けていたようなものだったから。
思想の合うユオとの会話が、とても楽しく感じてくる。
そんな中で、巨大な蠍のような魔物の姿が見えてきた。
「魔物だわ……!」
アリィは見ないようにして、ユオの服にしがみつく。
だが――巨大な蠍はユオを見るなり踵を返し、逆に逃げて行ってしまった。
「ほら、魔物の方が僕を怖がってるんだよ」
理論は謎だったが、確かに魔物はユオを見て方向転換したように見える。
その後も、魔物が現れても、ユオを判別するや否や逃げて行く始末だ。
「魔物避けの魔法道具でも開発されたの?」
「ううん、僕が怖いだけさ」
「不思議なこともあるのねぇ」
魔物の生態については、よく分かっていない。
それでも一斉に引いていくので、アリィは見たものを信じるしかなかった。
しばらくそうやって砂漠を渡るうちに、アリィは安心してくる。
「自分で少しは歩きたいわ」
そう言えるようになるほどには、心も落ち着いてきていた。
「積極的なお姫様だ。じゃあ、あそこにある大きな岩まで歩こう」
ユオはアリィを砂の上に下ろす。
目線を同じにしながら、西の方角を指差した。
大きな岩の影が、満月の光を背景にして聳えている。
「えぇ、そうしましょう」
アリィはヒールの高い靴で、一歩だけ進む。
砂は思ったよりも柔らかく、ヒールが埋まり、歩くのには不安定だった。
「歩きにくそうだし、ヒールを折ろうか?」
「えぇ、お願いするわ」
「ちょっと待ってね……」
ユオはいとも簡単にアリィの靴のヒールを折り、砂漠に投げ捨てる。
「よし、行こうか」
ヒールを折ってもなお、足場が不安定だと感じたアリィ。
その気持ちを知ってか知らずか、ユオは大きな手を差し出した。
途端、アリィは顔を真っ赤にする。
「だ、だめよ。手は繋げないわ。はしたないもの」
動揺しながら、自力で一歩進む。
やはり不安定だと思い――仕方なく、ユオの袖を掴んだ。
「はしたないって……手を繋ぐだけなのに?」
ユオはそんな様子を見て、からかうように笑った。
「恋文を交わして、交際した殿方でないとだめよ」
「そっかぁ、恋文からね……袖はいいの?」
「袖は肌が触れていないから、いいのだわ」
「分かったよ。転ばないように、袖を握っておいて」
ユオはまた笑って、真っ直ぐに岩の方を目指した。
どうして笑われるのかと、アリィは首を傾ける。
彼の袖を掴み、転ばないように。
「君も、〈ジェミリオン〉も……僕が守るからね」
ユオは前を向いたまま、宣言するように呟いた。
誓いのようで、執着に近い言葉を。
「〈ジェミリオン〉……?」
あまり聞き慣れない古い単語に、アリィは思わず彼を見る。
「さっ、行こうか」
ユオはそんなアリィを見下ろして、笑顔で言った。
明らかにアリィに合わせて、ゆっくり、ゆっくりと。
満月に照らされて、ふたり分の影が長く伸びていく。
ずっと昔に見た、遠い思い出のように。
(お兄様は、元気かしら)
小さい頃は、兄と手を繋いで月明かりの下を散歩したものだ。
アリィは元から体力だけはあるからか、さほど疲れはしなかった。
「着いたよ。追手は来てないみたいだね」
ユオは大きな岩の前で立ち止まり、岩を見上げて言った。
「ここで休むつもりなの?」
「いや、見てて」
アリィは不思議に思いながら、その横顔を見上げる。
ユオは視線を感じて微笑み返すと、岩に手を触れてまた前を向いた。
「イフタ・ヤ・スィムスィム」
呪文のようなものを唱えた途端、岩は急に震え始める。
自然ではありえないような、きれいな断面を見せて――それは縦に割れたのだった。
その先は星空が広がっているかのようで、アリィは初めて見る光景に驚いてしまう。
「これは一体……」
「行けば分かるさ」
「まぁ、そうなのねぇ」
ユオに優しく誘導され、アリィは戸惑いながらも、その中に足を踏み入れた。




