02 手は繋げない
追手はもちろんやってくるが、ユオはアリィを抱えたまま、足技だけで兵士たちを蹴落としていく。
砂埃が舞い、鎧が転がる音が夜に響いた。
そうして追手は少しずつ減っていき、街の外れに来た頃には誰もいなくなっていた。
「お姫様、大丈夫かい?」
改めて、二人の視線はかち合った。
(この人……お兄様と並んでも遜色ない美男子だわ。不細工というのは、誰が広めたの?)
アリィには兄がいる。
この六年間は遠くから見るばかりだったが――身内でありながらも、相当な美青年だ。
そんな兄に、この人も負けていないと感じる。
ユオは特にタレ目が優しげで、髪と同じ色の睫毛や、笑うと目の下が膨らんで見えるのが特に綺麗なのだ。
背が高いし、腕も太くて逞しい。
どうしても、男なのだと感じてしまう。
「はい。ありがとうございます。まさか、本当に逃げ出すなんて。何とお礼をしたらいいか……」
結婚を回避できたのはいいことだが、アリィは何も持っていない。
この皇子が何を求めているかも分からない今、緊張は解けないのだ。
「それなら、敬語はやめてよ。今はそれだけでいいや」
「そんなことで……?」
「僕にとっては、とっても大事なことなんだ」
「そう……分かったわ」
屈託なく笑う青年は、とても嬉しそうだった。
その理由は分からないが、アリィの恐怖も少し薄れてくる。
しばらく走り、街外れまでやってくる。
街路樹にもたれかかるよう、ユオはゆっくりと丁寧にアリィを下ろしてやった。
「大丈夫? こんなに遠くまで来て、疲れたよね?」
彼の目的は分からないが、やたらとアリィに親切だ。
(この人は、他の男と違う……)
アリィはこれまでの人生を振り返る。
出鶴は本来ならば王族も学校に通うのだが、アリィは家庭学習で大学卒業の課程を修了した。
両親いわく、小さな頃から不審者に狙われていたから、だそうだ。
実感はなかったが、十二歳の頃に思い知る。
カナンと出鶴の交流があり、皇太子――シドゥルに抱きつかれ、まだ子どもの彼女に卑猥な言葉を囁かれたことからだ。
(あの時は最悪だったわ。あんな人と結婚したくない……今思うと、閉じ込められたのはあの時からだった)
あの時、泣きそうになっていたアリィを助けたのは、他でもなく兄だった。
だが、何も言わずにアリィを閉じ込めたのも兄だ。
(きっと、ふしだらだと思われて、嫌われたんだわ)
離れにある古い城に閉じ込められてから、家族は誰も会いにこなかった。
嫌われた理由を探ると、その事件のせいではないかと考えるばかりだ。
「大丈夫よ。でも、どこに行くの?」
「砂漠に避難所があるんだ。そこに行こう。ひとまず着替えなきゃね」
「砂漠って、結界はあるの?」
「ないよ。魔物は出る。でも、僕なら大丈夫さ」
運動神経こそ鈍いが、昔から体力だけはあるので、アリィはさほど疲れていない。
むしろ先ほどの逃走劇によって、頭も冴えてしまっていた。
(この人が強いのは分かったけど……魔物は怖いわ。この国は人里に結界が張られてるだけだもの)
出鶴では全土に結界が届いているので、アリィは見たことがなかったが――ここにくるまでに見かけた魔物は、どれも恐ろしかった。
駱駝車に結界を張る装置があったので、襲われずに済んだのだが。
「近くまで行くから、抱っこしていい?」
「必要に迫られた時なら、許可はいらないわ」
ふざけているようで律儀なユオの問いに、アリィはそれだけ言って返した。
どうせいつか捕まる、という諦観があったから、どちらでもいいのだ。
そうすると彼はまた嬉しそうに抱え上げ、戸惑う少女と逃避行するのだ。
街の警備の目を盗み、とうとう砂漠に出て行ってしまう。
アリィは怖くなり、無意識にユオの服を握りしめていた。
「魔物は魔力の残滓から発生する、ただの害獣だよ」
「貴方は星慧教団の信者じゃないの? 星慧教団では、魔物は試練の存在なのでしょう?」
「まさか。皇后が勝手に決めただけさ」
星慧教団の信者は出鶴にも増えていて、何かに取り憑かれているような怖い印象なのだ。
ユオはそうでないから、信者でないことも明白だった。
「僕は女神様を信じてるよ。まぁ、星慧教団は邪神だとか言ってるけどね」
ユオは微笑み、余裕そうに砂漠を歩いていく。
アリィがいくら小柄でも、人をひとり抱いて歩くだけでもかなり疲れるだろう。
それでも、彼は息ひとつ上げていなかった。
(出鶴の王家は、女神の子孫だからって……星慧教団からは邪神の子孫だと馬鹿にされてきたわ。この人はそうじゃないのね)
アリィはそんなユオに安心して身を委ねる。
と言ったそばから、巨大な蠍のような魔物の姿が見えてきた。
「きゃっ……!」
アリィは更に怖くなって、ユオの服にしがみついた。
だが――巨大な蠍はユオを見るなり踵を返し、逆に逃げて行ってしまう。
「ほら、向こうの方が僕を怖がってるんだ」
理論は謎だったが、確かにユオは魔物に怖がられているようだった。
その後も、魔物が現れても、ユオを判別するや否や逃げて行く始末だ。
(どういうこと? 魔物避けの装置でも持っているのかしら……)
魔物の生態についてはよく分からない。
一斉に引いていくので、アリィは見たものを信じるしかなかった。
しばらく歩いた頃、急に不安になってきたアリィは青ざめた。
(死ぬよりまずいことをしたかも知れないわ)
自暴自棄から、一種の高揚に入っていた。
思い返せば、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
みるみるうちに青ざめていく彼女に、ユオははっとする。
「大丈夫かい? もしかして寒い? 夜の砂漠は冷えるからね……ちょっと待っててね」
的外れながらも心配はしているようで、ユオは一度アリィを下ろす。
かと思えば、自分の上着を脱いで彼女に着せようとしていた。
下に着ている服は、体のラインがくっきりしていて、筋肉質な体が浮き彫りになっている。
「ち、違うの。祖国が心配で……立場が弱い国だから。私の行いのせいで、多くの人がまた苦しむんじゃないかって……守ってくれた貴方には、感謝してるわ。だけど、後で考えたら怖くなったの」
男慣れしていないアリィは、男性の体を見るだけでも恥ずかしくなって目を逸らした。
自分のことだけを考えて行動してしまったことに、罪悪感が込み上げてくる――。
(私がここに来たのは、自業自得だったじゃない。禁書なんかを読んでしまったから……)
アリィは嫁がされることになった理由を思い出していた。
祖国は敗戦以来、ずっと世界政府の実質的な支配下にある。
王族は飾りのようなもので、外交以外の仕事はさせてもらえない。
離れの古城に閉じ込められるまでは家族は暖かかったが、それからは孤独だった。
専属の侍女として付いた喜代古は、そうなる前からアリィを家族に見えないところで虐待していた人だ。
古い城の中、喜代古が訪れるのは憂さ晴らしのみ。
他にすることのなかったアリィは、少し前くらいから地下の図書室で本を見つけた。
それは世界政府が禁じた、女神に関する書物。
本来、焚書されるべきものだ。
世界政府が燃やし忘れたものだと、それを見た時にすぐに分かった。
それでも好奇心は止まらず、何度もこっそり読んでいたのだ。
あまりに面白かったから、一字一句覚えてしまうほどに読み耽った。
神代文字という、出鶴の王族にしか読めないもので書かれていた本だ。
だから大丈夫だろうと油断していたのだ。
それを、数ヶ月前に喜代古に見つかってしまった。
あろうことか、彼女は国王ではなく、世界政府に直に通報した。
正確には、世界政府と繋がっている王家の政敵に。
結果――世界政府からひどく激昂され、矯正のためにとカナンに嫁がせるよう命令されたのだ。
(この結婚は、きっと厄介払いのようなものだったのよ)
アリィの生死など、誰も気に留めていないものなのだと――ずっとそう思ってきた。
(私が死んだとしても、きっと誰も悲しまないわ)
ユオが上着を着直している間、アリィの感情はまた急降下していた。
せっかく浮いてきたと思ったら、また沈んでいく。
死を選ぶべきかと、再び迷い始めていたほどに。
「今回の結婚では契約書を交わしてる。それには、誰と誰の婚約とは書いてないんだ。あくまで国婚……国と国の縁を結ぶものだという契約だよ。お姫様が僕と結婚しても、出鶴も契約違反じゃないってことだね。僕が皇族じゃなかったら、ちょっとまずかったけど」
「それなら、私のせいで出鶴の人たちが苦しめられたりしない?」
「契約上、むしろ出鶴を攻撃した方が分が悪くなるね。まっ、カナン国内では追われる身になるだろうけど。この際だし、君は自分の人生を生きればいいじゃん」
「生きる、だなんて……」
祖国に関しては安堵した。
それでも、アリィはこれから生きていく自分を、うまく想像できなかった。
逃げたとして、一体どんなことをすればいいのか分からない。
「実は、君のお兄さんに頼まれたんだ。妹を助けてくれってね」
ここで言うべきか迷いながらも、ユオは静かにそう言った。
「お兄様に……? 嘘よ、お兄様は私なんか……それに、貴方に何のメリットがあるの? 何もしなければ、貴方は生き残れたでしょう。わざわざ初対面の私のために、こんなことに……」
話題に出たのはアリィの兄の話だったが――当事者である妹には、にわかに信じられないことだった。
「混乱するよね。君がそんな様子だったって気付いたのは、僕らも最近だったから」
優しく目を細め、ユオは彼女の虚ろな顔を見つめる。
(自尊心も失ってるみたいだね……あの侍女か? 他にもいるのか? 全員、いつか殺してやるからね)
何を考えているかまでは分からずとも、落ち込んでいることはユオも察する。
心の中では彼女のことを想っていても、口には出さなかった。
大昔に会っていても、彼女はそれを知らないから。
衝動を抑えるかのように、人知れず拳を握りしめる。
「……ほら、あそこにある大きな岩が見えるかい? あそこまで歩くからね。お兄さんの話は、それからにしようか」
握った手を解き、ユオは朗らかな微笑みを維持する。
今その憎悪や感情を出したところで、怖がらせるだけだと知っていたからだ。
話題を変えるように、その隣に腰を少し落とす。
目線を同じにしながら、西の方角を指差した。
そこには大きな岩の影が、満月の光を背景にして聳えている。
(優しいのね。身を挺して助けてくれた……私がここで死んだら、この人は助け損になるわ)
ユオがあまりに優しかったから、アリィは少し思い留まる。
死ぬのは簡単でも、彼はもう後戻りは出来ない。
一人で遺してしまうのは、理性が咎めるのだ。
「自分で歩くわ。ずっと抱えられてるのも申し訳ないもの」
アリィはヒールの高い靴で、一歩だけ進む。
砂は思ったよりも柔らかく、ヒールが埋まり、歩くのには不安定だった。
「分かったよ。歩きにくそうだし、ヒールを折ろうか?」
「うん、お願い」
「ちょっと待ってね……」
ユオはいとも簡単にアリィの靴のヒールを折り、砂漠に投げ捨てる。
「この方がいいよ。ほら、行こうか」
それでも少しだけ、足場が不安定だと感じたアリィ。
その気持ちを知ってか知らずか、ユオは大きな手を差し出した。
「だ、だめよ。手は繋げないわ。はしたないもの」
アリィにとっては、異性と手を繋ぐことすら、はしたない行為だ。
動揺しながら一歩進むが、やはり少し不安定だと感じ――仕方なく、ユオの袖を掴む。
「はしたないって……手を繋ぐだけなのに?」
「恋文も交わした仲でもないのに、異性と肌を合わせるのは嫌よ。皇太子と無理やり肌を合わせるなら、自分で死ぬつもりだったくらいなの」
「……そんなに結婚が嫌だったんだね」
ユオに寂しそうにそう言われ、アリィはどうして死にたいほど嫌だったのかと考える。
十二歳の頃の事件は、肌が粟立つくらいの生理的な嫌悪感を覚えたのだ。
星慧教団の儀式も嫌だが、相手そのものも嫌だった。
「よく考えたら、結婚自体が嫌ってわけじゃないわ。あの人との結婚がすごく嫌だったの」
「そっか。体面上は僕が婚約者だけど、それでよかったの?」
「いいわ。皇太子よりもいい人みたいだから。それに、本来は結婚相手を選ぶなんて、贅沢は言えない立場なのも分かってるのよ」
「嫌じゃないならいいや」
ユオは笑い、落ち着いた声で語りかけた後、真っ直ぐに岩の方を目指した。
先程までのペースではなく、明らかにアリィに合わせて、ゆっくり、ゆっくりと。
少し気まずくなって、アリィは下を見ながら歩いていた。
満月に照らされてふたり分の影が伸びていくのも、ずっと昔に見た遠い思い出のようになっている。
(お兄様は、元気かしら)
小さい頃は、兄と手を繋いで月明かりの下を散歩したものだ。
引きこもり状態だった姫だが、アリィは元々体力だけはある。
歩きにくいだけで、岩まで辿り着くのに、さほど疲れはしなかった。
「着いたよ。追手は来てないみたいだね」
ユオは大きな岩の前で立ち止まり、岩を見上げて言った。
「ここで休むつもりなの?」
「いや、見てて」
と、アリィは不思議に思いながらその横顔を見上げる。
ユオは視線を感じて微笑み返すと、岩に手を触れてまた前を向いた。
「イフタ・ヤ・スィムスィム」
呪文のようなものを唱えた途端――岩は急に震え始め、自然ではありえないような、きれいな断面を見せて縦に割れたのだった。
その断面の先は星空が広がっているかのようで、アリィは初めて見る光景に驚いてしまう。
「これは一体……」
「僕らが入ればまたこの扉は閉まるよ。行こうか」
「う、うん、分かったわ」
ユオに優しく誘導され、アリィは戸惑いつつも、その中に足を踏み入れた。




