10 月の女神
アリィは錯乱する暇もなく、今どうすべきかを必死に考えた。
何か、手立てはないのかと。
生き残りたいとか、怖いとか、そんな次元の話ではないのだ。
(ユオシェム様……)
月明かりだけが頼りの中、ユオだけが血だらけになって戦う。
ただただ、胸が苦しかった。
彼が血を吐いてしまうのがシルエットで分かる度に、その笑顔を思い出す。
陽気で戯けていて、容赦なく人を殺す残忍さがありながらも、アリィが嫌だと思うことは一切しなかった人。
六年も封じられてきた感情を、取り戻してくれた人なのだ。
(何か、打開策を……)
どんな策を考えても、初心者であるアリィが役に立つ想像には至らない。
想像した先にすら、死が待っているのだ。
動いたところで、悲惨な結果が待つのは目に見えている。
祈りを捧げるしかなくなり、アリィは自身の能力を思い出した。
(そうだわ、私の魔力は月……人を癒やす能力)
魔法の使い方はまだ掴めていないが、それに賭けるしかない。
「月の光よ、力を貸しなさい。女神の子孫、有明が命じます」
今の世界にとって、彼がいなくなることは重大な損失だ。
アリィはもう必死で、月夜の空に手を伸ばす。
すると――周りの音が消え、時が止まったかのように、ユオやヨグトスの姿が固まって見えた。
(夢……?)
とてつもない速度でぶつかっていたのに、別の次元にでも飛ばされたような感覚だ。
「覚悟はあるの? その力を使うと、もう逃げられないわ」
アリィは自分自身の声が、どこからか聞こえてくるのを感じる。
見上げると、月を背後に舞い降りてくるような女性がいた。
姿はアリィと瓜二つで、横髪を真っ直ぐに切った髪型まで同じだ。
それが女神だと悟るのに、刹那すらも必要なかった。
(女神様……いえ、もう一人の私)
理屈ではなく、感覚で理解する。
考えている余裕はなかった。
「あります。何があっても、逃げずに向き合います。だから……彼を助ける力をください」
必死に懇願したら、女神は微笑んだ。
鏡を見ているかのような、不思議な感覚に見舞われる。
「貴女は私、私は貴女。最初から貴女の中に、その力はあるのよ……やっと、ひとつになれるわね」
女神は白い兎を抱いていた。
その兎は清廉な青の杖に変わり、女神の手の上に浮かぶ。
もう一人の自分が念じただけで、その杖はアリィの手の上に舞い降りてきた。
女神は静かに、息を吸う。
「運命の夢杖、清らかな月の兎よ。月の主より、神秘の解放を命ずる。その力を女神の転生者・有明に授け、再び魂の盟約を結べ」
女神は確かに、アリィを転生者だと呼んだ。
何も分からないが、それが真理なのだと知る。
ゆっくりと手に舞い降りてくる杖を――夢にまで見た神秘の器を、そっと受け入れた。
「我が御霊は、運命の夢杖と共に」
女神であり、自分自身との対話の後、アリィは現実の世界でもそう呟いていた。
途端、その清らかな性質の何かが、アリィの中に流れてきて――溶け込んだような気がする。
アリィは目を閉じ、月の魔力を感じ取った。
誰にも教わっていないのに、頭の中に魔法を使う方法が浮かんでくる。
青い宝石が散りばめられた杖はペンダントとなっており、その名を呼べば操れると確信したのだ。
次に目を開くと、ユオは更に傷付いていた。
(どうして、私のために傷つくの?)
敵に対して怒りに似た感情が湧くが、それでは力が出せない。
感覚として、どうすればいいかが体に染み付いていた。
つい先ほどまでは掴めなかった感覚だが、今は魔力の使い方を完全に理解できている。
(彼を守りたい……これからも、一緒にいたい)
アリィの持つ性質は、愛が重要になるのだと――女神の記憶に刻まれていた情報が、杖が、そう叫んでいる。
誰かを大切にすることこそが愛ならば、ユオに対しては既に持ち合わせている感情だ。
「運命の夢杖、お願い」
相手を倒すよりも、大切な人を守りたい気持ちが最大限に達した時――再び杖の名を呼ぶと、ペンダントは杖の形に変化し、アリィの手中に入った。
暗い瑠璃色だったアリィの髪は、まさに有明の空のように白みを帯びてくる。
限りなく白に近い薄青色に、金色の光が差し込んだような色彩へと塗り替わった。
体が月の光に包まれ、その光がアリィに神々しいドレスを着せる。
誰が見ても、それが女神だと理解してしまう姿だった。
天に翳したアリィの杖を軸に、強大な光の柱が生まれる。
月から伸びるような光は、夜の砂漠を青白く染めた。
「女神の杖……そうか、王妃の方ではなく、姫の方が……!?」
遠くから気配を感じ取ったヨグトスは、余裕そうだった顔を歪めた。
青ざめ、翼を広げて遠くに退避しようとする。
「前提が違う!? 早く知らせねば……!」
アリィのその変化は、誰が見ても不可侵なる神聖なものだ。
前提の情報が間違っていたとしても、すぐに受け入れてしまうほどに。
「アリィ、今はダメだ……!」
ユオもまた、それは想定していなかった出来事だった。
名前を呼んでしまうほど、彼にも余裕がなくなる。
ヨグトスはそっちのけで、慌ててアリィのもとに向かおうとした。
「彼を守って!」
ユオの制止は聞こえておらず――少し離れたところで、アリィが叫ぶ。
月から伸びるような光の柱は、彼女の杖を通して拡散していく。
翳された先にはユオと、逃げようとしているヨグトスがいて――二人してその光を浴びるのだった。
柱のように降り注いだ月光は、遠くから見たら雷のように見えただろう。
光は一瞬で消えた。
ヨグトスの断末魔のような声が上がる。
数秒後には、静寂が流れた。
そして――ユオは体を蝕んでいた要因が、全て消えたのを感じる。
(これは……アリィの本来の力。今はまだ……!)
アリィが初めて力を使ったことを、ユオは改めて理解した。
そして、その魂に眠っていた、運命の夢杖を手に入れたことも。
まだ魔力に慣れていない彼女が使えば、下手をすれば命にも関わってしまう。
ユオはヨグトスがどうなったかを振り向く余裕などはなく、彼女のもとを目指した。
案の定、アリィは急に魔力を使った反動で、砂の上に倒れている。
トランが何とか体を浮かし、衝撃を緩和させたようだ。
髪の色も服装も元に戻っていて、杖もペンダントとして首に光っている。
ユオはそんな彼女を抱き上げ、呼吸を確認して安堵した。
顔についた砂を払ってやる。
(よかった……今の彼女には負荷が大きすぎる。魔力切れで済んだなら、幸いな方だ)
彼女の安否を確認し、ユオはすぐにヨグトスがいた方向を見る。
月の魔法の威力で肉体は消し去ったかと思いきや、心臓だけが残って浮遊していたのだ。
「さすが、一番星はしぶといね」
剣を投げて捕らえようとするが――心臓はひとりでに動き、猛スピードで遠くの彼方に消えていく。
(アリィの力はすごいけど、まだ完全じゃない。とは言え、ヨグトスもしばらくは復活できない……ひとまずはよかった)
ユオにとっても今はアリィの安全が第一で、それ以上はヨグトスを追わなかった。
「やれやれ、無茶なお姫様だね。初めてであんな力を使うなんて……僕にはまだ、奥の手があったんだよ?」
眠っているアリィに、戯けたような口調で言う。
彼女が息をしているのを何度も確認して、緊張を解いて脱力した。
「でもね……ごめん。君にもうひとつの姿を見せるのが怖くて、奥の手を出すのを躊躇ったんだ」
感極まり、その華奢な体をぎゅっと抱きしめてしまう。
「にゃあ……」
罰が悪そうにトランがアリィの外套の中に隠れ、ユオを見上げた。
「トラン、ご苦労様。仕方ないさ。アリィは誰かが傷付いているのを、黙って見ていられる子じゃないからね。まさか覚醒するなんて思わなかったけど」
ユオは微笑み、水色の猫を撫でた。
すると安心したのか、猫はユオの手に擦り寄っていく。
「しかし、妙だな……ヨグトスはアリィの母君を、女神の転生者だと言っていた。ということは、まだ騙せていたはずだよ。それなのに、世界政府がここまでアリィを追う理由が分からないんだよね。皇太子が執着してるだけならまだしも……何か他にあるのかな」
ユオは一人、夜空に向かって疑問を投げかける。
トランは首を傾けて「にゃあ?」と鳴いた。
その夜は何事もなかったかのように、静かに更けていった。
☽
数日後――カナンの宮殿は、皇太子シドゥルの機嫌を伺う者たちで溢れていた。
アリィが逃げてから毎夜にわたって宴を開き、侍女たちが閨の相手をする。
皇太子と関係を持った女たちは、前例なく生きて帰ってくることがなかった。
「ヨグトスが有明姫を探知したって言ってたが、三日経っても戻ってこねぇじゃねーか!」
シドゥルは宮殿中の女を次々と食い、尚も満足できずに酒に溺れる。
母親である皇后にも当たり散らしていた。
「少しは落ち着きなさい、シドゥル。ヨグトス様にも何かご事情があるのよ。あの日の夜、砂漠にすごい雷が落ちたのも関係するかも……」
イライラしながらも抑えつつ、皇后はそう言った。
遠くの帝都からも見えていた光を、人々は大きな雷だと思っていたのだ。
「遅ぇんだよ。女神の娘をいたぶれば、純度の高い〈マギカロム〉を手に入れられるって……お前が神託を受けたんだろうが」
シドゥルは鏡を見て、少し薄くなった髪に苛立ちを覚えていた。
高魔力保持者はあまり老けないとは言え、彼らは年相応の見た目だ。
毛根は衰え、体力も低下し、目の周りは小皺が目立つ。
そんな彼が求めているのは他でもなく、オーロラのような輝きを目に灯した少女だ。
(七年ほど前の予言は……女神の娘が奇跡を起こすというものだった)
暴れる息子を冷静に眺め、皇后はため息をこぼす。
(最初は意味が分からなかったけど、彼女こそが奇跡の妙薬の原料だって結論になったわね。シドゥルは有明姫の体と、彼女から作る〈マギカロム〉の究極版を欲しがって、うるさくてたまらないわ)
皇后であり、星慧教団の聖母であるマザー・エイプリルは、稀に眠っている邪神からの神託を受けることがある。
その内容がまさに、アリィを狙う思惑そのものだった。
神託を受けて出鶴を訪問し、十二歳のアリィを初めて見かけた時、本能的にそれは正しいと確信したのである。
それはシドゥルも同じで、以降は彼女に執着した。
出鶴には何度も結婚の打診をし、その度に断られてきた。
かと思えば、病気療養という名目で彼女を閉じ込めてしまう始末。
手が出せなかった折に、ようやく彼女を迎え入れる願いが叶ったのだが――あろうことか、見下していた放蕩皇子と駆け落ちしてしまったのである。
(ラニ皇妃……あの人の最愛だった女。あの女は殺したのに、今はその息子が邪魔をしてくる。殺しておけばよかった)
エイプリルは過去を思う。
皇帝が自らプロポーズしてまで迎え入れた、唯一の妃。
彼が特別に扱っていたのは、後にも先にもラニだけだった。
世界政府の決定で、ラニの処刑が決まった時も抗っていたが――連帯責任で彼女の息子たちも処刑すると言えば、皇帝はラニを泣く泣く諦めたのだ。
ラニに似ていた下の息子のティファは、エイプリルが毒殺した。
それ以降、虚ろになった皇帝はぼんやりしながら過ごしている。
皇帝が政治に興味がないのは、エイプリルにとって都合がいい。
バカで間抜けな皇子は、無能な皇太子の引き立て役になった。
だから殺さなかっただけに過ぎない。
まさかそのバカに裏切られるとは――エイプリルも思っていなかったのだ。
「世界政府も〈マギカロム〉を欲しているわ。私たちで彼女を共有するという約束だったでしょう。ヨグトス様がダメなら、また別の人が探してくれるわよ」
エイプリルは息子を宥めるように言った。
最も優秀だとされるヨグトスが派遣されたのは、アリィを本気で欲しがっている証左なのだ。
彼の目は不思議な力が宿っていて、どこにいてもその人を見つけ出すことができる。
そんな彼でも、七日ほどはアリィの姿を確認できなかったと言う。
それがようやく近くの砂漠でアリィを探知し、すぐに向かったのだが――数日経っても帰ってこないのだ。
今はそれよりも、暴れる息子をどうにかしたかった。
「そうだ、シドゥル。女神の娘ほどではないけど、良質な〈マギカロム〉を取りに行きましょう」
考えた末、皇后は息子を振り向いた。なるべく刺激しないよう、穏やかに語りかける。
「……あぁ、ひとまずそれならいいか」
暴れていたのをぴたりと止め、興味ありげにシドゥルはにやりと笑う。
ようやく終わると安堵したように、エイプリルはその詳細を息子に嬉々として告げた。




