ラピスの部屋
二階のバルコニーの廊下にも同じ色の絨毯が広がっている。
言われた通り左を見ると確かに半分だけ開かれた扉があった。他のたくさんの扉は固く閉ざされているから一目で分かる。
ラピス以外誰もいないというのが本当だとしたら、こんなにたくさんの部屋には何があるのだろう。むしろそっちの方が気になる。私はラピスがまだ来ないことを確認してから閉ざされたドアの一つに手を伸ばしてノブを廻してみた。けれど鍵が掛かっているみたいで開くことができない。他のドアも試してみたがみんな同じように閉ざされていた。きっと普段は使っていないから鍵が掛かっているんだ。
私は自分の言葉で自分に納得させて半分だけ開かれた扉に向かって歩いた。ここも絨毯越しに木の軋む音が足を伝って響いてくる。
ラピスの部屋はエントランスと比べると正反対で光が窓から入ってとても明るかった。
角部屋だから窓は南側と東側にあって、特に南側の方が大きくて外にはバルコニーがある。どちらも白いレースのカーテンが掛かって、開かれた窓から入る風にフワフワ揺れている。
大きなベッドがあって、昔に貴族みたいな天蓋がある。そんなの初めて見た。やっぱりもの凄いお金持ちのお嬢さんなんだ。
ベッドとは反対側には勉強机があって私の本が置いてある。他にはソファーが一つあってその前には小さなテーブルがある。広さは私の部屋の三倍はあるよね。けれど全体を見回すと他には何もない。テレビも本棚もクロゼットはあるけどあまり生活感があるとは思えなかった。
「お待たせ」
私が部屋全部を見終わるのを待っていたかのようにラピスが銀色のトレーを持って入ってくる。その上にはティーポットとカップが二つ乗っていてほんのりベルガモットの匂いをさせている。
「もしかしてアールグレイ?」
「うん。さ、そこのソファーに座って」
言われるがまま素直に座る。見た目は古いのにとても座り心地が良い。クッションは潰れていないし固さも丁度いい。背凭れに体重を預けると気持ちよくてなんだか眠くなる。そうラピスに言う。
「びっくりしたでしょ、みんな古くて。手入れだけはちゃんとしているから問題はないんだけどね」
ラピスはベッドからクッションを一つ持ってきて床に置いてそこに座った。
「とりあえずお茶にしましょう」
紅茶を注ぐと部屋全体がアールグレイの香りに満たされてゆく。
「どうぞ」
一口飲んでみる。
「・・・美味しい」
温度は最適だし濃さだって好みだ。それに鼻から抜けるベルガモットの香りが気持ちを落ち着かせてくれる。
「あ、忘れてた。お茶受け持ってくるね」
立ち上がるラピスに
「待って。私、いいもの持ってきたんだ」
カバンからどら焼きを出す。ラピスはそれを不思議そうな顔で見て
「これは?初めて見た」
「どら焼き初めてなんだ。ま、簡単に説明すると中はアンコでその周りをふんわりと焼き上げた生地で挟んだ和菓子だけど紅茶に合うと思う」
ラピスは珍しいそうに全体を見て、ゆっくりとビニールの包装紙から取り出して手にする。
「へえ、フワフワして美味しそう。それに・・・ハチミツの匂いもする。いただきます」
ラピスは可愛らしい口を精一杯開いて大きく一口頬張る。口の中に入った瞬間の表情はそれ以上語れないくらい素直な笑顔をしている。
「美味しいね、これ。中のアンが固すぎなくてトロトロしているところがいい。それとアンを包んでいる皮もほんのり甘くて見た目通りの食感が楽しい」
素直な感想に満足してから私も一口頬張ると同じことを感じる。ラピスの言うようにトロトロのアンが絶妙なのだ。それから一緒に飲むアールグレイ。この香りの爽やかさが全てを流してくれる。思った通り実にマッチした食べ合わせだとしみじみ思った。
お互い半分食べたところで肝心のお茶がなくなる。
「残りは後でってことで取っておこうか」
ラピスの提案に賛成してお互い目の前に文庫本を置く。それから最初のページを開く。
「ねえ、この間話したこと覚えている?」
「この間って・・・確か・・・」
「そう。どっちがジョバンニでカムパネルラってこと」
あの時は私がジョバンニでラピスがカムパネルラというところで意見は一致していた。
だから同じことを言うとラピスは優しく微笑んだ。
「それで足りない所のこともそうだけど、今、私が知りたいのはどうしてカムパネルラは最後に本当のさいわいに辿り着いたかってこと。ねえ、もちろん現実は残酷だった。けど彼はどうしてそんなことを言ったのかしら?それに本当のさいわいってなんだと思う?」
キラキラした瞳で私に意見を求める。そのこと、私だって疑問に思っている。どうしてその場所がほんとうのさいわいなのか、それは一体何を指しているのだろう?
「私もラピスと同じことを考えたよ」
「それで鈴音はどう思った?」
「そうだね・・・私はまだその答えを見つけていない。それに幸せってその人それぞれ種類があることだと思っているから」
「ふ〜ん。たしかにそう言われるとそうかも。私には私の幸せがあって、鈴音には鈴音の幸せがある。でも不思議なのは幸せならそう書けばいいのに、ここでは『さいわい』なんて言っている。これにはどんな意味があるのかしら」
意味か。私は頭の中の回転を車のギアを変えるようにシフトアップする。けれど車のようにスムーズにいくはずもない。でも今は頑張る。
「そうだね。もしかしたらこの時代の人は幸せのことをワザとそういう風に言っていた、という可能性もあると思うの」
「だったらあえて区別する本意はなんなのかしら?」
さらにギアを上げて考えてみる。私はその時代の人間じゃない。そんな考え分かるはずもない。けどラピスはじっと私が答えるのを待っている。
一つのカーブを抜けるとそこからは急に絵に描いたような真っ直ぐな道が現れる。アクセルをイッキに踏み込むと今まで経験したことない疾走感が全身を駆け巡る。私は今の自分の気持ちを素直に言葉にしてみる。正しいとか正しくないなんてこれから考えたらいい。
「今思いついたんだけど、幸せって書くよりはさいわいって書いた方がその、なんていうか、その人にとっての重みがあるっていうか、深みがあるっていうか。ただの幸せじゃない特別な幸せのことを区別するためなのかもしれない」
ラピスはそのことについて少し考えるように目を閉じた。睫毛もちゃんと金色をしているし、おまけに長くて風に合わせるように揺れている。このまま時が止まったら、きっと美しい彫刻とか絵画の中の天使みたいに見える。とても同じ人間だなんて思えない。閉じられたくちびるを見ていると顔が熱くなってくる。
だって私はそれがどんな感触で、どんな味がするのか知っているから。触れるだけで私は特別な気持ちになれる。きっとこれが本の中と同じ特別な幸せということなのかもしれない。
「特別な幸せ・・・なんかいいね、そういうの」
ラピスは目を閉じたまま言うとゆっくり瞼を開けて今度は私のことをじっと見つめる。そんなに見つめられたら私はまた青色の中で溺れてしまう。
「ねえ、鈴音にとっての特別な幸せってなに?」
そんなこといきなり言葉にできるわけない。無意識の私はラピスのくちびるを見ていた。
「ねえ、そんな視線で見つめられたら・・・」
ラピスは上半身をゆっくりとテーブルの上を越えて
「もっと近くに来て」
私は呪文にでもかかったように近づいて・・・あと数ミリのところで止まる。
「ねえ、私も聞いていい?ラピスの特別な幸せってなに?」
「それはね」
お互いの息を肌で感じる。かすかにベルガモットの匂いがする。
「こうすること」
匂いが濃くなる。それは一日に一回だけ。私が最も求めている匂いと感触。
気が付くとラピスは私の首に手を廻している。自然と同じように手が動く。そしていつもよりずっと長い時間がある。このまま時が止まってしまえばいいのに・・・・・・・・・・・・・・・・・
でもそんなことあるはずもない。ふっと軽くなって瞼を開けるとラピスは元あったようにクッションに座っている。私もソファーに座り直して
「これって・・私達だけの特別なしあわせ・・・でいいんだよね」
言ってて熱い溜息が出る。特別な、本当に特別なこと。
「うん。でも一日に一回だけ。それ以上は駄目なの。こうやって留まっていればずっとこうすることができる。だから夏は終わらない」
ラピスの言葉で全ての時の流れが止まった世界はビデオテープが一時停止した時のように私達の周囲を取り囲む。
それは夏とは程遠い。全てが止まるってこんなに冷たいモノなの?でも気のせいかもしれない。そんなことを感じたのは一瞬よりも短い。そんな瞬間だったから認識するより先に夏は再び廻り始めたからだ。
「・・・・・・ねえ・・・ラピスは本当にカムパネルラでいいの?」
私はもう一度聞いてみる。
どうしてそんなことにこだわっているのだろう。どんな気持ちで聞いているのか、それすら私には分からない。でもラピスの答えは変わらない。笑顔と真面目が混ざったような表情で
「うん。鈴音には似合わない」
そう言うと一瞬だけどすごく真面目な顔になったかと思ったらすぐに崩れて
「そうだ、お茶を新しく入れ直してくる。残りの半分頂きましょう。どう?」
そこにはいつもの夏の代名詞のような笑顔があった。私もそのことはスルーして答える。
「それなら今度は緑茶がいいな。あったらでいいんだけど」
「あるよ。じゃあ待ってて」
トレーを持って部屋を出てゆくのを見送ってから私は立ち上がって窓際に立つ。そしてスマホを出して地図アプリを開いて現在地を確認してからその場所にピンを挿して記録として残した。なんでこんなことしてんだろ?身体が勝手に動いたみたいに感じた。
窓の外の景色は見渡す限り山に囲まれている。海なんってチラッとでも見ることができなかった。それにここはとても静かだ。誰も通ることがない。時折海の方から風が抜けてゆくだけ。だけど道はここで終わっているわけじゃない。どこに通じているか分からないけど、その先のさらに深い木々の中に吸い込まれるように続いている。こんな深く山の中に入ったことはこれまで一度だってなかった。それにこれからだって入ってゆくかどうかなんて分からない。一体何があるのかな。ちょっと怖い感じもする。太陽はまだまだ高い位置にあるはずなのに、私には真っ黒な空間のように見えてくる。それはなんだかカムパネルラが最後に降り立った場所のように映る。
「お待たせ・・・鈴音、どうしたの?」
ラピスの持っているトレーには急須と湯飲みがある。それをテーブルの上に置くと
「何見てるの?」
隣りにやって来て一緒に同じ方向を見る。
「うん、この道ってまだまだ続いているんだなって。この先はどこに繋がっているのかなって。ラピスはさらに奥に何があるか知っているの?」
「知ってるよ。その先には本当のさいわいがあるの」
ドキッとしてラピスの顔を見ると冗談を言っているとは思えない。そんな真面目な顔、もしかしたら初めて見たかもしれない。
「・・・冗談・・・だよね?」
すぐに答えてはくれない・・・なんだか不安な気分になるんですけど。
「ラピスってこの本のことすごく好きなんだね」
「・・・そうかもしれない。でも・・・」
一旦言葉を区切って次の言葉をどこかで探すように目を閉じる。でも再び目を開けた時
「それよりお茶持ってきたの。残りの半分いただきましょう」
なんだかはぐらかされたみたい。でもそれ以上があるなら今はまだ聞きたくないような気もする。だからその提案に賛成した。
ねえラピス。私はあなたと出会ったこと、本当に良かったって思っている。偶然だったかもしれないけど私は嬉しいのよ。
でも最近は少し不思議な気分がすることの方が多いような気がする。もちろんあんなことしているってものある。あなたの言うように毎日が同じで、昨日と同じだって言われても不思議と嘘とか冗談なんて思えないのは何でかな?
本当は・・・本当にあなたは夢の中で言った夏のフェアリーなの?だとしたらあなたは本当は今のことどう思っているの?私のこともどんな風に思っているの?
目の前のあなたは今、美味しそうにどら焼きと緑茶を楽しんでいる。でもこれは本当に現実のことなの?それともどこかで夢の中と入れ替わる起点みたいなのがあって今は本当は夢の中で過ごしているってことなの?
また明日、きっとあなたはそう言ってまた私の前から消えていってしまう。その間一人で何をしているの?何を思って夜を過ごしているの?いつかその道の先に行くことがあるとしたらそれはどんな時?私はもっとあなたのこと知りたいよ。でも私にはあなたの本当の気持ちが・・・・今は分からないの。
私は・・・・・・なぜあなたと出会ったのだろう・・・・・・
順調に12月は過ぎていきます。というか時間、速くない?
読んでいただきありがとうございます。
今年もざっくりあと3週間ってとこですか。
物語も大体三分の一ってところでしょうか。
まだまだ続く夏の物語。
次回も読んでいただけたらさいわいです。
風邪には気をつけましょうね、お互いに。




