↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

八、当たり前品質と魅力的品質

「枠谷さん。私が初めて郷之上署に配属された時、私のことを指して、すごく奇麗で可愛い子が来たな、って静川さんに言ったそうじゃないですか。おかげで枠谷さんのことを意識してしまったんです。でもそのうち口説いてくれるのかなと思ったら、何も言って来ないし、誰かと付き合っているとかいう話も聞かない。それでたぶん枠谷さん、恋愛とか結婚とか興味ない人なんだろうと思っていたんです。そうしたら、今、結婚相談所に登録して相手を探しているっていうじゃないですか。そういうことをするくらいなら私と付き合ってください」


「と、いうことがありましてね」

 枠谷は例のコーヒーチェーン店で並田に説明した。木曜の夕方、並田が車の給油に来たら枠谷がそこでコーヒーを飲んでいた。枠谷は今回特に用事はなく、並田には仮に会っても簡単な報告のみのつもりでいた。しかし、並田が珍しく夕飯など遅れても良い、と詳しい話を聞きたがったのである。

「へえー。さすがイケメンの枠谷さん、若い女性にもてるんですね」

と、並田はにやにやしながら聞いた。

「もっともその話は枠谷さんの視点からでしょう。相手の女性からは、少し違う話が聞けそうな気がしますね」

「それは機会があったら当人に聞いて下さい。塔和美咲という名前です」

「そんな機会があるといいですが。それで十歳年下の女性と、どんなデートをしているんですか」

「先日は並田さんとここで話をした後にドライブをしたんです。その時塔和に、枠谷さんが車で流している曲、私が小学生の時に流行っていたものばかりですね、って言われてしまいましたよ」

「へえー」

「デートをする度に年齢のギャップを感じますね」

「ふむ。あのですね、私の妻は以前、外村精機の製造部にいまして、私と社内恋愛、社内結婚をしたんです。それで妻と付き合い始めた頃、それを知った会社の先輩から、外村精機には明文化されていない不文律がある、って言われたんですよ」

「何です?」

「社内で付き合い始めたら必ず結婚しろ。結婚せずに別れるとその後の人間関係が面倒くさいことになる」

「ほう」

「警察ではそんなことはないですか」

「特に言われたような不文律はないです。ただ、付き合ってから別れたら署内で気まずくなるのは確かでしょうね。まあ、今のところ、署内で知られてはいないんで、ここで駄目だとなっても本人同士が気まずいだけで、それほど支障はないかな」

「警察官同士の結婚って、よくあるものですか」

「あの人もこの人も、というわけではありませんが、そこそこありますよ。ただ、結婚すると同じ署内にはいられないというルールはあります。同じ署内の警察官どうしが結婚したら、少なくとも片方が異動します。警察官ばかりではなく、学校の先生なんかもそうするらしいですよ」

「へえ。うちの会社では工場内で夫婦ということは結構ありますよ。でも部署は同じにはしませんね。私は結婚した時には生産技術部で、妻がいた製造部ではなかったんですが」

「結婚すると、恋愛の時と違って相手の感じは変わりましたか」

「それはもちろん。品質管理には当たり前品質と魅力的品質という考え方がありましてね」

「ほう、それはなんですか」

「当たり前品質というのは、製品やサービスが持っていなければ不満に思われるような品質のことです。例えば、買ったばかりの掃除機がゴミをろくに吸わなかったら、それは当たり前品質を満たしていない、ということになります。魅力的品質というのは、無くても不満はないが、あったら素晴らしいという品質です。床に置いて、スイッチを入れただけで勝手に掃除してくれる掃除機があれば、その機能は魅力的品質となります」

「なるほど」

「でも、魅力的品質も慣れてしまうと当たり前品質に変わるんです。勝手に動いて掃除してくれる掃除機でも、長く使ってそれが普通になってしまえば当たり前品質になる」

「夫婦もそういうものだということですか」

「恋愛は相手に魅力的なところが何かしらあるからするものだろうし、付き合い始めは目新しいことばかりあります。しかし結婚してしばらくたてば相手がそばにいることも当たり前になります」

「魅力的品質は当たり前品質に変わるわけですか」

「その時に当たり前品質をお互い持っているかということですかね。魅力的品質が無くなって、実は当たり前品質も持っていなかったと気づかされることがある。例えばギャンブル依存症があるとかDV癖があるとか、そういうのが結婚後にわかったりして」

「なるほど。ギャンブルに溺れる人となぜ結婚したのか、結婚前に気づかなかったのか、とよく思うものですが、魅力的品質がある時は気づかないわけですね」

「昔のお見合いというのは、お互いに当たり前品質を持ち寄っていたんだろうと思うんですよ。大体似たような生活レベルの相手を探してきて、変な性癖が無いことはお見合いおばさんが保証する。昔、お見合い結婚は恋愛結婚よりも離婚が少なかった、と母から聞いたことがあります。それには理由があるわけです」

「なるほどね」

「どれだけ美人かイケメンかとか、給料が高いか低いかということばかりでなく、当たり前品質を備えているかが重要です。と言っても一緒に暮らしてみないとわからないことも多いですよね」

「並田さんの話は勉強になりますね」

「もっともうちは子供がいますから、お互いがどうこうよりもそっちの方に力が入っています。子供って成長するんで、次々に新しい局面が現れる。当たり前品質同士の夫婦でも、飽きることはないですよ」

「ほう。私ももう三十代中盤ですから、結婚まで行けたら子供は急いで作りたいところですね」

「それでその、塔和美咲さん、でしたか。お付き合いは順調なんですね」

「仕事柄、なかなかお互いの休日が合わないのが悩みの種でね。それに郷之上市だと狭いからどこに行っても人目がある。今度は山歩きでもしようかと思っていますよ。それなら近所でもそんなに人が来ないんで」

「そうですか。うまく行くように祈っています。おっと、もうこんな時間か。急いで家に帰らないと。子供たちが腹を空かせて待っている」


 翌週、枠谷博一は麓に車を置いて塔和美咲と歳日岳を登っていた。涼しくなってはいたが、紅葉にはまだ早い十月のことである。

 さして急でもない登山道を登って行くと、右に道が伸びる分かれ道がある。頂上への道はまっすぐだが、右に曲がると見晴らしのよい展望台に向かう。そこは、以前に白骨死体が発見された崖の、上側に当たる(第五話、図5)。

「ここ、例の白骨死体の」

「はい。知っています」

 二人は話をそれだけですませて右には曲がらず、真っ直ぐに頂上へ向かった。お互い、デート中に死体遺棄事件の話など、したくはなかったのだ。

 登り始めて、頂上には一時間ほどで着いた。二人の他に誰もいなかった。頂上は、街のある東側は木が茂っていて見晴らしが悪い。しかし西側の奥羽山脈はよく見える。そこには腰掛けるのにちょうど良い岩があって、二人はそこに座り山々を見ながらそれぞれに持参した昼食を食べた。

「枠谷さんって、登っている最中にほとんど話をしないんですね」

 塔和が少々詰問調で尋ねた。

「そんなんじゃ、婚活はうまくいきませんよ」

 少し笑いながら言っていたので、怒っているのではないらしい。

「結婚相談所に紹介された女の人が相手だったら、それは話すさ。気を使って。でも後輩の警察官に気を使う必要はないだろう」

 水筒に入れた麦茶を飲みながら、枠谷は答えた。

「塔和こそ、黙々と登っていたじゃないか」

「女同士なら、わたしは喋り通しになるんですけどね」

 塔和は、今度は言い訳めいた口調になった。

「憧れの先輩とデートだから緊張していた、ってことにしてください」

「よく言うよ」

 二人は笑った。ようやく打ち解けた感じになった。

「塔和さあ、若くて綺麗なのに、なんで俺みたいなおじさんと付き合う気になったの」

「それは、私のことを若くて綺麗なんて言ってくれるのが枠谷さんだけだからです」

「ははは」

「他の男の警察官は女扱いしてくれなくてこき使うだけだし、あと仕事上で付き合いのある人って言ったら、女扱いしてくれても相手は犯罪者とかじゃないですか。そうでなければ違反キップを切っていたり。そんなところで恋は芽生えないです」

「なるほどな」

 一度郷之上署管内で窃盗事件があり、窃盗犯が山越えをして逃げたのではないか、と推定された時がある。署員で山狩りをしようかと相談していたときに、塔和がトイレの心配をしていたのを枠谷は思い出した。男はその辺で用を足せばいいと思っているが、女ならそう簡単ではない。だが、男性の警察官は女性の警察官を女扱いしないからそこまで頭が回らない。

「それでは、お嬢さんがトイレに行きたくなる前にとっとと山を降りるか」

「デートでそういう色気のない言い方をしないでください」

 二人は連れ立って山を降りた。しばらくすると十メートルくらい前を三十代くらいの夫婦らしき二人連れがこちらに向かって登ってきた。夫婦で山登りというのもいいな、とふと枠谷は考えた。塔和も似たようなことを思っていた。

 するとその時、下から登って来た二人連れが、上から見て左に曲がる道に入っていった。例の、白骨死体が見つかった崖の上へと続く道だ。

 枠谷と塔和は顔を見合わせた。その二人はどんどん崖の上の展望台へと続く道を進んでいった。

「向こうは東側の景色が良い。街が見えるし」

「でも私らは降りましょうか」

「そうだな」

 やはり死体遺棄事件の現場など、仕事でもないのに行きたくはなかった。枠谷と塔和は予定通りまっすぐ歳日岳の登り口へと下って行った。

 その後、二人はこの時の選択を悔いることになる。


 翌朝、三十代前半らしき男性の死体が歳日岳の崖下で発見された。その崖下ではソーラーパネル建設が始まっており、作業者の一人が発見し通報した。

 崖下へ至る道は、白骨死体を発見したおよそ三ヶ月前とは異なり、草木が刈り払われて歩きやすくなっていた。そこに倒れていた死体を見て、前日に登山道で見た男性だと枠谷はすぐに気がついた。薄緑色のジャケットに見覚えがあった。

「この人は昨日、登山道で見かけた。十二時と十二時半の間ぐらいだったと思う。俺が歳日岳の登山道を降りてきた時に下から登って来た。すれ違う前に、この人はここの崖の上の展望台への道に入っていった。女性が一緒だった。夫婦だと思った。女のほうは、オレンジ色のジャケットだったかな。帽子を被っていたと思う」

「枠谷さん、山歩きとかするんですか」

 一緒に来ていた静川が尋ねた。

「たまにはね」

「枠谷さん一人で?」

「いや、塔和と一緒だ」

 二人とも事件直前の目撃者だ。それを黙っているわけにはいかない。

「えっ? 塔和と二人で。ええっ? 枠谷さんが。ああ、そうなんですか。枠谷さんと塔和が二人で歳日岳。へえ、なるほど」

「何を驚いているんだ」

「それは、驚きますよ。いつの間に二人がそんなことに」

「仕事だ、仕事」

「ああ、はい。事件前に目撃者が二人、と」

 鑑識の確認が終わり、死体が運び出された。

枠谷と静川が署に戻ると、塔和が呼び出されていた。

「亡くなったかたと登山道で一緒にいた女性ですか。恐らく三十代前半で身長は160センチくらい。オレンジ色のジャケットに灰色のボトムス。頭にはサンバイザー。化粧は、軽く顔全体を白く塗る程度だったと思います。ええ、会えばわかります」

 塔和の話を聞いて静川が感嘆した。

「枠谷さんよりも、塔和のほうがよっぽどよく見ているじゃないですか」

「ああ、まったくだ」

 所持品から亡くなったのは仲田公泰三十四歳と特定できた。死因は転落死で、亡くなったのは前日昼の十二時半ごろとされた。

枠谷と静川はパトカーで仲田の住む家へと向かった。

「静川。車を止めろ。向こうから例の、亡くなった仲田と一緒にいた女性が歩いてきた」

 車が止まると、枠谷は車から飛び出して女性に声をかけた。

「警察の者です。昨日、仲田公泰さんと山を登っていたかたですね」

「はい。仲田の妻です」

「公泰さんが亡くなられた件について、警察までご同行願えますか」

「今、そちらに行こうとしていたところです。連れて行ってください」


 仲田未穂の供述。

「夫とは大学時代に知り合いました。テニスやスキー、登山によく二人で行ったものです。いま思えば、あの頃が一番楽しかった。

 私は卒業してからA商社仙台支店の総務に勤めました。現地採用で転勤もないし大手で良いところに就職したと最初は思っていました。ところがあることをきっかけに大変な目に遭いました。入社して半年してから、顧客データの管理方法について改良を提案したんです。今でも間違ったことは言っていなかったと思うんです。でも、古株の女性社員の逆鱗に触れたらしくて。その人がそれまでのやり方を構築したもので、慣れたやり方を変えたくなかったらしいんです。それから総務の女性社員全員から疎まれて無視されるようになりました。わからないことを相談しても誰も答えてくれない。総務の男性の上司に相談しても女同士の争いには一切首を突っ込もうとしない人でした。仕事をしている間はずっと、辛さに耐える時間でした。

 結婚したのは就職して二年後です。夫にプロポーズされて渡りに舟という感じで寿退職しました。働いている間の印象が悪すぎて、もう二度とどこでも働く気にはなれませんでした。

 最初は幸せな結婚生活だと思っていたんです。でも四年ぐらいしたところで、ご飯を作って夫を待っているだけの生活がだんだん苦痛になってきました。夫は突発的に残業することがあって、作ったご飯を一人だけで食べるようなことも時々ありました。そうした時、夫は会社にある自販機でカップ麺やパンを買ってそれですませて、疲れ切って帰るとすぐに寝てしまうんですね。朝は朝で慌ただしいことが多いし、私は、ああ、今日はほとんど誰とも話さない一日だった、なんて思ってしまうんです。

 その頃から、子供が無性に欲しくなったんです。結婚した当初は、出来ても出来なくてもいいか、なんて夫と話していたんです。私の両親も夫の両親も孫はまだかって盛んに言っていたんですが、無視したり受け流したりしていました。でも子供がいたらいいな、大変かもしれないけど無我夢中で毎日が過ごせるほうがいいなって、結婚してその四年後くらいから切実に思うようになりました。それに自分が子供の頃に母に言われたことを思い出しました。

「あなたも女に生まれたんだから、女の人生を送りなさいね」

女の人生って何? と聞いたら、

「男の人と結婚して、子供を産んで育てなさい。他のことは好きにしていいから」

 女の人生を送りたい。そう思うようになったんです。それで不妊の相談に婦人科に行くようになりました。

 ところがいくら調べても私の体のほうには問題がありませんでした。

 夫は不妊治療に積極的ではありませんでした。それを説得して、夫を病院に連れて行きました。そうしたら夫は無精子症でした。調べるのが大変みたいで、あの、玉、に針を刺すんでしたか。ずいぶん痛そうでしたが、それで精密に調べてもらいました。それが、夫の精子に問題があって顕微授精も難しいと言われました。ずいぶん手間とお金がかけて、男性不妊の専門医のいくつかで調べてもらったんです。ですが、どこも同じ回答でした。

 ああ、私は女の人生は送れないんだ、と思いました。落ち込んでいる私に、夫は養子をもらうか、精子ドナーを使うかと言ってくれたんです。でも、夫以外の子供が欲しいとは思いませんでした。

 実を言うと夫は私以上に落ち込んでいました。特にそれまで子供が欲しいなどと、夫は言っていなかったんです。でも、自分の体のせいで自分の子が持てないというのは堪えたんでしょうか。仕事から帰ってきても夫は家では何も言わない。食欲も落ちたような毎日でした。

 そんな時、夫に山歩きに行こうか、と突然誘われたんです。歳日岳には新婚の頃に行って、展望台の崖から夫が郷之上の町を見下ろして、ここで暮らしていくんだと声を掛けられたことがあります。それからですから、ずいぶん久しぶりです。夫は珍しく、明るくて晴れやかな声でした。思わず、行く、と答えていました。

 歳日岳の途中の分かれ道で、右に行こう、と夫が言いました。町がよく見えるからと言って。新婚の頃を思い出しました。それで懐かしくなって一緒に歩いて行きました。

 夫は崖の上に立って、町を見下ろしました。おお、いい景色だと言って。私は崖が恐くて夫のすぐ後ろで見ていました。

 それから、

 あの、

 覚えていないんです。

 気がついたら、夫がいなくて。

 へたりこんで崖の下を覗いたら夫が下に落ちているのが見えました。

 あの、

 私が知りたいんです。私が押したんでしょうか。夫が足を滑らせたんでしょうか。それとも夫が自分で飛び降りたんでしょうか。

 気がついたら私は家に帰っていました。

 家でもずっと、何が起きたんだろうと考えていました。ああ、警察に行かなくちゃ、と思ったのは今朝になってからです。すみません。教えてほしいんです。いったい何が起きたんでしょう」


「聞いてた?」

「ええ。隣の調べ室で」

 枠谷が取調室で、亡くなった仲田公泰の妻、仲田未穂と質疑をしている間、塔和美咲は隣の部屋でそのやり取りを聞いていた。

「私も亡くなった人を、奥さん以外で最後に見た人ですから、聞いておけって話で」

「どう思った?」

「殺人か、事故か、自殺かってことですか。わかんないです。それよりも、あの時、山の下りであの夫婦を見かけた時に、二人の後をついていけば良かったと思っていました」

「そうだな。何が起きたのかわかっただろうし」

「いや、周りに私らがいれば止められたんじゃないかと」

「そっか、塔和は、事件が防げたかも、って考えるのか」

「枠谷さんは、真相究明ってことを考えるんですね」

「でも刑事はそれが仕事だし」

「犯罪や事故をなくすための警察でしょう」

「塔和は人間的だな」

「枠谷さんは職務に忠実だとは思いますけど」

 二人は署の給湯室で会話をしていた。周囲には誰もいなかった。

「ところでさ、美咲」

 突然、枠谷に名前のほうで呼ばれたので、塔和は身構えた。

「なんですか、博一さん」

 塔和も枠谷の名前のほうで応えた。

「こんな時に、こんな所でなんだが、俺たち、付き合っているのがばれてしまったことだし、結婚しようか」

「こんな時に、こんな所で、ですか」

「いつ、どんなところなら良かったんだ」

「夜景の見えるレストランか何かで婚約指環を見せながら言ってくれるんなら良かったんですけど」

「夜景の見えるレストランなんて、郷之上にはないよ」

「それもそうですね」

「いや、なんだな、山であの夫婦を見かけた時に、幸せそうな二人に見えたんだよな。それがあんなことになって、夫婦の幸せって何なのかと思ったんだよ。なんなんだかわかんねえと。それで、この一番わかんない時に、不幸な結果になった夫婦を見た後に結婚が決められるんなら、いま取調室で聞いたこと以上に悪いことは起こらない、ってふと思ったんだよ」

「何を言っているのかわかりませんが」

「それで返事は」

「いいですよ」

 一瞬、間があってから、枠谷が口を開いた。

「ああ、なんか、あっさりしてるな」

「それはお互い様です」


「と、いうことがありましてね」

 その日のうちに、枠谷は例のコーヒーチェーン店に並田を呼び出した。月曜日で、午後から雨が降っていた。美咲との間に進展があったと話すと、並田は雨だからとランニングを中止し、就業直後に喜んでやってきた。そこで枠谷は歳日岳の事件とプロポーズの結果について、要約して話した。

「ええっと、いろいろ話したいことはありますが、まずは、おめでとうございます」

「ありがとう。ところで私らのことは置いといて、並田さんは、この奥さんの話、どう思われますか」

「殺人か、事故か、自殺かということですか」

「実際のところ、証拠は何もないんで、この奥さんがわからないと言ったらわからないんです。殺人事件として扱うのは、とても難しいですね」

「それはそうでしょう。ところで、不正の三要素というのがありましてね。企業で帳簿を誤魔化して着服する、などという内部不正が起きる場合には、動機、機会、正当化、が揃った時だ、と言われています」

「動機、機会、正当化。どこかで聞いたような気がするな」

「いま借金で金に困っている、これが動機。会社の帳簿管理を任されていて他にチェックする人がいない、これが機会。世の中でこういうことをやっているのは自分だけじゃない、給料が安いんだからやったっていい、これが正当化。これが揃うと、帳簿をごまかして浮いた金を自分の口座に振り込む、などという犯罪が起こる」

「なるほど」

「それを今回の事件に当てはめてみましょう。その奥さんは殺人を犯す機会がある。目の前のご主人を押すだけですから。それに動機もなくはない。このご主人が夫なら自分は子供を産めない。それは殺人の動機になるかもしれない。ただ、正当化に値する言葉は奥さんの話の中にはありませんね。例えば、自分が他の人と結婚して母親になるためには、このご主人が生きていてはいけないとか。そういうのが正当化なんでしょうけど、そこまでは言っていないでしょう」

「なるほど」

「それから、何が起きたか覚えていない、というのが気になります。これが嘘を言っているというのなら殺人なんですよ」

「でも、嘘を言っているようには思えませんでしたね」

「じゃあ、本当のことを言っていたと信用してみましょう。するとどういうことになるでしょう。私の会社の知り合いに、四十代で若くして奥さんを癌で亡くされたかたがいます。それが、奥さんが亡くなった瞬間のことを覚えていないと言うんですね。亡くなる時に立ち合ったはずだが、医者が死亡診断書を書き始めたところからしか覚えていないと」

「へえー」

「人間は精神的なショックが大きいと、自分を守ろうとするというか、つらかった記憶を消してしまうことがあるらしいんです。とすると、この奥さんには、何か精神的につらい、衝撃的なことがあったのかな、と思うわけです」

「ご主人が崖から落ちた瞬間に」

「そうです。それで、何があったら奥さんはショックを受けるのかな、と。そこで、奥さんが最初から殺そうと思ってご主人を背中から押したのなら、これは予定の行動です。それなのにショックを受けるでしょうか。それよりも何か忘れたくなるようなことをご主人から言われた、などということのほうが衝撃的じゃないかと。例えばそうした事の直後に自殺されたと」

「ふむ。少なくとも計画的な殺人とは考えにくい、と言っていますね。何かを言われた後の自殺か」

「まあ、人が何に衝撃を受けるか、なんて、その人じゃなければわかりませんけどね」

「つまり、私らでは、何があったか推定もできないということですね」


 取り調べが終わって、仲田未穂は自宅に帰ってきた。

 2DKのアパートだ。子供が出来たら家を建てよう。夫とそんな話をした新婚の頃から何年経っただろう。八年くらいか。

 自分宛ての手紙が届いていた。夫の字だとすぐにわかった。二人で山に行った前日か、当日の朝に夫が出したものらしい。急いで開けて読んでみた。


仲田未穂様

公泰です。最期に二人で、以前のように山から、二人が暮らした郷之上を見ておきたかったのです。目の前であのようなことをして、驚かれたと思います。

 私のために子供が出来ないと知った未穂を見続けるのはつらすぎました。私がいなくなった後は、なるべく早く誰かと再婚してください。

 遺言書は知人の弁護士に預けてあります。連絡先は以下に記しました。未穂に全てを残すように書いてあります。

 後のことはよろしくお願いします。

仲田公泰   

  連絡先:〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇


 未穂は全てを思い出した。

 夫の公泰は、それじゃあ後はよろしく、とだけ言って崖から身を投げたのだ。

 こんなに呆気なく、ただの挨拶のような言葉の後で、夫が亡くなっていい筈がなかった。

未穂は夫が亡くなってから初めて泣いた。


「結局、警察側も自殺だったという結論になりました」

 何日か経った後、例のコーヒーチェーン店で枠谷が並田に事件の結果について話をした。

「遺書があって、奥さん当人がそう言うのなら、そうなんでしょう」

「ところで歳日岳の崖ですけど、転落防止の柵をつけるらしいですよ」

「遅いですね。前の、白骨死体が見つかった時に考えればよかったのに」

「来年度予算に計上しようとしていたらしいです。しかし、今回の事件があって前倒しになった」

「そうですか。急いだほうがいいでしょう。歳日岳が自殺の名所になっても困りますしね」

「まったくです。ところでですね、先日並田さんが当たり前品質と魅力的品質について話していたじゃないですか」

「ああ、しましたね」

「子供が欲しいと思ったときに夫が種なしだったというのも、当たり前品質を満たしていないということになるんですかね」

「ああ、そうかな。でも難しいですね。結婚前からそういうことを調べている人もそういないでしょうし」

「それで先日、話していた警察署の後輩との結婚についてなんですがね」

「はいはい」

「結婚相手、美咲がですね、結婚したら、子供は二、三人欲しいって言っているんですよ。でも、先日の事件もあったし、もし結婚して何年もして、子供が出来なくて、俺が種なしだったらどうする、って聞いたんです。お互いの魅力的品質が当たり前品質になった時にそんなことだったらどうするかと」

「美咲さん、何て答えました」

「犬飼います、って。番犬と愛玩犬と二匹」

「はあ、なるほど」

「俺は猫のほうが好きなんだが、と言ったら、犬も猫も飼いましょう。子供がいてもいなくても家の中や庭に、生き物がたくさんいる家がいいです、って」

「いいんじゃないですか」

「でもそれだと、一軒家を買わなきゃいけないじゃないですか。それに仕事柄二人ともいない日がある。犬猫の預け先を考えないといけない。あるいは犬猫のために世話をしてくれる人が必要かもしれない。そうなると二人で頑張って相当稼がないといけない。結構大変ですね」

「それはあれですね。生涯設計と言うやつです。まあ、枠谷さんも頑張ってください」




参考文献

・泰三子「ハコヅメ〜交番女子の逆襲〜」講談社


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。