十、PDCA
三月吉日日曜日の昼、仙台市内のホテルで枠谷博一と塔和美咲の結婚式が執り行われた。
時間通りに来た並田が会場内に入ると、礼服を着た男たち女たちが自分の席に着こうとしているところだった。席は円卓。招待客は百人ほど。並田が座ったのは、新郎新婦の座る席を正面に見て、中央やや左寄り。円卓内は並田以外全て警察関係者だった。並田の左側は静川啓志である。枠谷の相棒で、最初の大道工業の事件以来、何度か会ったことがある。
挨拶をすると、
「並田さん、お久しぶりです。実はこの結婚式の司会を仰せつかりましてね。立ったり座ったり、ばたばたしますがよろしくお願いします」
ということだった。
左隣との挨拶を済ませて右隣を見ると、こちらの男性は見覚えが無かった。しかし椅子の前にあった名札の名前には覚えがあった。
「仙台北警察署の河咲宏太です」
「ああ、あの、枠谷さんの友人という」
「そうです。西迫台豪邸の事件と歳分町マンションの事件ではお世話になりました。一度お伺いして御礼を申し上げなければならない、と思っていたところで枠谷君が機会を作って隣にしてくれました。その節はありがとうございました」
並田さんの席の隣は警察関係者でしょうけど、会話をしやすそうな人にしますよ。そう枠谷は語っていた。だが会話しやすいと言うよりは、並田が黙っていても並田に話しかけてくる人物が隣に来た、と彼は思った。警察関係者の知り合いがさらに増えそうだ、という予感がした。
「河咲さんは、枠谷さんの同期なんですね」
「ええ。警察官になった時期も、刑事に昇進した時も同じです。現在、署は違いますが気が合うのでよく連絡を取り合っていますよ」
「仲の良い友人なんですね」
「ええ。並田さんは殺人事件がきっかけで枠谷君と知り合いになったとか」
「はい。私が勤務している会社の、隣の工場で品質管理をしているかたが、道路で亡くなっているのを就業後のランニング中に発見しました。あれは一昨年の十月ですからもう一年半近く経ちます」
「枠谷君から聞いたのですが、裏で工場の品質不正が絡んでいたとか」
「そうです。その大道工業の品質不正については、昨年の六月に第三者委員会から公式の調査結果が報告されました。確か、発覚したのが一昨年の十二月だから半年後ですか。精度の出ない古い機械を使い続けて、しかし検査書類を偽造して精度が出ているように偽って、客先に納入していたという件です。調査結果では、本社は関与していませんでしたが、工場内では関係する製造部ばかりではなく工場長まで不正を承知していました」
「工場全体でトップから関与していたということですか」
「品質管理部以外の関係部署全部ですね。工場長の下に製造部部長、その下の課長が殺人事件の犯人でいわゆる現場監督にあたります。それから現場の該当する製造ライン。そして現場の検査部門。その全てが関与していました。大道工業で作っていた問題の製品はプラスチック成型用の金型なのですが、その製造機械が老朽化していた。注文は減りつつあるし機械の新調は金がかかりすぎる。かと言って出来なくなりましたと注文を断って売り上げが無くなるのも痛い。そこで注文が無くなるまで精度の出ない製品であっても作って売ろうと工場長以下、本社に秘密の会議を行って決定した。そうした製品の納入を一年半続けていたということです」
「それが品質不正だと」
「そうです。サイズの精度が伴わない、つまり品質が低い製品を知っていて売っていたわけですから」
「そうした製品を買った側は、それに一年半も気づかなかったわけですか」
「納入時に受入検査が厳密ではなかったんですね。それにそれまでの実績があれば、検査記録を信用して個数が合ってさえいればよしとする場合もあります。また、買ったものをすぐ使うとは限りません。年度予算を使い切って名目上の利益を減らし法人税を軽減させる。そのために早めに購入する。そうしたことも会社によってはあり得ます。そうした時は購入してから使用するまでタイムラグがあります」
「それがバレたわけですか」
「納入先の企業では、例の殺人事件があってから納入されていた製品を調査した。納入された金型で作製したプラスチック容器の、下の容器と上の蓋を合わせます。その時に上の蓋が下の容器とサイズが合わないとまではいかないが、合わせるのが苦しい製品が中にはあったようです。そこで検査結果とサイズを突き合わせてみると明らかに異なるものがある。それで大道工業に乗り込んで、それまで以上に厳密な監査を行って不正が発覚した」
「そうしたプラスチック製品は、通常は売りに出せないわけですか」
「そうとも限らないみたいですね。合わないとまではいかない、ということなので。こうしたプラスチック容器の場合、製品を作って売りに出しても最終的なお客さんからクレームが出ないこともある。運よくそんな製品ばかり続いてバレなかったら、おおもとの金型を納入する側は精度が出なくても大丈夫だと安心してしまう。納入される側も今回のように綿密に調べない限り気づかない」
「なるほど」
「話が戻りますが、殺人事件が先ほども話したように一昨年の十月にありました」
「現場監督の製造部課長が品質管理部の課長を殺害した事件ですね」
「はい。大道工業では検査は品質管理部から製造部の検査の部署に委託するという形を取っていました。そうした形であれば、工場の検査部門というのは品質管理部門と関係が深い。うちの会社でも、つまり外崎精機の品質管理部でも、検査をする部署とは部品の受け入れから製品を出すまで、何かしら検査部門と連絡を取り合うことが多いです」
「なるほど」
「大道工業では出荷前検査のデータは品質管理部に行くようになっていたらしいですね。そのデータが実は改竄されていたわけですが、それが怪しいと殺人事件の直前に、品質管理部の担当者、挟間さんが気づいた」
「なぜですか」
「データが綺麗すぎる、だそうです」
「ほう」
「検査者は数値があるべき値、範囲内の閾値から外れると、黙って中央値に改竄していたそうです。その中央値になっている頻度が次第に多くなり、それが不自然だと挾間さんが感じたらしいですね。そこで検査者を問い詰めたら誤魔化しきれなくなった。それで検査者が、値を操作する前のデータと操作後のデータの両方を挾間さんに渡したというのです。それで検査者に挾間さんは、後は自分が担当の砂沼課長と話すと言っていたそうです」
「そしてどんな話になったんでしょうか」
「それは裁判で砂沼被告が話していました」
その時、式場の明かりが落ちた。
「おや、もう始まりますか」
気がつくと、左隣にいたはずの静川が司会者マイクの前に移動していた。
「お待たせいたしました。それでは、新郎新婦の入場です」
式場の扉が開き、スポットライトに照らされて、紋付羽織袴を着た枠谷博一と、色打掛に金襴緞子の帯を締めた塔和美咲が現れた。会場は拍手喝采である。バックに流れる曲は長持唄。
蝶よ花よと育てた娘 今日は他人の手に渡る
「なるほど、コンサバティブですね」
並田が河咲に声を掛けると、河咲は首を振った。
「いやいや、コンサバティブな結婚式というのは、田舎家の大広間の、畳の上でやるものでしょう」
「ははは、そうですか。河咲さん、ご結婚は」
「していません。人と向き合うのは警察の仕事だけで十分ですよ、私は。仕事が終わったらひとりになりたいです」
「おや、そうですか。このところ結婚する若者が少ないなどと聞くのは、そうした人が多いからですか」
「いやいや、自分の話は自分だけのことで、他の人についてはわかりません。定職に就いていないから金がないとか、そんなことで結婚できない人が多いんじゃないですか」
新郎新婦が席に着くと仲人が二人の経歴などを話した。生まれた土地、学歴、警察学校、配属、転勤。
「詳しくは私も存じませんが、その後、枠谷さんと塔和さんのお二人は郷之上署で仕事中に接する機会があり、恋におちた、のですよね? お二方。よろしい。そういうことでございます」
拍手。
その後、警察関係者、警察学校関係者といった来賓の挨拶があって、乾杯の音頭があり、式は順調に進んだ。
司会の静川が少し高めの声を上げて、聞いてくれと注意を促した。会場が静かになった。
「先ほど、お仲人がお二人の交際につきまして、詳しくは知らないと仰いました。私も詳しくは存じませんでしたので、それでこの式の何日か前、新郎新婦のお二人に交際のきっかけについて聞いてみました。枠谷さんの話によりますと、先輩は結婚相談所に入会して結婚相手を探していたのですが、それを知った塔和さんが、そんなことをするくらいなら私と付き合ってくれと言ったと」
ほほう、という会場内の声。
「塔和さんに本当かと聞きますと、冗談で言ったつもりだったのだが、本気に取られて引っ込みがつかなくなったと」
笑い声。一番笑っていたのは当の枠谷だった。
「それから、それぞれお相手のどこが気に入りましたかと質問をしました」
再び、会場内が静かになった。
「枠谷さんの言葉によりますと、美咲は、ええっと、もう枠谷さんはもう名前を呼び捨てで呼んでおります。美咲は若くて綺麗なのはもちろんだが、付き合ってみると芯が強く動じないところがある。しっかりした家庭を築けそうだ、ということでございます」
拍手。
「次に塔和さんに枠谷さんのどこが良かったかとお尋ねいたしますと、ルックスかなあ、と」
若干の笑い声。
「塔和さんの言う通り、枠谷さんは郷之上署の誇るイケメン刑事であります。さて、それではみなさん、しばらくご歓談ください」
その後、静川が並田の隣に戻ってきたので、並田が聞いてみた。
「塔和さんって、枠谷さんのルックスの話しかしなかったんですか」
「他に塔和は、これは運命だからそれを逃したら自分は一生独身だと思ったので、とも言っていました。ただ、それを言わなくてもちょっと笑いが取れたからここで止めていいかなと」
「へえ」
「塔和が枠谷さんと付き合おう、結婚しようとしたのには、何か他にも理由がありそうな気がするんですが、ちょっと聞き出せなかったですね」
「何か秘密のきっかけでもあったのかな」
「さて、どうでしょう」
「枠谷のところにちょっと話に行こうと思うんですが、一緒に行きませんか」
右隣の河咲に誘われたので、並田も手近なビール瓶を持って席を立った。
「おめでとう」
河咲が先に枠谷に声をかけた。後ろに並田がいるのを見た枠谷は河咲に小声で、
「並田さんに相談してみた?」
と聞いた。河咲は、まだ、と笑って答えた。次は並田が枠谷と話す番だった。
「おめでとうございます。付き合い始めた、と聞いた時から、もうトントン拍子でしたね」
「並田さんのアドバイスのおかげですよ」
「私は何もしていませんよ」
その頃、河咲は塔和に、枠谷君をよろしく、などと言っていた。それに続いて並田が塔和に声をかけた。
「どうも、初めまして。外崎精機の並田です」
「ああ、あの、博一さんが、よくお世話になっていると言っていました。もう名探偵なんだとか」
「私は枠谷さんに品質管理のよもやま話をしているだけです。真相究明や犯人逮捕は枠谷さんの手腕によるものですよ」
河咲と並田は二人への挨拶を終えると早々に自分たちの席に戻ってきた。次々と客が主役たちの所へ顔を出しに来たからだ。
席に戻るとディナーが始まっていた。
「それではあらためて乾杯」
「乾杯」
二人は杯を交わすと生ハムサラダのアペリティフを肴に飲み始めた。
「枠谷さんも塔和さんも注がれたビールは捨てずに飲んでいましたね」
こうした結婚式で、下戸は足元に見えないようにバケツを置いて注がれたビールを捨てるものだ、と並田は聞いたことがあった。しかし新郎新婦ともそんな素振りは無かった。
「並田さんは枠谷さんとお酒を飲んだことはありますか」
左隣から静川が話しかけてきた。
「枠谷さんと一緒に飲んでいるのはコーヒーばかりですね」
「そうですか。枠谷さんも塔和も酒豪ですよ。毎晩二人で飲みたいだけ飲んでいたら健康にも財布にも悪いから、家に酒は置かないようにしよう、と二人で話しているそうです。二人で飲むと決めた時だけ、その晩の分だけ買おうと」
「ほう、並田さんはどうですか、酒は」
今度は右から河咲が聞いてきた。
「嗜む程度ですよ」
「なるほど。飲む人はよくそういう言い方をしますね。ところで、先ほど大道工業の事件について、裁判の話になりかけて、途中で終わっていましたね」
「ああ、はい。あの裁判は私も第一発見者だったもので、検察側の証人として呼ばれました。事件があって一年後だから昨年の十月だったかな。いまから五ヶ月前です」
「どうでしたか」
「最初は緊張していたんですけど、わりと普通に話せました。まず、死体発見時について尋ねられました。ランニング中に人が道路の真ん中で倒れているのを見ました、と言うと、どう思いましたかと検事さんに聞かれるんですよ。それでいま何時だろうと時計を見ました、と答えました」
「ほう」
「それで、どうも死んでいるらしい。手を口の付近に当てても呼気がない、と話したら、またどう思いました、と検事さんに聞かれるんですよ。それで、警察に知らせなければと思い、110番に電話しました、と答えました」
「ふむ」
「それで、道の真ん中に死体があることを確認してどう思いましたか、と聞かれたんですよ。それで、ここは滅多に車が通る所じゃないから、事故じゃないだろう。すでに亡くなった人を置いていったのではないかと推測しました、と答えました。するとまた、どう思いました、ですよ。早く警察の人が来ないかなと思いながら待っていました、と答えました。そうしたら検事さんが呆れたような声で、以上です、と言って終わりました」
「なるほど」
「後になってなぜ、どう思いました、とばかり聞かれたのだろうと考えましてね。これは殺人事件だから、大変なことになった、とか、酷いことをする人がいるものだ、とか、そういう答えを期待していたのかな。ほら、相手は検事さんだから、殺人事件の残酷性を強調したかったのかなと、もう終わってから気づきましたけどね」
「ああ、そうですね。検事さんの期待に応えられなかったわけですね」
「いや、だって、どう思いましたかと聞かれて、思わなかったことを話すわけにもいかないでしょう」
「それはそうですね」
「自分の話はいいとして、この事件には品質管理をしている者として興味があったので、裁判の傍聴はできるだけしたいと思いました。でも実際にはそんなに暇は無くて、被告人の尋問だけですね。休みが取れて聞くことができたのは」
「被告人は何と話していましたか」
「刑事さんの取り調べで嘘を言っていた、と話していました。殺人事件の事実、方法は検事さんの話した通りだが、動機で嘘を語っていた。これは個人的な恨みによるものではない。品質不正を隠すために殺したと」
「噂されていたことを認めたわけですね」
「そうです。検査者から情報を得た被害者の挟間さんは、加害者の砂沼さんと談判をした。そこで挾間さんは工場の製造部が自ら不正をしましたと認めて、本社と顧客に報告することを薦めた。品質不正を犯すことは良くないが、もっとまずいのはそれを黙って続けたり誤魔化したりすることだ。不正は絶対にいつか露見する。顧客側からバレたら、自分から不正を認めるよりももっと酷いことになると。それを砂沼さんは、自分には出来ない、と断った。そこで挾間さんは、翌日に品質管理の部長に報告し、その後本社のコンプライアンス部門に連絡すると話した。一晩、考える猶予を砂沼さんに与えたわけです」
「そこで翌朝、挾間さんの出勤時に、口封じのために砂沼さんが殺した、ということですか」
「そうです。一晩、砂沼さんが考えて、品質不正を表沙汰にしないためには、挾間さんを殺して、証拠の入った挾間さんのパソコンのハードディスクを破壊するしかない。そこまで思い詰めたということです。そして砂沼さんはこの品質不正を隠蔽するために、殺人は個人的な恨みによるものだと動機を偽った」
「その後、品質不正が露呈して、隠す意味が無くなってしまったのですね」
「ええ。それで裁判では本当の動機を話した。印象的だったのは、被害者の遺族に謝っていたことです」
「殺してしまって申し訳ないと」
「いや、それだけではありませんでした。警察の捜査時に挟間さんのことを、気に食わない奴だと誹謗してしまった。違います。挾間は優秀で高潔な男で、工場に無くてはならぬ人材で周囲から尊敬されていました。ご家族にとっても素晴らしい夫で父親だったに違いない。伏してお詫びしたい、と言っておりました。ご家族の方のほうを見ますと、奥様と思われるかたが泣いていました。私も新聞に、気に食わない奴だから殺した、という記事が出ていて、その通りなのかなと勝手に想像していました。でも、全く違っていました」
ふと気がつくと、並田の目の前に牛肉を載せた皿があった。河咲と話しているうちにアペリティフとスープは食べ終わっていた。メインディッシュの時間になったらしい。左隣の静川はいつの間にかマイクの前に移動していた。
「宴もたけなわでございますが、ここで花嫁はお色直しのために退出いたします」
ああ、花嫁は牛肉を食べられないのだな、と並田は思った。
「せっかくの牛肉ですし、食べましょうか」
「そうですね。仙台牛のステーキだそうです。高級品です。こんな時でないとなかなか食べられないですよね」
「まったくです」
ステーキを平らげた所で、次は花婿がお色直しのために退出した。静川も左隣に戻ってきて、ステーキを食べ始めた。壇上に主役がいなくなった所で河咲が並田に尋ねた。
「工場の品質管理部というのは、普段どんな仕事をしているんですか」
「いろんなことをやっていますが、例えば直近だと静電気対策をしました」
「ほう。どんなふうにやるんですか」
「闇雲にやるのではなくて、PDCAを回すということをしまして」
「PDCA、どこかで聞きましたね。何かの研修だったかな。何でしたっけ」
「PLAN、DO、CHECK、ACTの頭文字です。日本語だと、計画、実行、評価、改善です」
「ああ、思い出してきた。あの、質問していいですか」
「はい」
「DOもACTも日本語訳は実行する、じゃないですか。どう違うんですか。それと、改善する、だったら、ACTではなくてIMPROVEではないんですか」
「ああ、それは良い質問ですね。まず後のほうの質問ですが、PDCAを回して行うこと全体がIMPROVEなんですよ」
「つまり、PDCAを回して行うこと全体が改善であると」
「そうです。それから、日本でACTを改善と翻訳したのは意訳に近いんだと思います。ただ、PDCA最後のACTのところで改善という効果が見えてくるから、そう訳したんでしょう。河咲さんが仰ったように、直訳だったらACTは実行する、です。ただ、DOとACTは同じ実行するでも違いがあります」
「どう違うんですか」
「DOは、考えないでプラン通りに動く時に使います。ACTは考えて実行することです。俳優はアクターですし、映画を撮る時は俳優にアクション、と言いますよね。あれは考えて動けよ、ってことです」
「なるほど。そう言えばユーキャンドゥーイットと言っていたアメリカ大統領がいましたね」
「あれは大統領のプラン通りにアメリカ国民は動くことが出来る、っていう意味になるんですかね」
「国民は考えなくてもいいということですか。そう言われると、あまりいい言葉じゃなかったような気がしてきますね。ところでその、静電気対策のPDCAはどういう風に行ったんですか」
「何ヵ月か前に、製品に使っていた制御用のボードが壊れました。それで本社に原因を調べてもらったら、静電気で半導体部品が壊れているというんです。そこでPLANとして、組み立て工程の中で静電気がどれだけあるかを調べることにしました」
「次はDOですね」
「ここでは考えません。該当工程のあらゆるところの静電気を測定してまとめました」
「次にCHECK」
「ボードを製作する工程のいくつかで、やはり静電気が発生していることがわかりました。そこで対策を立てます」
「ACT」
「該当箇所に静電シートを敷き、静電気を溜めるプラスチックの道具にはアルミホイルを張る、工程では除電器を使用する、などの対策をして、静電気を除去することが出来ました。そのおかげで静電気を原因とする不良をなくすことができました」
「なるほど。うちの今の事件もそうやって解決できないものかな」
そこまで話し終えて並田がふと左隣を見ると、静川が席を立ってマイクの前に立っていた。主役は、と見ると新婦だけではなく新郎の枠谷も消えたままだ。
室内の照明が落ちた。
「お色直しも終わりました。それではキャンドルサービスです」
後方の入り口の扉が開いて、タキシード姿の枠谷とウェディングドレスを纏った塔和が現れた。拍手喝采。
「美男美女だなあ」
並田らの後方の席から感嘆の声が漏れた。キャンドルサービスが終わるとウェディングケーキの入刀である。
「カメラなどをお持ちの方は前のほうへ」
静川の声掛けに何人かの人がカメラやスマホを手に移動した。並田はそれを眺めながら、河咲に話しかけた。
「うちの今の事件、と言っていましたね。なんの話ですか」
「ああ、仙台北警察署管内で殺人事件がありましてね。欄王寺の件、ご存知ですか。ちょうど一週間前の日曜日です」
「ああ、ニュースで見ました」
欄王寺とは仙台市北西部にある寺だが、古くからある有名な寺で付近の地名にもなっている。その欄王寺の近くにある賃貸マンションで、五十代後半、単身赴任で普段は独り暮らしの男性が殺されたのだ。
「ナイフで心臓を一突きです。部屋には誰かが持ち込んだ、梱包材しか入っていない段ボール箱が置かれていました。宅配便業者を装って中に入り、犯行に及んだらしい。金銭の盗難はないので怨恨によるものと思われています。賃貸マンションには防犯カメラがありませんでした。誰が殺したのか捜査中です」
「それでは、この事件についてPDCAを回してみますか」
「はい?」
「まずPLAN、計画ですね。殺人事件が起きたら、まず捜査の計画を立てるでしょう」
「そうですね。被害者の周囲の人間関係、会社と家庭を洗おうと考えました」
「次はDOです。実行です。PLAN通り、とにかく調べるわけです」
「ええ。その結果、容疑者が浮かび上がりました」
「そこはもうCHECKですね。評価です」
「亡くなったかたが営業部長なんですが、勤めていた会社の営業部内の評判を調べるとパワハラ常習の人でね。厳しい営業ノルマを課して、出来ないと、飛ばすぞやめちまえお前なんてここにいる価値ない、と面と向かってこき下ろすんです。容疑者はそこの下で働いていた課長さんですが、事件の三ヶ月前に辞職しています」
「何かしたんですか」
「昨年十月に売ったものを、九月に売れたかのように伝票やデータを偽装していたんですね。昨年上期のノルマを達成したように見せかけるためです」
「ああ、買うほうは下期に予算がついたらすぐに買うと言っているものを、売る方は上期に売れたことにしたいと」
「それを事務の女性が、顧客の話と伝票が一致しないからおかしいと、伝票が書き換えられているのを発見しまして、発覚後課長が依願退職しています」
「期ずれによる不適切会計というやつですか。懲戒免職にするほどではなかったんですね」
「上のほうには部長が何もかも課長が悪いと報告したそうです。上司のパワハラ部長さんは、上にはおもねるが弁は立つという人です。そして自分のパワハラは棚に上げて、課長さんを相当責めたらしいんです。減棒だ降格だ営業の恥だと。それで、やめてしまえ、やめてやる、ということになった。その課長さん、部下には慕われていたし能力もあったようで、いなくなってから課は大変だったらしいんです」
「その部長さんは、その後も相変わらず部長職にあるわけですか」
「そうです。会社から何のお咎めもない」
「怨恨としては十分ですね」
「殺人現場を調べてみると、犯行時刻にトヨタ製、白のアクアが賃貸マンション前の路上に止まっていたと言うんですよ。マンションの向かいにあるコンビニエンスストアの店員が証言しました。邪魔だと思っていたから覚えていたと。これが件の課長の愛車と同じなんです。さすがにナンバーまではわかりませんでしたが」
「そこまで調べたのなら次はACTですね。容疑者に当たったんでしょう」
「ええ。容疑者が岐阜県の大垣市に住んでいましてね」
「へえ。それは遠くに」
「大垣には容疑者のご両親が住んでいた実家があって、容疑者はそこで育って、東京の大学に受かって、東京が本社の会社に就職して、そこの仙台支店に転勤してきたということです」
「家族を連れてですか。単身赴任ですか」
「いや、容疑者は独身です。それもですね、部長のパワハラのもとだったらしい。女房も子供もいない者は責任感がない。管理職につけるのが間違いだ、などと言われていたとか」
「酷い話だ。独身主義者の河咲さんとしては腹立たしいところじゃないですか」
「それはね。独身がよくないと思うのは人の勝手なんです。でもそれを公言してパワハラするとなると、自分が言われたなら不愉快でしょうね」
「ところで大垣市の容疑者さんのご両親は健在だったんですか」
「それが会社を辞める何年か前に七十代で相次いで亡くなったとか。容疑者は今、実家で独り暮らしです」
「独り暮らしか。円満退社ではない時に、あまりいい状況ではないですね。気が紛れない。退社した時に上司を恨んでいたとして、それがずっと忘れられないでいた、むしろ日に日にそうした負の感情が強くなっていった可能性はありますね」
「それは独り暮らしの私には手痛い発言ですね」
「ああ、それは失礼しました。独りでも、友達と頻繁に会うとか、犬や猫を飼っているとか、何か真剣にやっている趣味があるとかだと、気が紛れるものですが。それで容疑者に当たってみて、どうだったんですか」
「犯行は否認しています。白のトヨタ・アクアが犯行現場の前にあったことについても、売れている車種ですから。ありふれている、私だけが持っている車じゃないと。それに自分のアクアで大垣から仙台に行って帰ってくるのは不可能だというんです」
「アリバイでもあるんですか。大垣で誰かと会っていたとか」
「そういうのはないんです。犯行日とその前後は、ただ家にいたと言う」
「じゃあ、何です」
「容疑者が今から二ヵ月前に、車の十二ヶ月点検を受けているんです。その納品請求書に、その時の車の走行距離が書かれている。二万六千何キロだったかな。そこで現在の車の距離メーターを見せてもらうと、それから五百キロぐらいしか走っていない。大垣から仙台まではどうしたって片道六百キロ以上、七百キロ近くはある。往復なら千三百キロ以上です。無理でしょう、とこうです」
「なるほど。ところでご近所の人には当たりましたか。ガレージに車があったかなかったか。その容疑者さんがいたか、とか」
「当たりましたが、あてになりません。そもそも近所付き合いがほとんど無いようで興味が持たれていない。ご近所の人は車を見かけなかったような気もするけど、どうだったかな、自信がないなと。容疑者に問いただすと、ほとんど家にいたが車で買い物とか近場のドライブくらいはしたかもしれませんね、と言う。決め手にならない」
「それで、警察はどう考えていますか」
「少なくとも、この容疑者が車で大垣から仙台まで来て殺人を行った、という線は諦めました。それなら車以外で行ったのか。それで飛行機を疑いましたが、名古屋―仙台間の飛行機の乗客名簿にそれらしい人物はない。アクアがマンションの前にあったのは偶然で、新幹線などの電車で移動したのか。あるいは他の容疑者を探すべきなのか。そんな検討を始めています」
「いや、次のPLANを立てて、新しいPDCAを回すのはまだ早いんじゃないですか」
「というと?」
「岐阜県大垣市、というと美濃の国ですね」
「ああ、そうですね」
「『美濃よ……』『は!』『なぜ陸路と決めてかかる?』『え……?』」
「……何のことです?」
「私の父が持っていた時代劇漫画にあったセリフです。名古屋―仙台間、ってフェリーがありますよね。大垣から名古屋のフェリーターミナルまでならたぶん百キロもない。仙台港から欄王寺までも五十キロはない。余裕で往復五百キロ未満です」
「え……?」
「フェリーなら、乗船名簿も車検証の記録もあるはずです。まずそれを当たってみたらどうでしょう」
河咲はスマホを持って目立たぬように披露宴会場を出て行った。会場では司会の静川がまた声を張り上げていた。
「さて、それでは新婦、塔和美咲様の同僚にして一年後輩、神成遊美さんにお祝いの歌を歌っていただきます。ギターの伴奏は二年後輩、八本久美さんです」
拍手の中、赤いドレスを着た女性と、ギターを抱えて青いドレスを着た女性が現れた。
「只今ご紹介いただきました神成です。あの、歌に入る前にお話ししたいんですけど」
場が静かになった。
「ありがとうございます。あの、塔和美咲様、もう枠谷美咲様のほうがよろしいのでしょうか。ご結婚おめでとうございます。ご紹介の通り、警察署で美咲さんは私の一年先輩に当たりまして、とてもよくして頂いております。それはいいんですが、私そんなにお酒は飲めませんのに、女子会という名の飲み会に強引に連れていかれて夜中まで付き合わされるのは、もうご結婚されましたのでよろしいのではないでしょうか。それが、あの、二ヶ月ほど前のその女子会でなんですけどね、美咲さんが結婚をすると知らされまして。それはおめでとうございます、パチパチパチ、だったんですけれども、あなたは歌がうまいから、式で歌を歌えと。それもそれで良かったんですが、この曲をお願いと言って電子データを渡されまして。聞いたことのない曲で。曲ぐらい歌い手に選ばせろと思ったんですが。それにそんなに思い入れがある曲なら自分で歌えよとも思うんですが。自分で歌うのは恥ずかしいと。それでこの曲について聞いてみますと、美咲さんが小学生の時の家族旅行の時に御両親が車の中でかけていた曲で、結婚が決まった時に、自分の結婚式に相応しいのはこの曲だと思い出したんだそうです。なんか思い入れがあるみたいですね。それで有名な曲じゃないからカラオケはないと。知らない曲をバックミュージックもなしで独唱しろと言うんですか。そこでギタリストを用意しました。八本です」
パラパラと拍手。紹介された八本が持っていたのはクラシックギターだった。
「あ、どうも、八本です。塔和さん枠谷さんご結婚おめでとうございます。私は美咲さんの二年後輩に当たります。神成さんに相談を受けまして、知らない曲でしたが、何度か聞いて耳コピでギターのコードだけ押さえることにしました。それから、えっとですね、枠谷家で、もしパーティーとか、パーティーと言う名の飲み会とかをやる時には必ず私も呼んでください。その時は神成さんを引きずって連れて行きますので」
神成はちょっと横目で八本を睨んでから、正面を向いて微笑んだ。
「それでは歌います。鈴木祥子の歌で、『逆プロポーズ(仮。)』という曲です」
いつかあなたは、言ってたよね、“幸せなんて、わからない。”
並田は河咲が出て行った扉を見つめた。
あたしのことシアワセにしてくれる、
あなたのことシアワセに、したいんです。
扉がまた開く気配はなかった。
日々は征き、時が過ぎ、すべてが変わっても
あなたといっしょにこの場所で、生きたいんです。
警察官がフェリー会社に連絡をして乗船者を調べてもらうのに何分かかるかな、と並田は思った。曲が終わっても、河咲は席に戻ってこなかった。
静川がまた声を張り上げた。
「素晴らしい歌をありがとうございました。それでは、郷之上署関係者結婚式の名物、と言っても空鍬さんの結婚式以来ですから二年振りになります。四人の警察官の踊りです。成戸さん、宮先さん、夜根山さん、豊郷さん、お願いいたします」
後方にスポットライトが当たった。四人の礼服を着た警察官が手を組んで並んでいた。
ズンタッタッタターラララッタ、ズンタッタッタターラララッタッタ、タッタッタター
チャイコフスキー作曲、「白鳥の湖」の中の「四羽の白鳥の踊り」に合わせて、四人の警察官が踊り出した。
(これは、レベルが高い)
礼服を着た警察官たちは大真面目に白鳥の踊りを踊っていた。靴はバレエシューズではなく一般的な革靴で、浮遊感はないがつま先立ちを多用していた。右を向く、左を向く、膝を上げる、移動する、四人がしっかり同時に動いていた。向かって右から二人目がリーダーらしい。唇が動いている。ここで右、などと指示を出しているのだろう。何よりも、警察官らしく背筋がピンと真っ直ぐ立っているのが素晴らしい。
(郷之上署、恐るべし)
バレエは数分で終わった。場内は拍手。並田が一番、熱心に手を叩いていたかもしれない。
「成戸さん、宮先さん、夜根山さん、豊郷さん、ありがとうございました」
踊りが終わると、結婚式は最終盤に向かった。両家ご両親が後方に並んだ。新婦による両親と祖父母への手紙の朗読。それが終わると、新郎新婦から両親に花束贈呈。最後に新郎から出席者への挨拶。
その花束贈呈の直前に、目立たぬように河咲が席に戻ってきた。
「並田さんの言った通りです。名古屋金曜夜発で犯行前日朝に仙台港に着くフェリー、犯行翌日昼に仙台発で名古屋行のフェリーに、容疑者と容疑者の車が乗っていました」
「容疑者は仙台近辺で二泊していたわけですね」
「恐らく。その二泊、どこにいたのかはこれから調べますが、最初の容疑者の説明と全然違いますからね。どうやらこれで逮捕状も取れそうです」
「もともと犯人は捕まってもいいと思っていたんじゃないですか。捕まらないつもりだったら、偽名でレンタカーを借りるようなことをしたでしょう。偽名で借りるなら本人証明をどうするかが問題でしょうが」
「捕まるつもりなら、自首するとか、最初にアリバイを聞かれた時に正直に話すとかすればいいじゃないですか」
「試されたというか、からかわれたんじゃないですか。警察は自分が仙台にフェリーで行ったこともわからないのか、と」
「そう言われると面目ないですね」
「宮城県に住んでいるとちょっとわかりにくいかもしれませんね。でも大垣市と名古屋市は四十キロぐらいしか離れていない。間に山もなく経済圏文化圏も密接な東海地方です。つまり名古屋港は心理的にも岐阜県南部からすぐそこです」
並田はスマホで地図を示しながら説明した。
「並田さん、地理に詳しいですね」
「学生の頃、バイクで旅行をしました。その時にあっちこっちの人とローカルな話をしたもので」
「船か。犯人は犯行現場に急いて行って、犯行後は急いで現場から離れる。それが一般的です。時間がかかる船をわざわざ使うなんて、そこも盲点でしたね。でもどうして容疑者は船で行ったんでしょう」
「千三百キロも車を走らせたくなかったとか、船旅にこだわりや思い入れがあるとか。それは本人に聞かないとわかりませんね」
「なるほど」
そこまで会話した時に、新郎、枠谷の挨拶が始まった。
「本日は私共のためにお集まりいただき、ありがとうございます。私たちは若輩者ではございますが、今後も皆様のご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
一同拍手。確か枠谷さんは三十五歳の筈だが若輩者なのかな、と並田は思った。だが、こういう時にはこんなふうに言うものなのだろう、と思い直して並田も拍手した。
式次第は終わった。会場の出口に新郎新婦とそのご両親が並び、出席者は一言挨拶をしてその場を去っていった。並田は枠谷に、お呼びいただきましてありがとうございました、と告げた。
「静川と河咲を隣にしましたが、いかがでしたか」
「河咲さんとずいぶん話をしました」
「それは良かったです」
「良くないですよ。あんまり犯罪の話とかを聞くのは好きじゃないのに、また刑事さんの知り合いができてしまいました。枠谷さんだけでも十分なのに」
「そうでしたか」
二人が笑って並田が去った後に、河咲がやってきた。
「枠谷、おめでとう。いやあ、それにしても並田さん、噂に違わずだったな。話をしている間に、事件がひとつ解決してしまった」
「ははは、言った通りだろう」
「品質管理の手法というのは犯罪捜査に生かせるかもしれないな」
「俺も、そう思って調べ始めたところだ」
こうして結婚式は、つつがなく終了した。
翌日、枠谷博一と美咲は新婚旅行のため成田空港に向かうべく、新幹線の車中にいた。
「昨日の結婚式の出席者で並田さんって、いたよね」
「ああ、あの名探偵」
「結婚式をしている間に、河咲が相談した事件をひとつ解決したそうだ」
「へえ。さすが名探偵」
「最近、並田さんの影響で、品質管理の手法について調べているんだ。その中で、ミスや不具合が起きた時に原因を究明する方法というのがいくつかある。FTAとか、なぜなぜ分析とか、連関図法とか。それらには共通の特徴がある。思い込みはやめろ、視野を拡げろ、可能性のあるものは全部上げてみて考えろ、ということだ。それを刑事事件に応用してみる。例えば目の前に何かの理由で亡くなった人がいるとする。それを見て、病気だ、事故だ、自殺だ、殺人だ、怨恨だ、物盗りだ、とこちらは第一印象で決めつけてしまいたくなる。それはいったん棚上げしろ。まずありうる可能性を全部考えてみろ、ということなんだ」
「ふうん」
「それでだ。自分のことについて考えてみたんだ。なんで俺は美咲と結婚することになったんだっけ、と」
「なにそれ。実は結婚したくなくなっていたとか」
「そういうんじゃない。俺のほうは静川が司会で言った通りだよ。美咲は若くて綺麗で性格もよろしい。しかしだ。美咲のほうでは俺の何が良かったんだろう。俺のルックスだけか。他になにかあったんじゃないか」
「へえ。さて、何でしょう」
「美咲がお色直しのために先に出て行った時に、牛肉を食いながら一人で考えたんだ」
「わたし、食べられなかった。悔しい」
「牛肉はうまかったよ。それでだ。確かに俺は美咲が郷之上署に初めて来た時、静川にすごく奇麗で可愛い子が来たな、と言った。だがその後、美咲と何の接点があった。いや、同じ郷之上署だから事務的な会話くらいはあった。しかし美咲に、結婚相談所に行くくらいなら私と付き合って、と言われるまで、何かあったか。いや、無い。思い当たることが無い」
「そう?」
「男にとっては謎なんだよ。女が男のどこを気に入るかというのは。それにしてもきっかけらしいきっかけがない。そこがわからん」
「ふんふん」
「それでだ。ありうる可能性を全部考えてみた。例えば、美咲が郷之上署に来る前に、実は俺たちは出会っていなかったか」
「ほぅわ?」
美咲が妙な声を出したので、ようやく枠谷は自分の考えに確信が持てた。
「そもそもは、郷之上署に美咲が配属された時に、あれ、この可愛い子はどこかで見たような気がする、と思ったんだよ。しかし、自分の記憶をそれ以上、確かめてみることはしなかった。それで結婚式の最中に、美咲の学生時代の友達が来ていたな。学生の頃ならどうだ。その頃に会っていなかったかと思った。それで思い出した。九年前だ」
「ふんふん」
もう美咲は落ち着きを取り戻していた。
「確か五月頃だったと思う。日本で各国首脳が集まるという会議があったんだ。そいつは三重県とかで行われた。だがその前に、各国の財務大臣、中央銀行の偉い人とかが集まって会議を仙台でやるということがあった。会議の場所は秋保の温泉だ。だが秋保は関係ない。その前の日の夜に、歓迎会というのがあった。こいつだ。それが仙台の国際センターで開かれた。仙台の広瀬川の西にある建物だ。歓迎会は夜だが、そこの警備に俺は朝から狩りだされた。忍び込んで爆弾を仕掛けるような奴がいたらまずいから、県を挙げて警備体制を敷いたわけだ。九年前だから俺は二十六歳だった。まだ交番勤務をしていた頃だ」
「ふうん」
「それ、木曜日かなんかの平日だったと思うんだよ。そこに昼間、迷子の女子高生がひとり、ふらふらとやってきたんだな」
「迷子じゃないです。はぐれたんです」
「似たようなもんじゃないか。建物の中を覗こうとしていたが、中に入れるわけにはいかない。事情を聞いたら、友達と隣の東北大学川内キャンパスに初めて来たと言う。それで持ち場は他の警察官にまかせて、一緒に仲間を探しに行ったんだな」
「あの時は優しいお巡りさんがいたなと思って」
「探しながら事情を聞いた。なんで平日にこんなところにいるのかと」
「あの時は高校一年生で、その日は学校の創立記念日でお休みだった。その時に中学時代以来の仲良し四人組で、仙台に遊びに行こう、って話をしたんだよね。そうしたら、遊びに行く、だと出られないっていう、家が厳しい友達がいたの。それなら後学のために大学のキャンパスを見学に行きます、ってことにした。四人で一緒にどこかに行けるならどこでも良かったんだよね。それで朝早くにバスで仙台に来て、仙台の西に行って、宮城教育大を見て、東北大の青葉山キャンパスを歩いて、東北大の川内キャンパスに降りてきた」
「それで国際センターは隣だった」
「そう。こっちも東北大の建物かな、と思って歩いていったら、友達は誰も後ろにいなかった」
「その話を聞いて、最後に友達と一緒にいた場所はどこか、そこから、国際センターまで辿ったルートを聞いて、どこではぐれたか、どちらに友達が向かったかを想像した。向こうもそんなに遠くに行かないうちに友達がはぐれたと気づいて探しているだろうから、だいたいの中間地点まで戻って来る筈だと」
「あの時のお巡りさん、博一さんの推理は、論理的で説得力があった。お巡りさんについて歩いていったら、友達が向こうからわたしを探しに歩いてくるのが見えた。すごぉい、お巡りさんの言った通りだ」
「迷子の子供の親を探すよりは楽だったけどな。迷子だと泣き続けて、お父さんと来たのかお母さんと来たのかすら、言えない子供もいるから」
「あの時、交差点まで歩いている間、わたしが何て言ったか、覚えてる?」
「礼を言われたな」
「そのあと」
「お巡りさん、奥さんとか彼女とかいるんですか、だ。何を言っているんだこいつ、と思ったよ。それで、最近の女子高生ではそういう言い方が流行ってるのか、と答えたんだな」
「うれしかったし感謝してたんで、お近づきになれたらいいなと思って、と言ったんだよね」
「ああ、じゃあ、六・七年くらいして、まだ俺が独り者だったら考えてもいいよ、と言ったのは覚えている。それだけ経てば女子高生も大学を卒業してるかと」
「それで、七年経って、警察学校を出て、郷之上署に配属されたら、あの時のお巡りさんがそこにいて、刑事さんになっていて、驚いたんだよね。あの時のお巡りさんの制服じゃなくて、刑事さんの私服なのはちょっと不満だったけど」
「コスプレ趣味かよ」
「それで、博一さんはまだ独身だって他の人が教えてくれたし、わたしのことを奇麗で可愛いとか言っていたみたいだし。ああ、これは運命の相手だと思って」
「あのさ、まさか、俺に会うために警察官になりました、なんて恐いこと言わないよな」
「ああ、それはない。でも、あれ以来、職業の選択肢のひとつにはなった。心理的なハードルが下がったし、警官の制服も悪くないと思ったし」
「だから、制服はコスプレじゃねえんだ」
「それに曲がりなりにも公務員で生活は安定しているし、仕事は大変かもしれないけど体力には自信があったし」
「俺と同じ志望動機じゃねえか」
「その運命の人が結婚相談所に通っているって聞いて、腹が立ったんだよね。なんで運命に逆らっているんだと思って」
「それで俺と付き合えと言ったのか」
「そう。怒ってたの。結婚相談所はもう退会したんでしょ」
「ああ。美咲にプロポーズして、オーケーとなった時に」
「私と付き合い始めた時じゃないんだ」
「なんで美咲が俺と付き合っているのかわからなかったからな。プロポーズした時まで、美咲と結婚できるとは思っていなかった」
「えー」
「でもあれだ。運命の相手、か。まあそうなんだろうな」
「それで、九年前のことを思い出して、どう思ったの」
「二年前に気づかなかったのはしょうがない。男の六、七年と女の六、七年とはまるっきり長さがちがうんだ!! 見違えた、って奴だ。可愛いだけじゃなく、ずいぶん大人になった」
「へへ」
「この二年でもだいぶ変わったな。可愛いって言葉はもう似合わない。美しい、とか」
「へへ、嬉しい。ありがと」
「その仲良し四人組とかは、その後どうしたんだ。昨日の結婚式には来たのか」
「来たのは加代ちゃんだけ。親元が厳しい、って言っていた子。宮城教育大学を出て、小学校の先生になった。厳しい親元を離れて元気な子供たちと一緒にいるのが楽しくて仕方がないって」
「へえ」
「聡美ちゃんは、地元の農協に勤めていて、結婚して、ちょうど臨月だから駄目だって。なんか周り中から田舎の少子化対策の切り札みたいな言われ方をしていて、気が重いとか言っている」
「あと一人は」
「早希っちは東京の建設会社に就職して海外勤務。東南アジアで地下鉄でも造っているんじゃないかな」
「女の人生はいろいろだな」
「男の人生はどうなの」
「結婚式関連で学生時代の友達と会ったり話したりしたけど、そのうち九割は、いま何の仕事をしてるんだ、みたいな話になる」
「あとの一割は」
「なんで働いていないんだ、って。ああ、でも突っ込んで聞くといろいろだよ。ずっと独りだ、結婚した、子供が出来た、子供が育った、あるいは離婚した、親権はどっちだ、養育費は、月に何回子供に会えるかとか。幸せだったり、そうでなかったり」
「ふうん」
「結婚式でさ、神成が歌っていたよな。幸せなんて、わからない、って。幸せってのはこんな風に列車に乗ってレールの上を進んでいくようなもんだと思うんだよ。乗っているうちに時間が過ぎて、そのうちに子供を乗せて、その子供が大きくなっていくっていう」
「ガタゴトと揺られて?」
「そう。ところがたまにこの列車は脱線することがある。それが、誰かがレールの上に石を置いたからだって言うなら、それは犯罪だ。石を取り除いて、犯人を捕まえて、脱線した列車を元に戻して、また走らせないといけない。脱線に遭った人間は幸せじゃなくなるんだが、そこには何かしらのフォローをして、次の列車が幸せに進むようにしてやらないといけない。その中の仕事の一部を俺たち警察官が担っている」
「なるほど。私たちの乗った列車は、まだ走りだしたばかりだよね」
「そうだな。今のところ、脱線する気配はない。順調に走っていると思うよ」
「じゃあ、幸せになりに行きましょうか」
「行こう」
列車は定刻通り、南へ進んでいた。
「どころで、だ。俺が思い出さなかったら、女子高生だった時の話をずっと俺に黙っているつもりだったのか」
「そうだね。もし自分に娘が生まれて、高校生ぐらいになったら、あんたにもこんなことがあるかもしれないよ、って娘に話したかもしれない。お父さんには黙っといてね、って言って」
「なんだよそれ」
―了―
参考文献
・岩明均「雪の峠・剣の舞」講談社
・詞、曲、編、歌、鈴木祥子「逆プロポーズ(仮)。」、ソニー・ミュージックソリューションズ「SWEET SERENITY」所収
・小山ゆう「がんばれ元気」小学館




