鈍感なモブ男と深窓の天使様
春の陽が差し込む放課後、成瀬悠はいつものように人気のない帰り道を歩いていた。友達も少なく、目立つこともない彼の日常は、どこまでも静かで、誰にも干渉されることなく流れていく。そんなある日、彼は奇妙な光景に出くわした。
公園の桜の木。その高い枝に、一匹の猫が登って降りられなくなっていた。そして、猫に手を伸ばすように木に登っていたのは、学園マドンナこと“深窓の天使”こと氷室美優だった。
「お、おい! 危ないって……!」
慌てて駆け寄った悠は、美優の足元が不安定なことに気づき、思わず叫んだ。
「だ、大丈夫です……。この子が降りられなくて……」
枝にしがみついたまま、困ったように微笑む美優。その姿はまさに“天使”だったが、悠にとっては天使よりも落下の危険性のほうが深刻だった。
「俺が代わる!
氷室さんは猫が飛び降りた時のために下で待機しててよ」
悠はすぐに木に登り、美優の代わりに猫を救出した。
──それが、すべての始まりだった。
* * *
次の日、美優からのお礼を伝えられることもなく、いつも通りの教室が始まる……と思いきや、放課後、悠のアルバイト先である隠れ家的なカフェに、美優がやってきた。
「昨日は、助けてくれてありがとうございました。成瀬くん、ですよね?」
学校では話したこともない存在だった美優が、まっすぐに自分の名前を呼ぶ。それだけで、心臓が跳ねた。
「え、あ……うん そうだけど......」
「よかったです。……あの時はお礼を言えていませんでしたから。でも、また会えてよかった」
「いや、俺は……ほんとに、たまたまで……。それに、誰でもああするって」
「ふふ、それでも、嬉しかったです。……成瀬くんって、優しいんですね」
予想外の言葉に、悠の耳が赤くなる。言葉に詰まり、苦笑いで返すと、美優は静かに笑った。その笑顔は、昨日よりも少し近くに感じられた。
そこから、ふたりの関係はゆっくりと始まった。
カフェの静けさと距離感が、学校とは違う空気を生んだ。美優は意外なほど気さくで、笑うと少し口元にえくぼができることにも気づいた。
彼女と話す時間が増え、敬語からため口に代わり、少しずつ悠の心に変化が芽生える。
「……俺も、変わりたい」
そう思った悠は、美優に釣り合うために、自分を磨くことを決意する。
勉強に励み、運動も少しずつ始め、服や髪型にも気を配るようになった。クラスの女子たちが少しずつ彼に声をかけてくるようになり、教室での居場所が変わっていくのを感じた。
──しかし、その変化は、美優の心にも波紋を広げていた。
「……なんか、みんなの人気者になっちゃいましたね」
ある日、カフェで彼女がぽつりと漏らした言葉には、少しだけ寂しさが混じっていた。
「え? そんなことないって。俺は……」
言いかけて、言葉がつまる。何を伝えたらいいのか、わからなかった。
その夜、美優からメッセージが届いた。
『好きな人に気づいてもらうには、どうすればいいと思う?』
悠はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。今まで、彼女の気持ちに真正面から向き合ってこなかったことに気づいたからだ。
──ようやく、悠は一歩踏み出すことを決心した。
次の日の放課後
「氷室さん。俺、最近、ちょっと変わったかもしれない。でも……一番変わったのは、君と出会って、君を好きになったことだと思う」
教室のベランダで、ふたりきり。
美優は、少し涙ぐみながらも笑った。
「……やっと気づいてくれた。
成瀬君はほんとに鈍感だね。
すごく遠回りだったけど、うれしい」
「氷室さん、ここから先は俺に言わせてほしい。」
美優が静かにそして嬉しそうに頷いた。
「氷室さん、俺と付き合ってください」
春の風がふたりの間をやさしく撫でる。
これは、ひとりの地味な少年と、完璧な少女の、すれ違いながらも育まれた初恋の物語。
僕の童貞作です。