8 老いぼれ
――目覚めは最悪だった。
昨日、監獄に戻った後も、リノの服についた血の匂いが部屋に充満し、とても耐えられるものではなかった。
俺は、リノをヒュッテに連れて行き、体や服についた血を洗い流し、ルイの上着に着替えさせた。――俺もそんなに大きい方ではないけど、俺の服はブカブカで、リノには合わなかった。
誰かさんは、『ソーセージの食べ過ぎ』としつこく、今度手料理を振る舞うと張り切っていたが……。
――ルイの手料理……出来れば遠慮したい。
そして、目覚めが最悪な原因は、もう一つある。
ロマーノが来た事によって、一人分の毛布が足りず、誰かが二人で寝る必要があった。 ――当然、俺とロマーノが一緒に使う予定だったけど……、ルイが割って入ったせいで、ルイとロマーノの間で軽い抗争が起きた。
最終的に、『日替わりゼノン』という結論で収まり、昨日は俺とロマーノが一緒に使う事になったのだが……。『上着がなくて寒いから』という理由で、ルイが俺達の毛布に潜り込んで来て――今に至る。
両サイドを固められた俺は、全然疲れが取れず、最悪な目覚めだった。
「おはよう、ゼノン。足の具合はどうだ?」 目覚めた俺に、ヴァロアが声をかけてきた。
「……おはよう。足は……まあ、だいぶ良くなったかな。それより……」
「ははっ。ルイは、ゼノンから離れたくないみたいだな。ゼノンに対しての独占欲には、正直俺も驚いているよ」
ヴァロアは、俺にしがみついて寝ているルイを見て笑った。
「何でこんなに懐かれてんだろ……」
「どうだろうな、一人っ子なんじゃないか?」
「ルイが弟なんて、俺はごめんだ……」
「……起きてたら、泣いて家出するぞ」
「まだ寝てる。――それより、リノは?」
ルイの隣で寝ていたはずが、姿が見えない。
「……早朝に出て行ったよ。俺のせいで、家出かな」
「ははっ、家出なら戻ってくるだろ」
「……すまなかった。……昨日、笑ったリノを見て、何とも言えない気持ちになってな……。だが、あの場で、あんな事を言うべきじゃなかった……」
ヴァロアは、申し訳なさそうに眉を下げて俯いた。
「……俺だって、同じ事思ったよ。昨日のリノを見て、恐ろしいと思ったし、リノの本当の姿はこっちなんじゃないか……とも思った。だけど、ロマーノが言った事も分かるんだ。誰かがやらなきゃいけなかった。……もし、誰も出来なかったら、俺達は……」
「……そうだな。それこそ、家出じゃ済まされない」
「俺も、リノのフォローは試みるけどさ。伝わるかどうか……」
昨日のリノを思い出すと、俺は少し絶望感を感じた。試みるとは言ったものの、気持ちの通っていないリノを相手に、どう伝えていいのか分からない。
ヴァロアは、少しの間難しい顔をして、やがて溜息を吐いた。
「……その事なんだが、ゼノン。今日の奉仕には、俺とルイとロマーノで参加しようと思う」
「――え?」
「清掃班の治療を受けたって言っても、まだ休んでおいた方がいい。傷口から感染症を起こしても大変だ」
「大丈夫だよ、もう痛みも治まったし!」
「――その代わりと言っちゃあれなんだが……。ゼノン、リノと残ってくれないか?」
「リノと、二人で……?」
――昨日の今日で、リノと二人で居残りだなんて、一体何を話せばいいんだ……。
「――ああ。……考えていたんだが、リノはここで生まれたって言ったよな? いつからこんな事を強要されていたかは分からないが、きっと今までも、チームを組まされてきたはずだ。……俺の勝手な推測にすぎないが、リノが関わってきた奴等は、昨日の俺のようなヤツばっかりだったんじゃないかと思ってな……」
「……どういう意味?」
俺は、ルイが起きないように、静かに毛布から出て座り直した。
「リノは、殺しに慣れすぎている。昨日も、躊躇いなく引き金を引いただろう? そんなリノを見ると、誰だって恐ろしいと思う。化け物扱いして、リノを遠ざけてしまうだろう……」
――化け物……。
その言葉は、昨日のリノを表す言葉にはピッタリだった。返り血を浴びて微笑む姿……、その姿はまさに、正気を失った化け物そのものだ。
「リノが、どうしてそうなったかは分からない。あんなにも感情を失っている理由も。――だが、きっと……それが、幼いリノに突き付けられた唯一の選択だったんだと思う。誰も助けてくれない監獄の中で、『生きる』という、当たり前に与えられている選択肢を、幼いリノは汚れのない小さな手を血に染める事で得た。――そんな現実の中で、俺だって人でいられる自信は無い……」
「生きる……為に」
「……そうだ。仮に、の話だがな。……だからこそ、昨日の俺の態度は、リノを傷付けたかもしれないと思ってな」
「リノが、傷付く……? ……あるのかな。そんな感情……」
「……分からない。昨日、リノが言った言葉を考えてみたんだ。『誰かの為に人を殺せた』って……。――じゃあ、今まではどうだったのかって考えた」
「……生きる為?」
「……おそらくな。自分が生きる為に、人を殺す。……俺達があんなに奉仕を拒否したのは、罪の意識があるからだろう? それが、罪だと分かっているからだ。――だが、リノだって、同じだったかもしれない。自分の存在が、罪で、悪で、汚らわしい。死の上でしか生きられない。――その行為を、初めて、自分の為では無く、誰かの為に使ったのかもしれない。……あのポイントは、リノにはつかない」
「あっ……」
――昨日のあれは、俺達にここで生きる術を教える為だった……?
「それを俺は……、撥ね退けて、怒鳴りつけた。あの時のリノの顔が、離れないんだ」
「親に怒られた時みたいに、怯えて、畏縮してたな……。……でも、何で俺に?」
「リノは一番に、ゼノンにIDブレスを渡そうとしただろう? ……あの時の顔、ゼノンに認めて欲しくて、受け入れて欲しくて、その想いを突き返されないかどうか不安そうな顔で待っていた。そう感じなかったか?」
「確かに。リノ、泣き出しそうな顔で……」
――一生懸命、笑おうとしていた……。
「……だけど、誰もリノの手を取らなかった。誰も受け入れてやらなかった。俺に至っては、リノを怒鳴りつけた……。それが、家出の原因だろう。だからゼノン、ゼノンさえ良ければ……」
ヴァロアは、何度も手を組み直しながら、言いにくそうに俺を見た。
「……ああ。やってみるよ。……実は俺さ、初めて会った時から、何か自信あるんだ。リノと、心を通わすことが出来るんじゃないかって……。まぁ、バカみたいな話だけどさ」
「俺も信じてるよ、ゼノン。――特に、ここの男達は、ゼノンの事が好きで好きでたまらないみたいだからな」
ヴァロアは立ち上がり、俺の後ろで横になっているルイに毛布を掛け直した。
――こうやって隣に並ぶと、やっぱり一番男らしい体つきをしている。……毛布を掛け直している姿なんて、父親みたいだ。
「……やめろよ。ルイだけだろ」
そう言って俺たちは久しく笑いあった。
それからしばらくして、ルイとロマーノが目を覚ました。――二人が隣同士になっていた事で、再び抗争が起きたことは言うまでもない。
そして、二人が俺を挟んで火花を散らしている時、バゲットを抱えたヴァロアと、自分の服に着替えたリノが戻ってきた。
「リノッ!」
「……ヒュッテの前に居たよ。初めて皆でバゲットを食べた所だ」
「良かった……。――リノ、服乾いてたか?」
「……」
リノは相変わらず何も答えず、綺麗に畳んだ上着をルイの前に置いた。
「リノ、ゼノンは足を痛めてる。今日の奉仕には、俺とルイとロマーノで行く予定だ。……ゼノンの事、任せていいか? リノに頼みたいんだ」
「えっ! ゼノ残るのっ!?」
「当たり前だろ! ゼノンは怪我してんだ、連れていけるか!」
「あんたに聞いてないよ! 俺はゼノに聞いてるの!」
「こんのっクソガキ……」
――ルイのヤツ……。
何でここまでロマーノに突っかかるかな。
「頼んでもいいか、リノ?」
「はい……」
「有難う。リノが居てくれるなら、安心だ」
ヴァロアは、俺に目配せをし、にっこり微笑んでみせた。俺も、それに微笑み返す。
……って!
何、柄にもない事してんだ俺は!
「らしくねぇ……」
「あ、何だゼノン? 歯でも痛いのか?」
「やっぱソーセージだよ。ゼノ、あーんして。虫歯が無いか見てあげる」
「……バゲットを食べよう。奉仕が夜とは限らない。ちゃんと体力をつけておかないと……特に今日は、三人だけだ」
ヴァロアは、呆れる俺とは対照的に、余裕の笑みを浮かべてバゲットを取り出した。
――その時だった。
ヴァロアの言う通り、『それ』は昼間っから鳴り響いた。
――ウォーーーーーン!!
「お出ましか……」
「……」
登録された回収対象は一名。
――罪名は、非政府組織の設立。
この街では、BIANCOの存立に害を及ぼすものとみなされる危険思想は、罰せられる決まりになっている。
ヴァロア達は、無言で準備をし、奉仕活動参加者としてID登録をした。
「昨日はこんなの無かったのにね……」
「……全員だったからだろう」
「――リノ、頼んだぞ」
そして、全員が重たい雰囲気の中準備を終え、三人は部屋を後にした。
残された俺は、昨日の一連を鮮明に思い出し、胃が熱くなっていた。
ヴァロア達は大丈夫だろうか……。
――そして、俺にも託されている事がある。
「リノ、服乾いてたか? 冷たくない?」
俺は、リノの隣に移動し、腰を下ろした。
「……」
……まぁ、予想通りだ。
「……昨日の事、ごめんな。何と言うか……、リノの気持ちを蔑ろにしちまって……。本当に悪かった」
「……」
返事が返ってこない事は、想定内だ。
俺は、リノの返事を待たず、一方的に話を続けた。
「俺さ、初めてリノに会った時、何か違和感感じたんだよ。リノの事一つも知らないのに、暗闇で動かないリノを見て、リノの本当の姿はそうじゃないって思った。おかしいだろ? 何も知らないのに……。――もう一つおかしい事言うと、『俺には出来る』って思った。リノがリノらしく生きられるように、自分なら、何か出来るんじゃねーかって……」
「……僕……らしく……」
「そう。……まずは一番に、笑って欲しかった。笑って、生きている事を誇りに感じてほしいと思った」
――そう、あんな狂った笑みでは無く……。
「……生きる事は……罪です……」
「リノが生きている事は、罪じゃない。……どうして、生きる事が罪だと思う?」
リノは、洗い流して綺麗になった自分の手を見て言った。
「……僕の手は……赤い……」
「……それは、リノが生き延びる為に選んだ道だ。決して罪じゃない。――今日を生きる為、明日を生きる為、1か0か、右か左か……そうやって、最良の道を選んで来た結果だ。生き残る為に選んできた選択に対して、罪も善もない。……証だと思えばいい、リノが必死に生きてきた証だ」
「……証……」
「そうだ。――それと、俺の父さんは哲学が好きでさ、何度も聞かされた言葉があるんだ。どっかの哲学者の言葉らしいんだけど、『人生を恐れるな。人生には生きる価値があるのだ、との信念が価値ある人生を創造するのだ』ってさ……。難しいけど、今になって分かる気がするんだ。――人生には生きる価値がある。俺の人生にも、リノの人生にも」
「……父さん……?」
「ああ……死んじまったけどな」
「……どう……して……?」
「ははっ、初めてリノが質問したな。――でも、悪い。俺はまだ小さかったから、よく知らねーんだ。今となっちゃ、確かめようもないしな。――ただ……優しい人だった。俺は父さんが大好きで、父さんが家に居る時は、父さんの好きな哲学の本を読んでもらったり、いろんな映画を見たり……。特に父さんは、アメリカの……何て言ったかな、さっきの哲学者……」
「……ウィリアム……ジェームズ……」
「――そう、それ! リノ、よく知ってたな。哲学とか好きなのか?」
「……僕の父も……好きだった……」
「へー、リノの父さんかー。――どんな人?」
「……」
――しまった……。
リノは、『ここで生まれた』って言ってたよな。……触れるべきではなかったか。
「あー……えーと、ちょっと独り言言っていい?」
「……はい……」
俺は、思いついた自分の昔話をした。
「じゃあ、ちょっとだけ……。俺な、昔は十五番区に住んでたんだ。今じゃ考えられねーけど、礼儀正しくて、頭の良いガキだった。クラスの中でも成績トップで、結果が出る度、父さんは俺を抱きしめて喜んでくれたんだ。それがすっげー嬉しくてさ……。多分、父さんに抱きしめて欲しくて頑張ってた」
「……はい……」
――何の意味があるかは分からないけど、ただ少しでも自分の事を分かって欲しい。
「父さんは、『大切な事は勉強だけじゃない』って言ってたけどさ、俺は、もっと上を目指したかった。……俺、儀礼祭で代表スピーチをしたかったんだ。もちろん、父さんに喜んで欲しかったから……。それを言った時、『ゼノンが成人ナンバーを貰えるだけで嬉しい』とか言ってたけどさ、父さんすっげーはしゃいでて……。――俺、『ああ、絶対に頑張ろう』って誓ったんだ」
「……はい……」
「――あ、あと、成人の祝いに、酒を御馳走してもらう約束もした。父さん行きつけの酒屋で。リノ、酒屋って分かる?」
「……女の人と……お酒が……出る所……」
「ははっ、女の人は出てこねーけどな。いろんな人と一緒に酒を飲む所だ。十五番区の酒屋には、上質の酒と女がいる、……らしい。俺は、二番区の酒屋しか行った事がねーから、父さんの受け売りだけどな」
――ここまでは、俺自身何度も思い返してきた記憶だった。ただ、この後の事は……とっくの昔に捨て去った過去だ。
「……はい……」
「――だけど、どれも叶わなかった……。ある日、父さんは帰ってこなかった。その代わりに、ID返還届と、強制立退きの催促書が届いたんだ。――俺、勉強は出来たのにさ、その書類の意味だけは何度読んでも理解できなかった。父さんが死んだ事を、どうしても受け入れる事が出来なかったんだ」
「……」
「……家を出る時なんて、何を持って何処に行けばいいかさえ分からなくて……。父さんが好きだった哲学書、映画……詰め込めるだけ詰め込んで、家を出た。その日は大雨で、父さんのでっかい傘をさして、十五番区を彷徨った。……でも、行くあてなんて無かったからさ、気付いたら、父さんと歩いた道ばっか選んで歩いてるんだ、俺……。それで、最後は家に着いちまう。――そんな事を何度も繰り返したけど、『立退き』の紙が貼られた家を前にすると、『本当に独りぼっちになっちゃったんだ』って、父さんの死を認めるしかなくて、泣きながら家をあとにした……。それで――」
その時、俯く俺の頬に冷たい手が触れた。「痛い……?」
「……え?」
――リノの冷たい手が、俺の頬を覆う。
「……泣い、てる……」
「俺……何で……っ」
俺は、無意識の間に涙を流していた。
――本当に、自分では気づかない間に……。
「……苦しい……? 痛い……?」
「違う……っ! 思い出して、涙が……」
「ここが……痛い……?」
リノは、少し躊躇いながら、俺の心臓を触った。――服の上からでも、ひんやりとした感覚が伝わる。
「ちょっと違うかな……。痛いとかじゃない。父さんへの想いが生きてるから、今でも涙が出るんだ。痛いとか、苦しいからじゃないよ」
「……想いは……殺せばいい……」
俺は、リノの目の動きを見逃さなかった。 俺の胸から手を離そうとした瞬間の、今にも闇に落ちて行きそうな目を……。
「手、冷たいな。……やっぱり服乾いてなかったのか?」
「……っ!」
「離さない」
「僕の手は……! 人を……殺す……」
「違う。……必死に生きてきた手だ」
「違う……っ」
「細くて、繊細で、触れると……痛い」
「……痛い……?」
「冷たくて、痛い。……ずっと、この手を握る人がいなかった。ずっと、温めてくれるくれる人がいなかった。……俺は、こんな手を知ってる気がするんだ……」
――その冷たく寂しい手が、どこか懐かしい。この目も、この指も、俺は何故だか知っている気がするんだ……。
「……」
俺は、握っていたリノの手を、自分の心臓へ押し当てた。
「……何を感じる?」
「……音……」
「何て?」
「……跳ねる……ドクン……って……」
「リノからも、同じ音がする」
「……っ」
「今、早くなった」
「僕の……音……?」
「そうだ……。生きてるから、心臓が跳ねる。生きてるから、泣く。笑うし、怒る。……自然な事だ。――リノがいくら自分を殺そうとしても、ここが動いている限り、死なない。忘れるなら、何度だって聞かせてやる」
「……」
――俺の心臓が跳ねる度、リノの目は行き場を失くして泳いでいた。
「……リノは特別じゃないよ。今までの生き方は違っても、ここには俺と同じものが流れて、同じような音が響いてる。――俺は、ここが動く限り、これからも泣いたり笑ったり、人間らしく生きていくんだと思う。……リノにも、そうであって欲しいんだ。――俺の言ってる意味、分かる?」
「……はい……」
「……人生には生きる価値がある。そうだろ? 何もかも諦めたような生き方は、止めてほしい。その目も……こんな暗い景色ばかりじゃなくて、もっと色んな物を映してほしい。俺は一緒にここから出たい……」
「……僕にはっ……」
「『価値がない』は無し」
「……」
リノは、追い詰められ、明らかに動揺した顔で俺の事を見た。
「さっきの話の続き。……俺な、その後、ある少年に出会ったんだ。その少年は、俺の命に価値はあるのかって聞いてきた。俺は、その質問には答えられなかったけど、その後もずっと気になってた。……一度だけ、その事を人に話した事があるんだ。――そしたら、そいつ、急にでっけー声出して怒ってさ。『自分の価値を決めるって事は、人が死ぬ時にする最後の仕事だ! 人生半ばで、自分に価値なんてつけんじゃねー!』って泣いて怒ったんだ。……笑えるだろ? ――俺の、もう一人の家族の言葉だ」
「……その……少年は……?」
「――え?」
「……何処で……?」
――こっちの話に食い付くとは……予想外だった。
「何処で会ったかって? もう十年も前の話だからな……。――多分、十五番区と十四番区の境、旧市街地への入り口辺りかな。橋の上だった……」
「……あなたは……その後……」
「俺は川に落ちたみたいで……、気付いたら二番区へ流れ着いていた。よく死ななかったと思うだろ? それからは、ロマーノに拾ってもらって……あ、もう一人の家族って言ったやつな。どうにか今まで生きてきた」
「生きて……」
リノの深い灰色の目が、真っ直ぐ俺を捕える。まるで、その目に吸い込まれそうな不思議な感覚に、俺は慌てて目を逸らした。
「――って、ははっ。俺、こんな話するの初めてなんだ。自分の話とか家族の話。俺が家族から貰った言葉を、次はリノに……。弟でも出来たみたいだ」
「……弟……」
「俺の兄貴だって言い張るロマーノと、弟みたいに懐いてくるルイ。父親みたいに面倒見がいいヴァロア。……リノが入るとしたら、俺の下で……ルイの上かな。俺は一人っ子だったからさ、リノみたいな弟が欲しかった。――あ、ルイもって言わねーと、後々面倒な事になるかなぁ……」
「どう……して……」
俺の手に、冷たい感覚が流れ落ちる。
「……リノ? 泣いてるのか……?」
――初めて見る。
リノの真っ白な肌に、ゆっくりと零れ落ちる涙……。思いがけないそれは、冬に舞う桜のように綺麗で、思わず魅入ってしまう。
「……っ」
「どうした……?」
俺は、リノの涙を指で拭った。
「……あなたの手は……やっぱり……」
「……え?」
「……やっぱり……温かい…」
リノは、恐る恐る俺の手を取りそっと力入れた。手に零れてくる涙が、意外なほどに温かい。
「やっぱりって……?」
「……僕は……この手を……知っている……」
「え……?」
リノの言葉の意味が分からず、聞き返そうとした、その時――
重い扉が開かれ、三人が戻ってきた。
リノは、握っていた俺の手を離して、再び俯いてしまう。
「……ただいま」
「――ルイ!」
ルイの後に続いて、ロマーノ、ヴァロアが入ってきた。ロマーノとヴァロアは、苦虫を噛み潰したような顔をして俯いていた。
「どう……だった?」
「問題ない……」
「それじゃあ……回収――」
俺は、ロマーノの服の裾にこびり付いている血を見て、口を噤んだ。
ロマーノとヴァロアは、それ以上喋ろうとせず、ただ黙ってルイの方を見ている。
――三人の様子に、何か違和感を感じる。
「どうしたんだ……?」
「さぁ……」
ルイは、横目でヴァロアとロマーノを見た。
「――いや、何でもないんだ。……それより、ゼノン。足の具合はどうだ?」
「……ああ、大丈夫だ。こっちも問題ないよ」
ヴァロアは、落ち着いているリノの姿を見て、安心したように笑った。
「ありがとう、リノ。ゼノンの事、見ていてくれたのか?」
「……はい……」
「助かったよ。リノが居てくれてよかった。ゼノン一人置いて行くのは、気がかりだったからな。……ありがとう、リノ」
「……はい……」
ヴァロアは、同じ返事の中の微妙な変化を見逃さなかったのだろう。俺の傍に来て、耳元で囁いた。
「さすがだな、ゼノン。このお礼は、必ずするよ」
「礼なんて――」
「……」
しかし次の瞬間には、ヴァロアは難しい顔でルイの事を見ていた。
「……?」
やぱり、二人の態度がおかしい……。
二人の態度をよそに、ルイは破った紙を引っ張り出し、再びパズルを始めていた。
「……」
「ルイ……?」
「何? 集中したいんだけど」
「……何かあった?」
「何かって何?」
「いや……」
「……何もないよ。心配してくれるんだ?」
ルイは、生意気な顔で笑い、俺の顔を覗き込んだ。
「そりゃ、まあ……」
「……ふーん。じゃあ、両思いだね」
「……は?」
「俺も、ゼノ大丈夫かなって心配だった」
「ありがとう……」
「足は良くなった?」
「……ああ、もう平気だ」
「そっか。……良かった」
――何で逆に心配されてんだ……。
ルイは、俺の肩にもたれかかり、パズルを進めていく。
「……何かに集中する時間って、大切なんだ」
「そういえば、よくやってるけど……飽きないのか?」
「飽きないよ。パズルに集中している時は、いろんな事を整理できるから」
「整理って?」
「……一日の内で必要な記憶、そうじゃない記憶、ちゃんと整理していかないと、容量オーバーになる」
「容量オーバー? 俺は、ほとんど忘れていくからな……」
「そうなの? そっちの方がいいよ。――俺は、この時間を作らないと、全部の記憶が溜まっていく。……だから、必要なんだよね」
――そうじゃない記憶……。
今日の奉仕の事だろうか。俺が寝て忘れようとするのと同じで、ルイにとっては、この単調なパズルを組み合わせる時間が大切って事か……。
「悪い……。俺、何か邪魔したな」
――立ち上がろうとした俺の手を、ルイが引っ張った。
「隣に居て」
「……」
「……喋らなくてもいいから、ここに居て」
「分かった……」
――らしくないルイの発言に驚きながらも、俺は無言で座り直した。
ルイの進めていくパズルの手元を見つめながらも、俺達の様子を見張る二人の視線を感じる。
……あまり、気持ちのいいものではない。
「……まあ、暇つぶしになるからって理由もあるんだけど」
「え、俺?」
「違うよ、パズル」
「ああ……」
「家に居る時は、ずっとパズルしてた。元々外に出るのも好きじゃなかったからさ……」
「同じやつばっかり?」
「違うよ、今は本物が無いからこの紙で代用してるけど、家には何百個もあるよ。普段は五千ピース以上のパズルしか使わないんだ」
「五千っ! ――すげーな……」
「すごくなんかない、簡単だよ。初めの位置を全部覚えておけば、すぐに出来るよ」
「……五千だろ? 不可能だろ……」
「数の問題じゃなくて、もっと簡単な話だよ。――一番初めに完成形を見た時、自然にその映像が頭に焼き付くんだ。……それで、バラバラにしたピースを手にすると、頭の中の映像の一つが、『ここだよ』って言うように光る。――その場所にピースを戻していくだけっていう、単純な作業。勉強も同じだよ」
「はあ……俺には全く想像出来ねーけど……。ルイはすげーな!」
俺の言葉に、ルイは手を止め、目を真ん丸にして俺の事を見た。
「すごい……?」
「あぁ、すごい!」
「……すごくないよ。ゼノだって出来るよ。……それに、一つだけ出来ないやつもあるしね」
「何で?」
「分からない。ピースが揃わないんだ。何処に置いたか忘れるなんて、ありえないのに……」
「あ、それ分かる……」
完成一歩手前まで進めて、最後のピースが揃わない時の悔しさと言ったら……。
「ねえ、ゼノ……。ここから出て、家に戻ったら、ピース見つかるかな? 完成させること出来ると思う?」
俺は、軽い気持ちで質問に答え、ルイの頭に手を置いた
「ああ、見つかるだろ。そういう探し物は、時間が経って急に出てきたりするからな。――見つかるよ、きっと」
だがルイは、頭に置いた俺の手に触れ、驚くほど強く力を込めた。
「そうだよね……。それじゃあ、やっぱり、ちゃんと探さなきゃいけないよね、あの子の事……」
「パズル……?」
「……ゼノは、信じててね。俺の事……」
「……え? ああ……」
正直、途中からルイの言っている事が分からなかった。
話の内容もそうだが、それより……ロマーノとヴァロアの張り付くような視線。――二人は、明らかに俺とルイの会話に耳を澄ませている。
……三人の間に何があったのか。
そうはっきり聞きたかったけど、それからルイがずっとベッタリで、結局その話は聞けないまま毛布に入った。
そして、三人は精神的な疲れからか、すぐに眠りについた。――リノに関しては、相変わらず寝ているのか起きているのか分からないが、微かに寝息が聞こえてくる。
「……寝るか。明日は、俺も参加するんだから……」
だが、目を閉じると……今日のロマーノとヴァロアの態度が気になってしまう。ルイの様子だって、明らかにおかしかった。
「不安……なのかな」
ルイは、俺の手を握ったまま、寄り添うようにして眠っている。
――三人の中では、一番年下だ。
強がっていても、恐れは消えないだろうし、逃げ出してしまいたい気持ちだってあるはずだ。十五番区で暮らしてきた少年には、あまりにも受け入れがたい現実だろう。
「出ような……、ここから……」
俺は、ルイの綺麗なブロンドを撫でながら、そう呟いた。
「小僧、生きておったのか?」
しかし、その答えは意外な所から帰ってきた。
「小僧、まだそこにおったか」
……この声、確か初めての夜にも聞いた……?
その声は、部屋の隣から聞こえてくる。
――隣の部屋は、コンクリートに仕切られていて見えないが、足元の十五センチ程隙間から、男の座っている後ろ姿が出来た。
「え……俺の事?」
「……何じゃ。お前さんの事ではないわい!」
「……何だよ。じゃあ誰の事だよ」
――失礼なじじぃ……。
「ふんっ、声をかけてみれば……、とんだ勘違い野郎じゃ。――お前さん、名前は?」
「……ゼノン」
「ファミリーネームは?」
「バリオーニ……」
「バリオーニ……?」
「……?」
――何だ?
「お前さん、両親は健在か?」
「母親はいない。……父親は、死んだ」
「……その部屋には、誰がいる。全員の名前を教えてくれ」
「……ルイ・ザネッティ、ヴァロア・ドルチェ、ロマーノ・ウジエッリ、リノ・パルヴィスだけど……聞いてどうするんだ?」
「――なんと……。神はわしにとんでもない機会を与えおった……。これで、ようやく赦されるのか、やっとこの時が来た……」
――その老いぼれは、声を震わして独り言を呟いた。
何の話をしているのか、全く分からない。
「何だ……? じじぃ、確か何日か前も話しかけたろ?」
「じじぃとは失礼な! わしはまだボケとらんぞ!」
「若者が『じじぃ』とか言うかよ」
「ふんっ、わしはまだまだ現役じゃよ。これだから若いヤツは……」
――声を尖らせて、ブツブツと小言を挟む。
そして、気が済んだのか、やっと話の本題に入った。
「わしはな、……人を探しておった」
「人を? ここの部屋でか?」
「……もういい、見つかったよ」
「え、誰を――」
「――ゼノン、と言ったな? お前さん、どうしてここに来た? 全て話してくれるか?」
「え? ああ……」
――二番区にいる時は、見ず知らず人にホイホイ話をするような事は無かった。
だが、ここに来て警戒心が緩んでいるのか……同じ場所に収容されているってだけで、俺は何故か今までの経緯を話してしまった。
「――なるほど……。儀礼祭前に捕まりおったか……。ここへ来て何日が経つ?」
「三日だ……」
「……三日。ゼノン、もう一つだけ質問じゃ。リノ・パルヴィスは、生きておるんじゃな?」
「リノ……? ……ああ、ここにいる。皆でここから出ようって、約束したけど」
――どうして、リノの事を……?
「ここから、出ると……?」
「あぁ、そうだ」
「そうか……。それじゃあ、老いぼれからの質問は終わりじゃ。お前さんも聞きたいことがあるじゃろう。何でも聞けばいい。――わしはここが長い。話せることは話してやろう」
「何でも……?」
――聞きたい事は、幾つもある。
この施設の事、奉仕活動の事、そして、さっきの質問の意味……。
だけど、その前に絶対に確かめたい事……。
「今まで、この施設を出た人はいるのか?」
「何だ、聞きたい事はそんな事か?」
「……不安なんだ。ここから出ようなんて偉そうな事言って、皆を励ました気でいるけど、本当は俺自身が一番疑ってる。……本当にここから出られるのか、って……」
――自分達が元の生活に戻る未来だなんて……今や想像が出来なかった。
「ここから出たやつなんぞ数えきれん程おるわ。……安心せい。ここから出たやつは皆、ここでの事は忘れて幸せに暮らしておる。――模範生としてな……」
「……別に、忘れたいわけじゃない。自分が生きる為に人を殺しておいて、忘れて生きていく気なんて……」
「いや、忘れるのじゃよ。そういうもんなのじゃ。……皮肉なもんだと思わんか? 善を訴え、手を汚さんとする者は一生地獄の中だ。……逆に、己の命を選び、悪行を働いた者は日の目を見る。全てを忘れ、幸せな生活を送るのじゃ。……この街は、神から見捨てられたのかのう」
――神に見捨てられた……。
見捨てられているのは、ここと二番区だけだ。その他の街は、神の腕の中にあるといっても過言ではない……。
「……じじぃは、どうして此処に?」
「わしは、旧刑務所からの引き継ぎじゃ。ここがまだ刑務所だった頃からおる。……丁度、BIANCOが設立した当初じゃな。この街の規約が、まだ曖昧だった頃じゃ」
「それじゃあ、本当に罪を……?」
「……ああ、罪を犯した。決して赦されん罪じゃ」
「それからずっと此処に?」
「……わしはこれ以上罪は犯さん。臆病者なんでな、人殺しなんてようせんわ」
「じゃあ、何で刑務所なんかに……?」
「……時間じゃ、ゼノン。戻らねばならん」
「戻るって何処に? まだ聞きたい事が!」
「……わしはもう老いぼれじゃ。殺気立った若者達の中に押し込められとると、寿命が縮まる。夜の少しの間、人が少ない棟に移動させてもらっとるのじゃ」
「待って! リノ! リノの事も――」
――壁越しに、老いぼれが立ち上がる気配を感じる。
「……また話をしよう、ゼノン。また、老いぼれの話し相手になってくれ」
「――時間です」
「あぁ、分かっておる」
――あれ、この声……。
何処かで聞き覚えがある……。
「誰だ……?」
「ゼノン、お前さんと話が出来て良かった」
「お、おい……! じじぃ!」
だが、老いぼれは俺の言葉に答える事は無く、部屋の扉が閉まる音だけが響いた。
最後の男の声、何処かで聞いた記憶があるんだけど……。
「それに、どうしてリノの事……」
もしかして、昔のリノの事も知っているのだろうか……。俺の両親の事も、聞いてどうするつもりだったんだろう……。
「はぁ、ダメだ……」
いろんな事を考えていると、だんだん意識が薄れていく。
……それから俺は、すぐに眠りに落ちていった。
「ゼノン・バリオーニ、ヴァロア・ドルチェ、リノ・パルヴィス……。まさか、このタイミングで三人が揃うなんて、なんの因果じゃろうな、ルイス。……契約は覚えておろうな?」
「――はい」
「神は、まだわしを迎える気はないようじゃな。忙しくなる……」
「また、明日のこの時間にお迎えに上がります」
「ああ、頼んだぞ。……ついにこの時が来たようじゃ、アルド。……アルド・バリオーニ」