表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Binaco  作者: 水瀬いちか
8/20

8 老いぼれ

――目覚めは最悪だった。

昨日、監獄に戻った後も、リノの服についた血の匂いが部屋に充満し、とても耐えられるものではなかった。

俺は、リノをヒュッテに連れて行き、体や服についた血を洗い流し、ルイの上着に着替えさせた。――俺もそんなに大きい方ではないけど、俺の服はブカブカで、リノには合わなかった。

誰かさんは、『ソーセージの食べ過ぎ』としつこく、今度手料理を振る舞うと張り切っていたが……。

――ルイの手料理……出来れば遠慮したい。

そして、目覚めが最悪な原因は、もう一つある。

ロマーノが来た事によって、一人分の毛布が足りず、誰かが二人で寝る必要があった。 ――当然、俺とロマーノが一緒に使う予定だったけど……、ルイが割って入ったせいで、ルイとロマーノの間で軽い抗争が起きた。

最終的に、『日替わりゼノン』という結論で収まり、昨日は俺とロマーノが一緒に使う事になったのだが……。『上着がなくて寒いから』という理由で、ルイが俺達の毛布に潜り込んで来て――今に至る。

両サイドを固められた俺は、全然疲れが取れず、最悪な目覚めだった。

「おはよう、ゼノン。足の具合はどうだ?」 目覚めた俺に、ヴァロアが声をかけてきた。

「……おはよう。足は……まあ、だいぶ良くなったかな。それより……」

「ははっ。ルイは、ゼノンから離れたくないみたいだな。ゼノンに対しての独占欲には、正直俺も驚いているよ」

 ヴァロアは、俺にしがみついて寝ているルイを見て笑った。

「何でこんなに懐かれてんだろ……」

「どうだろうな、一人っ子なんじゃないか?」

「ルイが弟なんて、俺はごめんだ……」

「……起きてたら、泣いて家出するぞ」

「まだ寝てる。――それより、リノは?」

 ルイの隣で寝ていたはずが、姿が見えない。

「……早朝に出て行ったよ。俺のせいで、家出かな」

「ははっ、家出なら戻ってくるだろ」

「……すまなかった。……昨日、笑ったリノを見て、何とも言えない気持ちになってな……。だが、あの場で、あんな事を言うべきじゃなかった……」

 ヴァロアは、申し訳なさそうに眉を下げて俯いた。

「……俺だって、同じ事思ったよ。昨日のリノを見て、恐ろしいと思ったし、リノの本当の姿はこっちなんじゃないか……とも思った。だけど、ロマーノが言った事も分かるんだ。誰かがやらなきゃいけなかった。……もし、誰も出来なかったら、俺達は……」

「……そうだな。それこそ、家出じゃ済まされない」

「俺も、リノのフォローは試みるけどさ。伝わるかどうか……」

 昨日のリノを思い出すと、俺は少し絶望感を感じた。試みるとは言ったものの、気持ちの通っていないリノを相手に、どう伝えていいのか分からない。

ヴァロアは、少しの間難しい顔をして、やがて溜息を吐いた。

「……その事なんだが、ゼノン。今日の奉仕には、俺とルイとロマーノで参加しようと思う」

「――え?」

「清掃班の治療を受けたって言っても、まだ休んでおいた方がいい。傷口から感染症を起こしても大変だ」

「大丈夫だよ、もう痛みも治まったし!」

「――その代わりと言っちゃあれなんだが……。ゼノン、リノと残ってくれないか?」

「リノと、二人で……?」

 ――昨日の今日で、リノと二人で居残りだなんて、一体何を話せばいいんだ……。

「――ああ。……考えていたんだが、リノはここで生まれたって言ったよな? いつからこんな事を強要されていたかは分からないが、きっと今までも、チームを組まされてきたはずだ。……俺の勝手な推測にすぎないが、リノが関わってきた奴等は、昨日の俺のようなヤツばっかりだったんじゃないかと思ってな……」

「……どういう意味?」

 俺は、ルイが起きないように、静かに毛布から出て座り直した。

「リノは、殺しに慣れすぎている。昨日も、躊躇いなく引き金を引いただろう? そんなリノを見ると、誰だって恐ろしいと思う。化け物扱いして、リノを遠ざけてしまうだろう……」

 ――化け物……。

その言葉は、昨日のリノを表す言葉にはピッタリだった。返り血を浴びて微笑む姿……、その姿はまさに、正気を失った化け物そのものだ。

「リノが、どうしてそうなったかは分からない。あんなにも感情を失っている理由も。――だが、きっと……それが、幼いリノに突き付けられた唯一の選択だったんだと思う。誰も助けてくれない監獄の中で、『生きる』という、当たり前に与えられている選択肢を、幼いリノは汚れのない小さな手を血に染める事で得た。――そんな現実の中で、俺だって人でいられる自信は無い……」

「生きる……為に」

「……そうだ。仮に、の話だがな。……だからこそ、昨日の俺の態度は、リノを傷付けたかもしれないと思ってな」

「リノが、傷付く……? ……あるのかな。そんな感情……」

「……分からない。昨日、リノが言った言葉を考えてみたんだ。『誰かの為に人を殺せた』って……。――じゃあ、今まではどうだったのかって考えた」

「……生きる為?」

「……おそらくな。自分が生きる為に、人を殺す。……俺達があんなに奉仕を拒否したのは、罪の意識があるからだろう? それが、罪だと分かっているからだ。――だが、リノだって、同じだったかもしれない。自分の存在が、罪で、悪で、汚らわしい。死の上でしか生きられない。――その行為を、初めて、自分の為では無く、誰かの為に使ったのかもしれない。……あのポイントは、リノにはつかない」

「あっ……」

 ――昨日のあれは、俺達にここで生きる術を教える為だった……?

「それを俺は……、撥ね退けて、怒鳴りつけた。あの時のリノの顔が、離れないんだ」

「親に怒られた時みたいに、怯えて、畏縮してたな……。……でも、何で俺に?」

「リノは一番に、ゼノンにIDブレスを渡そうとしただろう? ……あの時の顔、ゼノンに認めて欲しくて、受け入れて欲しくて、その想いを突き返されないかどうか不安そうな顔で待っていた。そう感じなかったか?」

「確かに。リノ、泣き出しそうな顔で……」

 ――一生懸命、笑おうとしていた……。

「……だけど、誰もリノの手を取らなかった。誰も受け入れてやらなかった。俺に至っては、リノを怒鳴りつけた……。それが、家出の原因だろう。だからゼノン、ゼノンさえ良ければ……」

 ヴァロアは、何度も手を組み直しながら、言いにくそうに俺を見た。

「……ああ。やってみるよ。……実は俺さ、初めて会った時から、何か自信あるんだ。リノと、心を通わすことが出来るんじゃないかって……。まぁ、バカみたいな話だけどさ」

「俺も信じてるよ、ゼノン。――特に、ここの男達は、ゼノンの事が好きで好きでたまらないみたいだからな」

 ヴァロアは立ち上がり、俺の後ろで横になっているルイに毛布を掛け直した。

――こうやって隣に並ぶと、やっぱり一番男らしい体つきをしている。……毛布を掛け直している姿なんて、父親みたいだ。

「……やめろよ。ルイだけだろ」

 そう言って俺たちは久しく笑いあった。


 それからしばらくして、ルイとロマーノが目を覚ました。――二人が隣同士になっていた事で、再び抗争が起きたことは言うまでもない。

そして、二人が俺を挟んで火花を散らしている時、バゲットを抱えたヴァロアと、自分の服に着替えたリノが戻ってきた。

「リノッ!」

「……ヒュッテの前に居たよ。初めて皆でバゲットを食べた所だ」

「良かった……。――リノ、服乾いてたか?」

「……」

 リノは相変わらず何も答えず、綺麗に畳んだ上着をルイの前に置いた。

「リノ、ゼノンは足を痛めてる。今日の奉仕には、俺とルイとロマーノで行く予定だ。……ゼノンの事、任せていいか? リノに頼みたいんだ」

「えっ! ゼノ残るのっ!?」

「当たり前だろ! ゼノンは怪我してんだ、連れていけるか!」

「あんたに聞いてないよ! 俺はゼノに聞いてるの!」

「こんのっクソガキ……」

 ――ルイのヤツ……。

何でここまでロマーノに突っかかるかな。

「頼んでもいいか、リノ?」

「はい……」

「有難う。リノが居てくれるなら、安心だ」

 ヴァロアは、俺に目配せをし、にっこり微笑んでみせた。俺も、それに微笑み返す。

……って! 

何、柄にもない事してんだ俺は!

「らしくねぇ……」

「あ、何だゼノン? 歯でも痛いのか?」

「やっぱソーセージだよ。ゼノ、あーんして。虫歯が無いか見てあげる」

「……バゲットを食べよう。奉仕が夜とは限らない。ちゃんと体力をつけておかないと……特に今日は、三人だけだ」

 ヴァロアは、呆れる俺とは対照的に、余裕の笑みを浮かべてバゲットを取り出した。

 ――その時だった。

ヴァロアの言う通り、『それ』は昼間っから鳴り響いた。

 ――ウォーーーーーン!!

「お出ましか……」

「……」

 登録された回収対象は一名。

――罪名は、非政府組織の設立。

この街では、BIANCOの存立に害を及ぼすものとみなされる危険思想は、罰せられる決まりになっている。

ヴァロア達は、無言で準備をし、奉仕活動参加者としてID登録をした。

「昨日はこんなの無かったのにね……」

「……全員だったからだろう」

「――リノ、頼んだぞ」

 そして、全員が重たい雰囲気の中準備を終え、三人は部屋を後にした。

残された俺は、昨日の一連を鮮明に思い出し、胃が熱くなっていた。

ヴァロア達は大丈夫だろうか……。

――そして、俺にも託されている事がある。

「リノ、服乾いてたか? 冷たくない?」

 俺は、リノの隣に移動し、腰を下ろした。

「……」

 ……まぁ、予想通りだ。

「……昨日の事、ごめんな。何と言うか……、リノの気持ちを蔑ろにしちまって……。本当に悪かった」

「……」

 返事が返ってこない事は、想定内だ。

俺は、リノの返事を待たず、一方的に話を続けた。

「俺さ、初めてリノに会った時、何か違和感感じたんだよ。リノの事一つも知らないのに、暗闇で動かないリノを見て、リノの本当の姿はそうじゃないって思った。おかしいだろ? 何も知らないのに……。――もう一つおかしい事言うと、『俺には出来る』って思った。リノがリノらしく生きられるように、自分なら、何か出来るんじゃねーかって……」

「……僕……らしく……」

「そう。……まずは一番に、笑って欲しかった。笑って、生きている事を誇りに感じてほしいと思った」

 ――そう、あんな狂った笑みでは無く……。

「……生きる事は……罪です……」

「リノが生きている事は、罪じゃない。……どうして、生きる事が罪だと思う?」

 リノは、洗い流して綺麗になった自分の手を見て言った。

「……僕の手は……赤い……」

「……それは、リノが生き延びる為に選んだ道だ。決して罪じゃない。――今日を生きる為、明日を生きる為、1か0か、右か左か……そうやって、最良の道を選んで来た結果だ。生き残る為に選んできた選択に対して、罪も善もない。……証だと思えばいい、リノが必死に生きてきた証だ」

「……証……」

「そうだ。――それと、俺の父さんは哲学が好きでさ、何度も聞かされた言葉があるんだ。どっかの哲学者の言葉らしいんだけど、『人生を恐れるな。人生には生きる価値があるのだ、との信念が価値ある人生を創造するのだ』ってさ……。難しいけど、今になって分かる気がするんだ。――人生には生きる価値がある。俺の人生にも、リノの人生にも」

「……父さん……?」

「ああ……死んじまったけどな」

「……どう……して……?」

「ははっ、初めてリノが質問したな。――でも、悪い。俺はまだ小さかったから、よく知らねーんだ。今となっちゃ、確かめようもないしな。――ただ……優しい人だった。俺は父さんが大好きで、父さんが家に居る時は、父さんの好きな哲学の本を読んでもらったり、いろんな映画を見たり……。特に父さんは、アメリカの……何て言ったかな、さっきの哲学者……」

「……ウィリアム……ジェームズ……」

「――そう、それ! リノ、よく知ってたな。哲学とか好きなのか?」

「……僕の父も……好きだった……」

「へー、リノの父さんかー。――どんな人?」

「……」

 ――しまった……。

リノは、『ここで生まれた』って言ってたよな。……触れるべきではなかったか。

「あー……えーと、ちょっと独り言言っていい?」

「……はい……」

 俺は、思いついた自分の昔話をした。

「じゃあ、ちょっとだけ……。俺な、昔は十五番区に住んでたんだ。今じゃ考えられねーけど、礼儀正しくて、頭の良いガキだった。クラスの中でも成績トップで、結果が出る度、父さんは俺を抱きしめて喜んでくれたんだ。それがすっげー嬉しくてさ……。多分、父さんに抱きしめて欲しくて頑張ってた」

「……はい……」

 ――何の意味があるかは分からないけど、ただ少しでも自分の事を分かって欲しい。

「父さんは、『大切な事は勉強だけじゃない』って言ってたけどさ、俺は、もっと上を目指したかった。……俺、儀礼祭で代表スピーチをしたかったんだ。もちろん、父さんに喜んで欲しかったから……。それを言った時、『ゼノンが成人ナンバーを貰えるだけで嬉しい』とか言ってたけどさ、父さんすっげーはしゃいでて……。――俺、『ああ、絶対に頑張ろう』って誓ったんだ」

「……はい……」

「――あ、あと、成人の祝いに、酒を御馳走してもらう約束もした。父さん行きつけの酒屋で。リノ、酒屋って分かる?」

「……女の人と……お酒が……出る所……」

「ははっ、女の人は出てこねーけどな。いろんな人と一緒に酒を飲む所だ。十五番区の酒屋には、上質の酒と女がいる、……らしい。俺は、二番区の酒屋しか行った事がねーから、父さんの受け売りだけどな」

 ――ここまでは、俺自身何度も思い返してきた記憶だった。ただ、この後の事は……とっくの昔に捨て去った過去だ。

「……はい……」

「――だけど、どれも叶わなかった……。ある日、父さんは帰ってこなかった。その代わりに、ID返還届と、強制立退きの催促書が届いたんだ。――俺、勉強は出来たのにさ、その書類の意味だけは何度読んでも理解できなかった。父さんが死んだ事を、どうしても受け入れる事が出来なかったんだ」

「……」

「……家を出る時なんて、何を持って何処に行けばいいかさえ分からなくて……。父さんが好きだった哲学書、映画……詰め込めるだけ詰め込んで、家を出た。その日は大雨で、父さんのでっかい傘をさして、十五番区を彷徨った。……でも、行くあてなんて無かったからさ、気付いたら、父さんと歩いた道ばっか選んで歩いてるんだ、俺……。それで、最後は家に着いちまう。――そんな事を何度も繰り返したけど、『立退き』の紙が貼られた家を前にすると、『本当に独りぼっちになっちゃったんだ』って、父さんの死を認めるしかなくて、泣きながら家をあとにした……。それで――」

 その時、俯く俺の頬に冷たい手が触れた。「痛い……?」

「……え?」

 ――リノの冷たい手が、俺の頬を覆う。

「……泣い、てる……」

「俺……何で……っ」

 俺は、無意識の間に涙を流していた。

――本当に、自分では気づかない間に……。

「……苦しい……? 痛い……?」

「違う……っ! 思い出して、涙が……」

「ここが……痛い……?」

 リノは、少し躊躇いながら、俺の心臓を触った。――服の上からでも、ひんやりとした感覚が伝わる。

「ちょっと違うかな……。痛いとかじゃない。父さんへの想いが生きてるから、今でも涙が出るんだ。痛いとか、苦しいからじゃないよ」

「……想いは……殺せばいい……」

 俺は、リノの目の動きを見逃さなかった。 俺の胸から手を離そうとした瞬間の、今にも闇に落ちて行きそうな目を……。

「手、冷たいな。……やっぱり服乾いてなかったのか?」

「……っ!」

「離さない」

「僕の手は……! 人を……殺す……」

「違う。……必死に生きてきた手だ」

「違う……っ」

「細くて、繊細で、触れると……痛い」

「……痛い……?」

「冷たくて、痛い。……ずっと、この手を握る人がいなかった。ずっと、温めてくれるくれる人がいなかった。……俺は、こんな手を知ってる気がするんだ……」

 ――その冷たく寂しい手が、どこか懐かしい。この目も、この指も、俺は何故だか知っている気がするんだ……。

「……」

 俺は、握っていたリノの手を、自分の心臓へ押し当てた。

「……何を感じる?」

「……音……」

「何て?」

「……跳ねる……ドクン……って……」

「リノからも、同じ音がする」

「……っ」

「今、早くなった」

「僕の……音……?」

「そうだ……。生きてるから、心臓が跳ねる。生きてるから、泣く。笑うし、怒る。……自然な事だ。――リノがいくら自分を殺そうとしても、ここが動いている限り、死なない。忘れるなら、何度だって聞かせてやる」

「……」

 ――俺の心臓が跳ねる度、リノの目は行き場を失くして泳いでいた。

「……リノは特別じゃないよ。今までの生き方は違っても、ここには俺と同じものが流れて、同じような音が響いてる。――俺は、ここが動く限り、これからも泣いたり笑ったり、人間らしく生きていくんだと思う。……リノにも、そうであって欲しいんだ。――俺の言ってる意味、分かる?」

「……はい……」

「……人生には生きる価値がある。そうだろ? 何もかも諦めたような生き方は、止めてほしい。その目も……こんな暗い景色ばかりじゃなくて、もっと色んな物を映してほしい。俺は一緒にここから出たい……」

「……僕にはっ……」

「『価値がない』は無し」

「……」

 リノは、追い詰められ、明らかに動揺した顔で俺の事を見た。

「さっきの話の続き。……俺な、その後、ある少年に出会ったんだ。その少年は、俺の命に価値はあるのかって聞いてきた。俺は、その質問には答えられなかったけど、その後もずっと気になってた。……一度だけ、その事を人に話した事があるんだ。――そしたら、そいつ、急にでっけー声出して怒ってさ。『自分の価値を決めるって事は、人が死ぬ時にする最後の仕事だ! 人生半ばで、自分に価値なんてつけんじゃねー!』って泣いて怒ったんだ。……笑えるだろ? ――俺の、もう一人の家族の言葉だ」

「……その……少年は……?」

「――え?」

「……何処で……?」

 ――こっちの話に食い付くとは……予想外だった。

「何処で会ったかって? もう十年も前の話だからな……。――多分、十五番区と十四番区の境、旧市街地への入り口辺りかな。橋の上だった……」

「……あなたは……その後……」

「俺は川に落ちたみたいで……、気付いたら二番区へ流れ着いていた。よく死ななかったと思うだろ? それからは、ロマーノに拾ってもらって……あ、もう一人の家族って言ったやつな。どうにか今まで生きてきた」

「生きて……」

 リノの深い灰色の目が、真っ直ぐ俺を捕える。まるで、その目に吸い込まれそうな不思議な感覚に、俺は慌てて目を逸らした。

「――って、ははっ。俺、こんな話するの初めてなんだ。自分の話とか家族の話。俺が家族から貰った言葉を、次はリノに……。弟でも出来たみたいだ」

「……弟……」

「俺の兄貴だって言い張るロマーノと、弟みたいに懐いてくるルイ。父親みたいに面倒見がいいヴァロア。……リノが入るとしたら、俺の下で……ルイの上かな。俺は一人っ子だったからさ、リノみたいな弟が欲しかった。――あ、ルイもって言わねーと、後々面倒な事になるかなぁ……」

「どう……して……」

 俺の手に、冷たい感覚が流れ落ちる。

「……リノ? 泣いてるのか……?」

 ――初めて見る。

リノの真っ白な肌に、ゆっくりと零れ落ちる涙……。思いがけないそれは、冬に舞う桜のように綺麗で、思わず魅入ってしまう。

「……っ」

「どうした……?」

 俺は、リノの涙を指で拭った。

「……あなたの手は……やっぱり……」

「……え?」

「……やっぱり……温かい…」

リノは、恐る恐る俺の手を取りそっと力入れた。手に零れてくる涙が、意外なほどに温かい。

「やっぱりって……?」

「……僕は……この手を……知っている……」

「え……?」

 リノの言葉の意味が分からず、聞き返そうとした、その時――

重い扉が開かれ、三人が戻ってきた。

リノは、握っていた俺の手を離して、再び俯いてしまう。

「……ただいま」

「――ルイ!」

 ルイの後に続いて、ロマーノ、ヴァロアが入ってきた。ロマーノとヴァロアは、苦虫を噛み潰したような顔をして俯いていた。

「どう……だった?」

「問題ない……」

「それじゃあ……回収――」

 俺は、ロマーノの服の裾にこびり付いている血を見て、口を噤んだ。

 ロマーノとヴァロアは、それ以上喋ろうとせず、ただ黙ってルイの方を見ている。

――三人の様子に、何か違和感を感じる。

「どうしたんだ……?」

「さぁ……」

 ルイは、横目でヴァロアとロマーノを見た。

「――いや、何でもないんだ。……それより、ゼノン。足の具合はどうだ?」

「……ああ、大丈夫だ。こっちも問題ないよ」

 ヴァロアは、落ち着いているリノの姿を見て、安心したように笑った。

「ありがとう、リノ。ゼノンの事、見ていてくれたのか?」

「……はい……」

「助かったよ。リノが居てくれてよかった。ゼノン一人置いて行くのは、気がかりだったからな。……ありがとう、リノ」

「……はい……」

 ヴァロアは、同じ返事の中の微妙な変化を見逃さなかったのだろう。俺の傍に来て、耳元で囁いた。

「さすがだな、ゼノン。このお礼は、必ずするよ」

「礼なんて――」

「……」

 しかし次の瞬間には、ヴァロアは難しい顔でルイの事を見ていた。

「……?」

 やぱり、二人の態度がおかしい……。

二人の態度をよそに、ルイは破った紙を引っ張り出し、再びパズルを始めていた。

「……」

「ルイ……?」

「何? 集中したいんだけど」

「……何かあった?」

「何かって何?」

「いや……」

「……何もないよ。心配してくれるんだ?」

 ルイは、生意気な顔で笑い、俺の顔を覗き込んだ。

「そりゃ、まあ……」

「……ふーん。じゃあ、両思いだね」

「……は?」

「俺も、ゼノ大丈夫かなって心配だった」

「ありがとう……」

「足は良くなった?」

「……ああ、もう平気だ」

「そっか。……良かった」

 ――何で逆に心配されてんだ……。

ルイは、俺の肩にもたれかかり、パズルを進めていく。

「……何かに集中する時間って、大切なんだ」

「そういえば、よくやってるけど……飽きないのか?」

「飽きないよ。パズルに集中している時は、いろんな事を整理できるから」

「整理って?」

「……一日の内で必要な記憶、そうじゃない記憶、ちゃんと整理していかないと、容量オーバーになる」

「容量オーバー? 俺は、ほとんど忘れていくからな……」

「そうなの? そっちの方がいいよ。――俺は、この時間を作らないと、全部の記憶が溜まっていく。……だから、必要なんだよね」

 ――そうじゃない記憶……。

今日の奉仕の事だろうか。俺が寝て忘れようとするのと同じで、ルイにとっては、この単調なパズルを組み合わせる時間が大切って事か……。

「悪い……。俺、何か邪魔したな」

 ――立ち上がろうとした俺の手を、ルイが引っ張った。

「隣に居て」

「……」

「……喋らなくてもいいから、ここに居て」

「分かった……」

 ――らしくないルイの発言に驚きながらも、俺は無言で座り直した。

ルイの進めていくパズルの手元を見つめながらも、俺達の様子を見張る二人の視線を感じる。

……あまり、気持ちのいいものではない。

「……まあ、暇つぶしになるからって理由もあるんだけど」

「え、俺?」

「違うよ、パズル」

「ああ……」

「家に居る時は、ずっとパズルしてた。元々外に出るのも好きじゃなかったからさ……」

「同じやつばっかり?」

「違うよ、今は本物が無いからこの紙で代用してるけど、家には何百個もあるよ。普段は五千ピース以上のパズルしか使わないんだ」

「五千っ! ――すげーな……」

「すごくなんかない、簡単だよ。初めの位置を全部覚えておけば、すぐに出来るよ」

「……五千だろ? 不可能だろ……」

「数の問題じゃなくて、もっと簡単な話だよ。――一番初めに完成形を見た時、自然にその映像が頭に焼き付くんだ。……それで、バラバラにしたピースを手にすると、頭の中の映像の一つが、『ここだよ』って言うように光る。――その場所にピースを戻していくだけっていう、単純な作業。勉強も同じだよ」

「はあ……俺には全く想像出来ねーけど……。ルイはすげーな!」

 俺の言葉に、ルイは手を止め、目を真ん丸にして俺の事を見た。

「すごい……?」

「あぁ、すごい!」

「……すごくないよ。ゼノだって出来るよ。……それに、一つだけ出来ないやつもあるしね」

「何で?」

「分からない。ピースが揃わないんだ。何処に置いたか忘れるなんて、ありえないのに……」

「あ、それ分かる……」

完成一歩手前まで進めて、最後のピースが揃わない時の悔しさと言ったら……。

「ねえ、ゼノ……。ここから出て、家に戻ったら、ピース見つかるかな? 完成させること出来ると思う?」

 俺は、軽い気持ちで質問に答え、ルイの頭に手を置いた

「ああ、見つかるだろ。そういう探し物は、時間が経って急に出てきたりするからな。――見つかるよ、きっと」

 だがルイは、頭に置いた俺の手に触れ、驚くほど強く力を込めた。

「そうだよね……。それじゃあ、やっぱり、ちゃんと探さなきゃいけないよね、あの子の事……」

「パズル……?」

「……ゼノは、信じててね。俺の事……」

「……え? ああ……」

 正直、途中からルイの言っている事が分からなかった。

話の内容もそうだが、それより……ロマーノとヴァロアの張り付くような視線。――二人は、明らかに俺とルイの会話に耳を澄ませている。

……三人の間に何があったのか。

そうはっきり聞きたかったけど、それからルイがずっとベッタリで、結局その話は聞けないまま毛布に入った。

そして、三人は精神的な疲れからか、すぐに眠りについた。――リノに関しては、相変わらず寝ているのか起きているのか分からないが、微かに寝息が聞こえてくる。

「……寝るか。明日は、俺も参加するんだから……」

 だが、目を閉じると……今日のロマーノとヴァロアの態度が気になってしまう。ルイの様子だって、明らかにおかしかった。

「不安……なのかな」

 ルイは、俺の手を握ったまま、寄り添うようにして眠っている。

――三人の中では、一番年下だ。

強がっていても、恐れは消えないだろうし、逃げ出してしまいたい気持ちだってあるはずだ。十五番区で暮らしてきた少年には、あまりにも受け入れがたい現実だろう。

「出ような……、ここから……」

 俺は、ルイの綺麗なブロンドを撫でながら、そう呟いた。

「小僧、生きておったのか?」

しかし、その答えは意外な所から帰ってきた。

「小僧、まだそこにおったか」

 ……この声、確か初めての夜にも聞いた……?

 その声は、部屋の隣から聞こえてくる。

――隣の部屋は、コンクリートに仕切られていて見えないが、足元の十五センチ程隙間から、男の座っている後ろ姿が出来た。

「え……俺の事?」

「……何じゃ。お前さんの事ではないわい!」

「……何だよ。じゃあ誰の事だよ」

 ――失礼なじじぃ……。

「ふんっ、声をかけてみれば……、とんだ勘違い野郎じゃ。――お前さん、名前は?」

「……ゼノン」

「ファミリーネームは?」

「バリオーニ……」

「バリオーニ……?」

「……?」

 ――何だ? 

「お前さん、両親は健在か?」

「母親はいない。……父親は、死んだ」

「……その部屋には、誰がいる。全員の名前を教えてくれ」

「……ルイ・ザネッティ、ヴァロア・ドルチェ、ロマーノ・ウジエッリ、リノ・パルヴィスだけど……聞いてどうするんだ?」

「――なんと……。神はわしにとんでもない機会を与えおった……。これで、ようやく赦されるのか、やっとこの時が来た……」

 ――その老いぼれは、声を震わして独り言を呟いた。

何の話をしているのか、全く分からない。

「何だ……? じじぃ、確か何日か前も話しかけたろ?」

「じじぃとは失礼な! わしはまだボケとらんぞ!」

「若者が『じじぃ』とか言うかよ」

「ふんっ、わしはまだまだ現役じゃよ。これだから若いヤツは……」

 ――声を尖らせて、ブツブツと小言を挟む。

そして、気が済んだのか、やっと話の本題に入った。

「わしはな、……人を探しておった」

「人を? ここの部屋でか?」

「……もういい、見つかったよ」

「え、誰を――」

「――ゼノン、と言ったな? お前さん、どうしてここに来た? 全て話してくれるか?」

「え? ああ……」

 ――二番区にいる時は、見ず知らず人にホイホイ話をするような事は無かった。

だが、ここに来て警戒心が緩んでいるのか……同じ場所に収容されているってだけで、俺は何故か今までの経緯を話してしまった。

「――なるほど……。儀礼祭前に捕まりおったか……。ここへ来て何日が経つ?」

「三日だ……」

「……三日。ゼノン、もう一つだけ質問じゃ。リノ・パルヴィスは、生きておるんじゃな?」

「リノ……? ……ああ、ここにいる。皆でここから出ようって、約束したけど」

 ――どうして、リノの事を……?

「ここから、出ると……?」

「あぁ、そうだ」

「そうか……。それじゃあ、老いぼれからの質問は終わりじゃ。お前さんも聞きたいことがあるじゃろう。何でも聞けばいい。――わしはここが長い。話せることは話してやろう」

「何でも……?」

 ――聞きたい事は、幾つもある。

この施設の事、奉仕活動の事、そして、さっきの質問の意味……。

だけど、その前に絶対に確かめたい事……。

「今まで、この施設を出た人はいるのか?」

「何だ、聞きたい事はそんな事か?」

「……不安なんだ。ここから出ようなんて偉そうな事言って、皆を励ました気でいるけど、本当は俺自身が一番疑ってる。……本当にここから出られるのか、って……」

 ――自分達が元の生活に戻る未来だなんて……今や想像が出来なかった。

「ここから出たやつなんぞ数えきれん程おるわ。……安心せい。ここから出たやつは皆、ここでの事は忘れて幸せに暮らしておる。――模範生としてな……」

「……別に、忘れたいわけじゃない。自分が生きる為に人を殺しておいて、忘れて生きていく気なんて……」

「いや、忘れるのじゃよ。そういうもんなのじゃ。……皮肉なもんだと思わんか? 善を訴え、手を汚さんとする者は一生地獄の中だ。……逆に、己の命を選び、悪行を働いた者は日の目を見る。全てを忘れ、幸せな生活を送るのじゃ。……この街は、神から見捨てられたのかのう」

 ――神に見捨てられた……。

見捨てられているのは、ここと二番区だけだ。その他の街は、神の腕の中にあるといっても過言ではない……。

「……じじぃは、どうして此処に?」

「わしは、旧刑務所からの引き継ぎじゃ。ここがまだ刑務所だった頃からおる。……丁度、BIANCOが設立した当初じゃな。この街の規約が、まだ曖昧だった頃じゃ」

「それじゃあ、本当に罪を……?」

「……ああ、罪を犯した。決して赦されん罪じゃ」

「それからずっと此処に?」

「……わしはこれ以上罪は犯さん。臆病者なんでな、人殺しなんてようせんわ」

「じゃあ、何で刑務所なんかに……?」

「……時間じゃ、ゼノン。戻らねばならん」

「戻るって何処に? まだ聞きたい事が!」

「……わしはもう老いぼれじゃ。殺気立った若者達の中に押し込められとると、寿命が縮まる。夜の少しの間、人が少ない棟に移動させてもらっとるのじゃ」

「待って! リノ! リノの事も――」

 ――壁越しに、老いぼれが立ち上がる気配を感じる。

「……また話をしよう、ゼノン。また、老いぼれの話し相手になってくれ」

「――時間です」

「あぁ、分かっておる」

 ――あれ、この声……。

何処かで聞き覚えがある……。

「誰だ……?」

「ゼノン、お前さんと話が出来て良かった」

「お、おい……! じじぃ!」

 だが、老いぼれは俺の言葉に答える事は無く、部屋の扉が閉まる音だけが響いた。

最後の男の声、何処かで聞いた記憶があるんだけど……。

「それに、どうしてリノの事……」

 もしかして、昔のリノの事も知っているのだろうか……。俺の両親の事も、聞いてどうするつもりだったんだろう……。

「はぁ、ダメだ……」

いろんな事を考えていると、だんだん意識が薄れていく。

……それから俺は、すぐに眠りに落ちていった。


「ゼノン・バリオーニ、ヴァロア・ドルチェ、リノ・パルヴィス……。まさか、このタイミングで三人が揃うなんて、なんの因果じゃろうな、ルイス。……契約は覚えておろうな?」

「――はい」

「神は、まだわしを迎える気はないようじゃな。忙しくなる……」

「また、明日のこの時間にお迎えに上がります」

「ああ、頼んだぞ。……ついにこの時が来たようじゃ、アルド。……アルド・バリオーニ」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ